北海道・東北の城 |
1 | 根室半島チャシ跡群 | 2 | 五稜郭 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「チャシ」はアイヌ語で砦や柵による囲いの意味。16〜18世紀につくられ、戦闘・祭事・集会など多目的に使用された。北海道の道央から道東にかけて多く分布し、根室市には32ヵ所のチャシ跡が確認され、分布密度が濃い。 (2009年10月23日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 江戸幕府が箱館奉行所の防備を固める目的で築造した星形の西洋式の土塁。旧幕府脱走軍と新政府軍との間でくり広げられた箱館戦争の激戦の舞台となった。 (1989年7月29日、1997年7月26日、2009年9月3日、2012年7月6日登城) |
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3 | 松前城 | 4 | 弘前城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 江戸幕府が外国船の出没に備えて、嘉永3年(1850)に松前藩に命じて築城させた。基となったのは慶長5年(1600)から6年をかけて築かれた福山館という陣屋。最後の日本式城郭。戊辰戦争で旧幕府軍の攻撃を受け落城。天守は昭和24年(1949)に火事で焼失。昭和35年(1960)に鉄筋コンクリートで再建。 (2009年9月3日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 津軽信枚が慶長16年(1611)に築城。天守は五重であったが落雷で焼失。文化7年(1810)に、本丸の辰巳櫓を三重に改築して天守代用とした。関東・東北地方で唯一の現存天守。その他、3基の櫓と5棟の門が往時の姿を留める。 (2009年9月4日登城) |
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5 | 根城 | 6 | 盛岡城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 南北朝時代に国司代に任じられた南部師行が城として修築、陸奥の南朝方の一大拠点となる。秀吉の諸城破却令により堀などが壊され、居館は残るも、その後に廃城。本丸跡には主殿が復原されている。 (2009年9月20日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 南部信直・利直父子が、北上川と中津川の合流地点の残丘上に総石垣造の城を築城、以来南部氏代々の居城として明治維新まで続いた。明治7年(1874)に破却。 (2009年9月19日登城) |
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7 | 多賀城 | 8 | 仙台城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 奈良時代に築かれた陸奥国府と鎮守府を兼ねた城柵で、律令国家の行政と軍事の拠点。 (2009年9月19日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 鎌倉時代創築と伝えられる千代城があった青葉山に伊達政宗が築城。城の四方が広瀬川の渓谷や断崖に囲まれた天然の要害。天守は築かれず、本丸御殿や二の丸御殿などの建物群も明治時代に破却され、さらに昭和20年(1945)の空襲で焼失。 (2009年9月19日登城) |
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9 | 久保田城 | 10 | 山形城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 関ヶ原の戦い後、常陸から出羽秋田に転封された佐竹義宣が築城。石垣がほとんど用いられていない。天守や三重の櫓のない質素なつくり。久保田城唯一の現存建物として御物頭御番所が残る。 (2009年9月5日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 奥平氏、堀田氏、松平(大給)氏、秋元氏、水野氏 最上氏の祖・斯波兼頼が延文2年(1357)に創築。戦国時代末期に最上義光が大規模な平城に拡張整備し、その後入った鳥居氏が大幅な改修を行い城の形が定まった。本丸に天守はなく、防御の中心は二の丸におかれていた。二の丸東大手門が木造再建され、本丸一文字門の石垣が復元整備されている。 (2009年9月20日登城) |
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11 | 二本松城 | 12 | 会津若松城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() 嘉永20年(1643) ![]() ![]() 嘉吉年間に畠山満泰が白旗ヶ峰に築いた山城。その後伊達氏に攻められ畠山氏は滅亡、蒲生氏が入ると石垣を用いた城郭として改修され、嘉永4年(1627)に入った加藤氏によって現在の近世城郭の姿に大改修。嘉永20年(1643)に丹羽光重が入封し、三の丸御殿、箕輪門をつくり城下町を整備。戊辰戦争で新政府軍に攻められ落城し、建物は全て焼き払われた。現在、本丸の石垣や櫓などが復元整備されている。 (2009年7月19日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 室町時代からあった葦名氏の黒川城を蒲生氏郷が改修し、名称を黒川から若松に改めた。その後も蒲生氏や加藤氏によって大規模な改修が行われ、東北屈指の名城となる。幕末の戊辰戦争では新政府軍との戦いにおいて1ヶ月も籠城に耐える堅牢ぶりを見せる。戊辰戦争でダメージを受け明治初めに取り壊された天守は、昭和40年(1965)に再建。 (1994年、2009年7月18日登城) |
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13 | 白河小峰城 | |||
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 松平(越前)氏、松平(久松)氏、阿部氏 古くから館が築かれていた小峰ヶ岡に丹羽長重が江戸幕府に命じられて築城。戊辰戦争で奥羽越列藩同盟と新政府軍の激戦地となり、三重櫓などを焼失。平成3年(1991)に三重櫓、平成6年(1994)に前御門を、発掘調査や絵図などを基に木造による伝統工法で再建、「平成の城復元ブーム」の先駆けとなる。 (2009年7月18日登城) |
100名城以外の城 |
勝 山 館 | 戸切地陣屋 | 四 稜 郭 | ||
(北海道檜山郡上ノ国町勝山) 後の松前氏の祖となる武田信広が、1470年頃に築いたといわれる山城であり、16世紀末頃まで武田(蠣崎)氏の日本海側での政治・軍事・北方交易の一大拠点であった。享徳3年(1454)、安東政季の蝦夷島渡りに従って海を渡り、上ノ国花沢館の蠣崎季繁に身を寄せていた武田信広は、「コシャマインの戦い」での功績により、蠣崎季繁の娘を娶り、蠣崎氏の跡を継いで、勝山館を築いたといわれる。勝山館は蠣崎(武田)氏の本拠として栄えたが、永正11年(1514)、信広の子・光広が勝山館から松前大館に本拠を移し、安藤氏の夷島代官となったことにより、勝山館は松前大館の脇館となり、慶長年間(1596〜1614)の初めまで城代が置かれた。5代目の蠣崎慶広が、豊臣秀吉や徳川家康から夷島の主と認められ、名前も松前と変えた頃、勝山館の支城としての役割は減じてきたので、この頃に廃城となったと考えられる。館は、夷王山の中腹、日本海を見下ろすことができる、宮ノ沢と寺ノ沢に挟まれた広い尾根上にあり、三段の大きな平地となっている。二段目と三段目の前後には大きな空堀を設け、曲輪の中央には真っ直ぐな通路が通り、その両側に多数の住居が並んでいたという。現在は、国指定史跡としてきれいに整備され、ガイダンス施設も建てられている。 |
(北海道北斗市野崎) 安政2年(1855)、蝦夷地全域を直轄領とした幕府が、外国船に対する警備のため、松前藩に命じて築造させた西洋式築城法による陣屋である。その形状は、四稜郭となる稜堡式築城で、南東部の稜堡が突出して築かれており、そこに6基の砲座が配置されている。石垣は用いられず、すべて土造りで築かれ、郭内には17棟の建物があり、約120人の藩兵で守備していたという。明治元年(1868)、榎本武揚ら旧幕府脱走軍が鷲ノ木に上陸し、陣屋を守備していた松前藩兵は大野付近で会戦するが撃破され陣屋に退却。さらに陣屋への追撃を受け、陣屋守備隊は自ら陣屋に火を放ち、松前と箱館へ退却した。昭和40年(1965)、国史跡に指定されきれいに整備がされており、また道南の桜の名所としても有名である。 |
(北海道函館市陣川町) 明治元年(1868)12月、五稜郭に蝦夷共和国を樹立した榎本武揚ら旧幕府脱走軍が、翌明治2年(1869)3月、新政府軍の攻撃に備えて背後を固めるため、五稜郭の北方約3kmの丘陵地に築いた洋式の台場で、築城担当は、旧幕府脱走軍の大鳥圭介とみられるといい、士卒約200名、付近の村民約100名を動員して、わずか数日で完成させたといわれる。東西約100m、南北約70mの範囲内に蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空壕を巡らせ、四隅に砲座が設けられたが、建物は造られなかった。明治2年(1869)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、四稜郭も新政府軍の攻撃を受ける。松岡四郎次郎が率いる旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めたが、四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領されると、退路を断たれることを恐れた旧幕府脱走軍は、数時間の戦闘の末、五稜郭へ敗走した。昭和9年(1934)に国の史跡に指定されている。 |
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志 苔 館 | 白 石 城 | 米 沢 城 | ||
(北海道函館市志海苔町) 一説によると室町時代の領主であった小林重弘によって築かれたといわれ、当時、道南地方にあった12の和人の館(道南12館)の一つであった。康正2年(1456)、志苔館付近でアイヌの武装蜂起、いわゆる「コシャマインの戦い」が起こり、館主・小林良景は防戦するが、アイヌとの圧倒的な兵力差により、翌康正3年(1457)5月14日、志苔館は攻め落とされた。その後、武田信広がコシャマイン父子を討ったことにより、アイヌ軍が撤退すると、小林良景の長男・良定が志苔館を回復して館主となった。永正9年(1512)には東部アイヌの首長であったショヤ・コウジ兄弟が蜂起し、この戦いで志苔館は再び襲撃されて陥落し、館主・小林良定は討死する。その後、小林氏が松前に移住して蠣崎氏に従属したため、志苔館は廃館となった。館跡は函館市の中心部から約9km離れた、函館空港のすぐ南側の標高25m程の海岸段丘南端部に位置しており、東西70〜80m、南北50〜65mのほぼ長方形の形をしている。四方は高さ2〜4m、幅10〜15mの土塁で囲まれ、その外側には壕が巡らされている。また、館跡正面にあたる西側には、二重の壕が掘られ、さらに外側に小土塁が巡らされている。昭和9年(1934)、国の史跡に指定されている。 |
(宮城県白石市益岡町) 慶長7年(1602)に仙台城の支城として伊達家家臣・片倉景綱が入城。一国一城令でも存続が認められ、明治維新まで存続した。本丸には天守代用の三階櫓が建てられていた。明治7年(1874)廃城令により取り壊されたが、絵図や古記録を基に、平成7年(1995)に木造で復元された。 |
(山形県米沢市丸の内) 天文17年(1548)、伊達晴宗が陸奥西山城から移って城と城下の整備を行った。伊達氏が岩出山に天封後、蒲生氏を経て、慶長3年(1598)に、上杉景勝が会津120万石で入封し、その重臣直江兼続がに米沢城に入城。関ヶ原の戦いで西軍についた景勝は30万石に減封され、米沢に移された。その後、江戸時代を通じて上杉氏の居城。現在城跡は上杉神社になっている。 |
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