ザ・ロング・アンド・ワインディング鎌倉街道


まずはじめに 旧鎌倉街道と私 その1

 現在旧街道は「旧中山道」などというように表示板が立っていたりして、その所在は明確になっている場合が多い。
 ところで首都圏で「鎌倉街道」と言うと一般的には町田などを通っている幹線道路が知られている。
 元々鎌倉街道とは鎌倉幕府と地方を結ぶ為に、鎌倉幕府が新たに開発したり、場所によっては古代の官道を利用するなどして整備された道を称し、かつては当時の交通・政治・文化的にも重要な役割を果たしていた。
 しかしそれ以降江戸時代などに整備された五街道などの登場により、この鎌倉街道の幹線道路としての役目は終わり、道としても次第に廃れていった。
 そして現在鎌倉街道として名を残すのは先程の町田などを通るルートなどに僅かに存在するだけとなり、それ以外の道は開発と共に消滅したり、僅かに形態を残すもかつての幹線道路であった事情などは完全に忘れ去られてしまっており街の中に埋没している。

 こうしてもはや鎌倉街道は大部分が「幻の街道」と成り果て、そこがかつて鎌倉街道だったと知る人も少なくなっているようである。
 しかしながら、この道がたぶんそうだったのだろう、というような「残骸」が、あらゆる場所に残存している。
 
 僕は今この幻の街道鎌倉街道に魅了されている。
 そんな僕が、なぜどのように鎌倉街道に魅了されていったかという経過をまずは順を追ってお話しして置いておきたい。
 ん?キャバクラガヨイ?
 そう、こんだけ毎晩毎晩通うと身体がいくつあっても足りねえよ・・・。
 ちゃうッ!!
 キャ・バ・ク・ラじゃなくてカ・マ・ク・ラ・カ・イ・ド・オッ!!


1.鎌倉街道に限らず昔から旧街道跡が好き、という素地はあった私。

 元々高校生の頃から自転車で廃線跡や旧街道をブラリとサイクリングしたり歩くのが大変好きで、その傾向は現在まで続いている。
 東京に来てからも、旧中山道・旧東海道・旧日光街道・旧甲州街道・品川街道などを散策したりしていた。
 鎌倉街道は大部分が「幻の街道」になっていると述べたが、そんな街道を街道好きの僕が黙って見過ごす訳は無い。
 しかし最初は、こうした「幻の街道」になってしまった事情も良くわからぬまま、これから述べるような経過を経て次第に鎌倉街道に縁が出来ていたのであった。


2.聖蹟桜ヶ丘に通勤したことによって、鎌倉街道の上道(かみつみち)に縁ができた私。

 2000年6月まで僕は東京の聖蹟桜ヶ丘という場所に勤務しており、自宅から割と近距離だった為しばしば自転車で通勤をしていた。
 その際に現在のいわゆる鎌倉街道の通っている関戸というところを必ず経由していた。
 この鎌倉街道はかつての鎌倉街道上道(かみつみち)であり、現在も随分立派な幹線道路として現存している。今のいわゆる「鎌倉街道」であり、もちろん僕もその存在は知っていた。
 脇には旧街道が随所で確認でき、帰りに時間があれば良くその辺りの鎌倉街道旧道を通ったものであった。
 只この頃は鎌倉街道といっても今程深くは入り込んでおらず、あくまでも帰宅時に経由する通勤経路の一つであった。
 この頃はまだ鎌倉街道については、あまり知識が無く「鎌倉街道」というのは、この道、すなわち「上道(かみつみち)」だけだと思っていたのである。


3.分倍河原合戦への興味から鎌倉街道中道(なかつみち)の存在を知り興味が湧き出した私。

 聖蹟桜ヶ丘での勤務がかなり多忙を極めた時期があった。
 当然帰りは遅くなり、かなり深夜になってから関戸を通ることが増えた。
 ところでこの辺りの鎌倉街道上道沿線沿いの地域は知る人ぞ知る、かつて「分倍河原の合戦(1333年)」という激戦があった地なのである。
 先程も述べたが帰宅に際しては、何しろこの合戦場のあった地域を経由せざるを得ない。それも夜に、である。
 ここを回避しようと思うと、とんでもない回り道をするか、山を越えるかしかない。
 つまり僕の居住地に戻るには、どうしても分倍河原を通らなければならないような地形にうまい具合にできていたのである。

 正直なところ、この辺は河原や公園など人気の無い場所も多く、それに加えかつての古戦場ということもあって夜ここを自転車で通るのは、そんなに爽やかな気分にさせられるものでは無いのである。
 ちょっと小心者の方は通るのに抵抗あるかもしれぬ。
 僕は毎回「何もないっす、何もないッスヨー」と念じながら通っていたくらいであり、実際何も無かったが、「なぜ毎夜毎夜元合戦場を通らなくてはならないのだろうか?」と疑念すら湧いて来るほど、正直夜はやはり抵抗感が多少なりとも生じては消え、消えては生じたものであった。
 折しも仕事は多忙で、日中の激務のイメージがいつしか「分倍河原の合戦」とオーバーラップしてきてしまい、どうも毎日合戦をしに来ているようなオカシナ、かなりブルーな思いにさせられてしまったものであった。

 そんな折りふと「なぜ今、分倍河原の合戦なんだ?」という思いが湧いてきた。
 なぜ今、この古の合戦を強烈に意識しなければいけなくなったのか?
 そんな訳で分倍河原の合戦に少し興味が沸いてきた。
 何かそれに言及した関連書物はないだろうかと思っていた所、手元にちょうど「東京の歴史(山川出版社)」という本があることを思いだした。
 早速それを調べた所、うまい具合に分倍河原の合戦について、簡単ではあるが記載があった為、大まかなポイントについては情報を得ることができたのであった。

 ところでその「東京の歴史(山川出版社)」に当時の幹線道路並びに合戦のあった場所を図示する意図で、鎌倉街道のルート上に合戦地を記した「鎌倉街道概念図」という小さな図が掲載されていた。
 元々関戸近辺が激戦区になってしまったのは、鎌倉街道という当時の幹線道路沿いだったことによるからなのである。

 しかしその図から僕の目を引いたのは、この合戦地の記載では無かった。
 僕にとっては意外だったのが、この「鎌倉街道概念図」では、なんと鎌倉街道が、あの関戸のルート一本では無かったことなのである。
 ここに来てようやく初めて往年の鎌倉街道全盛時の事情を知ることになった。

 現在首都圏で鎌倉街道と言えば、一般的には関戸などを通るルートのことを指すことは述べた。
 しかし昔は鎌倉に通じていた道は皆「鎌倉街道」と呼ばれていたようであり、この「鎌倉街道概念図」には、この関戸を通る経路(上道=かみつみち)以外にも、他に主な鎌倉街道の経路が2本ほど記載されていた。
 その中でも特に僕の目を釘づけにしたのが、真ん中辺りの大体渋谷・板橋近辺を通るような記載になっている通称「中道(なかつみち)」のルートなのであった。
 余談であるが今から考えるとこの図は、それ程正確では無く中道(なかつみち)には、都内を通る西回りルートと東回りルートという2経路あるのだが、それがゴッチャになっている。
 だから「概念」図などと逃げ手を打ちつつ謳っていたのか、と後から合点がいった。
 ともあれその概念図は小さく大雑把なので、その時は中道(なかつみち)の詳しい経路については全くわからなかった。

 そもそも今は車の激しく行き交う幹線である五街道と、今は名前がちゃんと残っている青梅街道などの幹線道路しか残っていない、と思っていた一応大都会東京のど真ん中に、今まで何も知り得なかった幻の旧街道が存在していたなんて、これは僕としてはかなりの浪漫心を擽る事態であった。
 更に、渋谷〜板橋近辺、を通るルートということで、かつて僕にも馴染みのあった場所の近辺を通っているようでもあり、ヒョッとしたらあの道かな?などと思い当たる道が無いでも無く、元々旧街道好きな僕の好奇心をかなり惹くことになった。
 
 この頃から少しづつベクトルは、旧鎌倉街道に向き出してきたようである。
 かくして「旧鎌倉街道中道(なかつみち)」は「謎の真ん中の鎌倉街道」として僕の当面の心躍る研究課題になった。

続く。

●上記レポートを読む場合の推奨BGM
                  Cocco:「強く儚い者たち」(「クムイウタ」収録) 

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