4.鎌倉街道中道への興味から偶然タイミング良くテレビ番組「鎌倉街道夢紀行」に出会った私。
僕は今でも、かつて住んでいた東京は大塚・巣鴨等の山の手線の北側の地域を散策することが結構多い。
理由としては、やはり懐旧の念がそうさせる部分もあるからなのだろう、などと思っていた。
ところで僕は、聖蹟での勤務が終了した為、通勤で分倍河原を通る必要が無くなり、鎌倉街道の上道とは一先ず縁遠くなっていった。
それからしばらく経った、2000年の秋くらいであろうか、やはり例の如くふらっと山の手線の北側の地域に散策に出かけた。
ぐるぐると歩き回って夕方になってしまったが、帰路に向かう際、巣鴨から埼京線に乗る為に板橋へ行こうとし、ふとやっぱり南北線にしよう、などと駒込方面に向きを変えて歩いていた時のことであった。
そこで道の途中に坂の名を記した都の教育委員会が作成した道標(道音坂)が目に止まった。(写真)。
その道は今までも何回か通ったことがあり当然道標もあったと思うが、なぜかその日になって初めてそれが注意を惹いたのであった。
僕は注意深くそれを読んでみた。
そこで驚いたことに、なんと、そこにはその道がかつて鎌倉街道だったということが記されていた。
僕はスグサマ「東京の歴史」に記載されていた中道(なかつみち)のルートを思い出した。
ここがあの謎の旧鎌倉街道のルートだったのかっ!!・・・いや?だがまてよ?・・・。
ここですぐ疑念が生じた。
その辺りは北区西ヶ原であり、「東京の歴史」に記載されていて僕がイメージしていた板橋を通るルートとは若干位置がずれているのである。
かくして謎の鎌倉街道については、返って益々謎は深まってしまった。
こうなると街道好きの血が騒ぎ、無性に実際の「謎の真ん中の鎌倉街道のルート」への強烈な探求心が顔を出してきてしまった訳である
そうこうする内に昨年の11月30日になった。
その日の夜僕は東京のローカルテレビ「MXテレビ」を見ていた。
すると画面に「鎌倉街道〜」という文字が映った。
僕はハッと居直り画面を注視したが、やはりこれは大方又有名な上道(かみつみち)に関する内容の番組だろうと思い、まあとりあえず見るだけ見てみるか、などと最初はそれ程期待せずに見ることにした。
やはり現在「鎌倉街道」と言ったら一般的には町田や関戸を通る「上道(かみつみち)」のことを指し、旅のガイドブックなどにも「上道(かみつみち)」を扱ったものしか無い為、当初はそう思っていたのである。
ところがその番組を見ていたら、なんと「多摩川の兵庫島から世田谷を抜けて・・・」などと言っているではないか!。
要するにこれは、あの「謎の真ん中のルートの話」なのである。
僕のエネルギーのボルテージが一気に高まった。
なんて!タイミングの良い番組なんだ!・・・。
この番組こそ「鎌倉街道夢紀行」、この日は僕の疑問に回答を与えてくれた貴重な番組との出会いになった。
「鎌倉街道夢紀行」はシリーズものになっていて、実は「上道編」もちゃんと最初に放映されていたのであるが、僕が見たのは本当に偶然にも、まさに僕が知りたがっていた「鎌倉街道中道(なかつみち)」の都内を抜けるルートの回からだったのである。
通常「鎌倉街道中道(なかつみち)」について知りたいと思っていて、こうもタイミング良くテレビでその番組を放映するなんてことはあるのだろうか。
これはきっと何かのメッセージがあるのかもしれない、と不思議な縁を感じたのである。
そして、それがこのことだったのかもしれぬが、この番組は更に驚くべき情報を僕に与えてくれることになった。
5.実は、自分が深く慣れ親しんだ縁のある場所が、何のことは無い探していた鎌倉街道中道(なかつみち)だったことに驚愕の私。
「青い鳥」の話では、探し求めていた青い鳥は自分の家にいた。
僕の探し求めていた旧鎌倉街道中道(なかつみち)も、実は自分にとって意外に身近なところにあった。
「鎌倉街道夢紀行」は回を重ね、昨年の12月21日に都内東回りルートを紹介する最後の回の放映時になった。
西回りのルートの放送で、謎であった「旧鎌倉街道中道(なかつみち)」に関しても大部全貌が明らかになってきた。
西回りルートは多摩川の兵庫島辺りから杉並の大宮八幡〜新井薬師などを通って板橋・赤羽に至る。
一方東回りのルートは同じく多摩川の兵庫島辺りから代官山〜新宿を通り池袋〜王子〜赤羽に至るらしい。
従って「東京の歴史」に記載されていた概念図はこの東西ルートが一緒くたになって記されていたようだ、ということもわかった。
ところでこの番組を見ていく内に都内の随所で、かつて僕がフラリと訪れた場所が、実は鎌倉街道だったということがわかり、驚きと共に益々の好奇心を掻き立てられることとなった。
旧鎌倉街道は意外な所に存在していて、例えば表参道の歩道橋の脇や、代官山の八幡通り等が旧鎌倉街道なのであるが、そうした東京に暮らす人間にはお馴染みの場所が意外に鎌倉街道だという事実も面白いものがあり、きっとこれは僕ならずとも東京に暮らす人間には、ほんの僅かでも興味を惹くことなのかもしれない。
さて、12月21日、この日の放送を見れば、都内の中道ルートはほぼ明らかになり、僕の懸案の宿題も解決されようとしていた。
放送は新宿を出て、高田馬場から池袋に向かうルートの紹介になっていた。
前回は代官山から新宿御苑まで来た。
新宿御苑から池袋までどうして行くんだろう?
実は池袋、ということで、僕はここが鎌倉街道では無いか?と、ある通りをイメージしていた。
それは西口にある通称「平和通り」である。
位置的にも雰囲気的にも、きっとそうじゃないかと踏んでいた。
「平和通り」が旧鎌倉街道なら、確かにしっくりはくる。
そして放送では、ここが池袋だと紹介する場所の映像になった。
それを見た僕は、次の瞬間我が目を疑った。
それ以前の新宿や渋谷のルートだって実は学生時代や社会人になってからも良く通っていた道なので、なんだアソコは鎌倉街道だったのか!!、と軽い驚嘆の連続ではあった。
池袋と称された風景は僕が想像していた池袋西口の「平和通り」などでは無かった。
そこには「平和通り」などより、ずっと見覚えのある懐かしい情景が映っていた。
僕は「平和通り」のしっくり感など超越するような、もっと深い衝撃感に襲われた。
そして放送は更に王子のルートだと称して、四本木稲荷神社という古社を紹介していた。
僕は、そうかあ・・・そういうことだったのかあ・・・と、あまりにも個人的ではあるが劇的な展開にため息すら出てきてしまった。
池袋、と言っていたが正確には中心街を少しはずれた上池袋1丁目。
それから王子と紹介されていたが、正確には北区滝野川3丁目。
どちらのルートも何のことは無い。
僕が学生時代にしていた新聞配達で担当していた区域であった。
何のことは無い。かつて4年間に渡り毎日嫌と言うほど通っていた場所こそが、実は僕が知りたかった旧鎌倉街道中道(なかつみち)だったのである。
あれ程知りたかった旧鎌倉街道のルートを、僕はかつて毎日のように汗水垂らして、時には辛い思いをし、時には少しの喜びを感じながら、自転車でエッチラオッチラ通っていたわけなのである。
結局西ヶ原の道音坂のルートも、この東回りのルートの滝野川3丁目付近から分岐する支線として、かつて鎌倉街道と呼ばれていたことが判明した。
今から考えると結果論であるが、最初なぜか旧鎌倉街道に惹かれるような流れになってきたのは、僕の無意識は既に「アソコだっ、アソコがおまえの探している旧鎌倉街道なんだっ!!」と、かつて縁のあった場所こそがルートだとわかっており、それを僕に暗黙の内に語りかけてきたからこそ興味を持ったんじゃないかと言えるのではないかという気になっている。
おしまい(2001.6.3)。 |