Monologue50 (2000.12.20〜2000.12.25)

「2000.12.25(月)」・やっきりする

 何かにイラだって腹の立っている状態のことを俗に良く「ムカツク」などという。
 僕は静岡県の出身であるが、これと似たような状態を表す言葉として「やっきりする」という方言があった。
 子供の頃は、それこそ良く使っていたが、さすがに最近は使わなくなった。

 但し何となくちょと使って見たい気もする場面もある。
 と、いうのは「ムカツク」と「やっきりする」ではニュアンスに若干違いがある、ということによるのである。
 「ムカツク」というとそのムカツク対象に対して、言葉を発する本人がやや攻撃的な姿勢を示している、というニュアンスがある。
 一方「やっきりする」は、怒りもあるが、ムカツク対象に対しての攻撃的な姿勢は少し薄くなり、そこに更に「悔しい」という意味が加わる。だから時には対象に対して何も成す術の無い自分に対しても、攻撃が及ぶ場合があるのである。

 僕は家で半纏を着用しているのであるが、半纏は身体の前で紐を結ぶようになっている。
 その紐を結び忘れているのに気づかずにいて、カップラーメンなどにお湯を入れ、それを持ち運んだ後に、ふと気づくと紐がカップの中に浸っている時がある。
 カップラーメンも半纏も台無しである。

 この場合は、「ムカツク」では無く「やっきりする」になる。
 「やっきりする」がピッタリくる。

 ここでふと思った。
 標準語にはこのような心情を表す言葉があるのかな?、と。
 一番近そうな「悔しい」では何か違うような気がする。
 「地団駄を踏む」という同意の比喩的表現があるが、ちょっと大げさな感じだし、使いやすさ、語感等考えると、やっぱり「やっきりする」が一番適切である。
 よく漫画などで悔しい時に「キーーッ!」などという擬態語を使ったりするが、あの「キーーッ!」が一番近いかもしれない。

 ここで更にふと思った。
 若者が使う言葉、代表的なのでは「超〜」「ウゼエ」などというのがあるが、それらは、もしかしたら若者の心情・気分をそのまま言い表している言葉なのではないか?
 つまり若者が自分の心情を表すのに、今の標準語ではきっと語彙やニュアンスが不足しているのだ。
 つまり若者の今の心境は、まさに言葉が表している通りの心境なんだ、そんな気がしてきた。
 つまり若者は言葉を間違えて使っているのでは無く、自分の心情・気分をそのまま発しているだけなのだと、そんな気がしてきた。
 「超ウゼエ」という若者の気分は、まさに「チョオウゼエ」という言葉の響き通りになっているのではないか、そんな気がしてきた。

「2000.12.24(日)」・なんじゃ?

 普段競馬には疎いこのモテナイ独身エトランゼ(僕のこと)も、今日の有馬記念の第9レースには、思わず見入ってしまった。
 専門用語はわからないので、いい加減な表現になって申し訳ないが、勝者のテイエムオペラオーは最初は後ろの方にいたが、最後になってガーッと出て来て結局トップでゴールした。
 それを見ていて強者というか王者は、こんな勝ち方をするもんなんだなとつくづく思った。

 かつてNBAで3連覇を2度も果たしたマイケルジョーダンの属したシカゴブルズも、良く最初は手を抜いているような試合展開で、こりゃ負けるんじゃないかと見せかけておいて、後半大事な所で手堅く決めて結局勝ってしまう、というような試合をしていた。
 こんな余裕のある試合ぶりは実力のある者にしかできないのであろう。
 まさに釈迦が掌で孫悟空を転がしているかのようである。

 片やこのモテナイ独身エトランゼに、余裕を持って十分なコントロールの出来るものがあるのか?と自分に問いかけて見たが、そんなものがどこにもないことに、焦りだす始末であった。
 これでは王者になどなれない。
 せいぜいナンジャ?あんた、などと訝しがられるのがオチである。

 わかりにくかった方の為に一応ご説明しとくが、王者(おうじゃ)だけに、「じゃ」繋がりで「ナ・ン・ジャ」と、入れて見ました。
 ん?、説明するほどのことでも無いって?
 ごもっとも。

「2000.12.23(土)」鎌倉街道とりあえず歩いてみよ

 今日は東京豊島区上池袋に残存する鎌倉街道の残骸を歩いた。
 巷では20世紀最後のクリスマスと盛り上がるのをよそに、モテナイ独身エトランゼ(僕のこと)は「いいもん、オレには鎌倉街道があるもん」などと、鎌倉街道があることで何がいいのかわからぬが、そんな嫉妬めいた戯言をつぶやきつつ、師走の街道を一人トボトボと歩いていった。

 前回僕が東京に来たての頃、新聞配達で担当していた区域にあるこの道が鎌倉街道中道(なかつみち)の旧道であったというお話をしたが、このオチは僕の高校生くらいから始まる「街道散策人生」史においては、近年稀に見る大スクープであった。
 大げさに言うと、モテナイ独身エトランゼの今年の十大ニュースに、年の瀬のギリギリになって滑り込みで入ってきたキムタク&静香に勝るとも劣らぬトップニュースであった。

 普通、街というのは街道沿いや寺社仏閣の門前、駅前などにできることが多い。
 ところが東京の街を歩いていると、たまに「あれ?なんでここに商店が立ち並んでるんだ?」というような通りに出くわす時がある。
 このカミイケ(当時新聞屋内では上池袋をこう呼んでいたのでこの呼称を使用させていただく)の道は、まさにそういう感じの道で、商店街という程では無いが、飲食店や銭湯があり、古くからの街並みの雰囲気を醸し出していた。
 当時僕は、ふと、近くに寺社も何も無いこの街並みの出来具合に疑問を抱いたが、池袋が近いので、その延長でこうした通りがあるのであろう、くらいに思っていた。

 それがここに来てこの道が実は鎌倉街道の旧道だったことが判明した。
 それも実に15年以上の歳月を経た後に、である。

 この長年の疑問が解けた喜びは図り知れない。
 僕にとってこの喜びは皆様の御想像以上に大きい。
 なんでこんなことで喜べるのだ?と訝られるくらいに嬉しい。

 かように最近の僕の鎌倉街道に対する執心はいや増してきている。
 いや、「最近」では無い。
 実は今までもずっと鎌倉街道には魅せられて来ていたのである。
 今まで魅せられていたものの正体がハッキリしなかっただけだったのであろう。
 今回その正体の一部が「鎌倉街道」であることがわかった。
 いずれ今後の調査によっては、また驚くような事実が発見されるかもしれない。

 鎌倉街道がわかって一体何の得が有ろうか?何の為になるのか?、甚だ疑問ではある。
 しかし人生の路頭に迷っている感のある僕の目の前には、鎌倉街道が開かれているのだから、とりあえずじゃあその道を歩いてみるべか・・・などと自己納得している今日この頃である。

「2000.12.21(木)」・鎌倉街道、鳥肌立った

 鎌倉街道が青山・原宿辺りを昔通っていたのであるが、先日そこを歩いて見た。
 原宿の表参道の駅から明治神宮よりに少し行った伊藤病院のところの交差点を横切っているのが旧鎌倉街道の残骸であるが、この近辺は以前勤務していた会社が近くに有り、帰りに良く歩いたことのある道であった。
 この道を新宿方面に行くと代々木の北参道辺りに出るが、そこに着いた時、ふと以前友人の引越しの手伝いで来たり、深夜残業によるタクシーの帰宅で通ったりしたなあ・・・などという想い出が蘇ってきた。

 このルートは鎌倉街道の中道(なかつみち)の東回りルートというらしいが、東回りルートも西回りルートも以前何回か既に通った想い出のあるルートで、なんだ鎌倉街道だったんだ、と思うと感慨深い。

 ところで、この原宿辺りの道だけでも、かなり僕に取っては偶然の一致を感じさせ、只ならぬ縁を感じていたのであるが、今日のMXテレビ「鎌倉街道夢紀行」は、またその続編で新宿から池袋を経て赤羽に至るルートを紹介しており、それでトドめをさされた。

 原宿以降は、ルートは新宿御苑の中を通り、高田馬場を抜けて面影橋に道は至る。
 そしてここから池袋に行くのであるが、この辺は他ならぬ僕の学生時代の通学路であり、それこそ何回も通った道であった。
 そして道は池袋から王子へ至る部分を写した時に画面を見ていて、またしても懐かしい場所が出てきた。
 「あっ、この道は!・・・」と、びっくりしてしまった。
 僕が東京に出て来て新聞配達のバイトをしていた時に、初めて任された忘れもしない僕の担当区域であった。
 要するに、僕が東京で最初に慣れ親しんだ地域で、ほとんど毎日とおっていた道なのである。
 それこそ「なんだ、鎌倉街道だったのかあ!・・・・」である。
 これには、かなり鳥肌がたってしまった。
 明治通に斜めに出て行く道で、確かになぜ?こんな接続をしているのか不思議で、もしかしたら古い道なのでは無いかという気はしていたが、鎌倉街道だったとはねえ・・・、なる程ねえ・・・。

 そして更にそこから先の王子までのルートは番組内では紹介は無かったが、やはり僕の属した販売店の区域内であり、おそらくルートは翌年に僕が担当した区域を通っていると思われる。

 ここまで来て、僕は自分の人生の法則の重大な局面に気づいてしまった。
 今年前半まで僕が通っていた勤務先は聖蹟桜ヶ丘、すなわち鎌倉街道上道(うわつみち)付近に有り、僕は鎌倉街道旧道を良く通勤路として使っていた。
 そう、なんと僕の東京での生活は、ある時期を除いては、主として鎌倉街道の古道に沿って展開されていたのである。
 (ちなみに、そのある時期は西葛西から千葉方面に向かって生活が展開されていた。これも調べれば何かありそうな匂いはある)。

 なんてことだ・・・鎌倉街道・・・、コイツが、ここに来て急に僕の人生に意味を与えてきだした・・・。
 (そのわりに先日大きな書店に、この鎌倉街道の古道に関連した書籍を探しに行ったがうまいこと見つからなかった。せっかくイイ流れで来たのにな?、何がアト足りないんだろ?)。

 全然話は飛ぶが、この「鎌倉街道夢紀行」のすぐ後にやっていた宝塚のテレビ番組に出ていた宙組の久遠摩耶さんが、これがタイプで実際会ったら一目惚れしてしまいそう、って感じで見てて得した気分になって良かった良かった。

「2000.12.20(水)」・20世紀最後のpart2

 明日木曜日は「20世紀最後の古紙回収」の日となるので、思い腰をあげ「20世紀最後の古紙をまとめる作業」を行った。
 前回の古紙回収、すなわち「20世紀最後から2番目の古紙回収時」に提出するのを忘れていた為、新聞の量は2回分の膨大な量になり(スポーツ紙も有)、モテナイ独身エトランゼ(僕のこと)のイライラも募ることとなった。
 近年は古紙回収用の袋が支給されるのでそれに入れてしまえば楽であるが、そうでないときは新聞束を十字に縛らないといけない。
 これが非常にストレスのたまる作業となる。今回は2回分ということもあり支給された回収袋では全然足りず、縛る必要性が出てきた。
 幾度かの新聞束の崩壊、紐の弛緩による再縛、部屋の片隅に残存していた未読の古紙の整理洩れによる再作業、などといったような何度かの熾烈な戦い、過酷な時代を経て、ようやく幾つかの束に纏められた新聞紙を見下ろす時には、戦闘後の言いようの無い虚無感、やるせない無情感すら漂う。
 僕は纏め上がった新聞束の肩を叩きつつ戦いの日々を振り返る。
 一体何度積み上げられたこの新聞束の上に僕の怒りのパンチが炸裂したことであろうか・・・。
 「お前達がいなくなって、これで、しばらくまた平和な日々がやってくるんだな・・・」そう静かにつぶやく。

 そんな「20世紀最後の新聞紙との凄惨な戦乱」もなんとか無事終え、ついでに不燃ゴミもたまっていたので処分したいなあ、などと思いつつ、ふと市役所から提供されたゴミ回収カレンダーなるものを見てみると、今年の不燃ゴミの回収日は、なんと先週の月曜日が最終であった。
 「な、なにー?!、あの時が最後でござったかーっ!、20世紀最後の不燃ゴミ回収の日を忘却いたしておるとは何たる不覚!、何たる不手際ーっ!」(なんで時代劇調なんだよ・・・)。

 かろうじて不幸中の幸いだったのは、僕は乾電池の消費量がかなり多く、使用済みの電池がたまってきていたが、我が地域においては、幸い不燃ゴミと乾電池の回収日は分けられていたので、そちらはまだ20世紀の最後にはなっていなかった。
 今僕はその来るべき「20世紀最後の有害金属回収の日」の備えて日夜予断を許さぬ緊迫の日々を送っている。
 そんなに大げさにならずに、出すの忘れてしまったら「21世紀最初の有害金属回収の日」に出せば良かろうという意見もある。実際使用済み乾電池を20世紀に出すか、或いは21世紀に出すかで、一体どれほどの違いがあるのか?と問われれば、確かにほとんど違いは無いといっても過言では無い。
 ハッキリ言えばこんなことは「どうでもいいじゃん、そんなこと系」の事象に属するであろう。

 20世紀の終わりにあたって、もっと考えるべき高遠なものがあろうに、これから21世紀を迎えるにあたって、今一つポイントがズレがちなモテナイ独身エトランゼであった・・・とさ。

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