佐倉城

概説別名、信太古城。
 一口に「佐倉城」と言っても、以下に見られるように城が機能した時期の異なる複数の「佐倉城」があるのかもしれない。現時点では「佐倉城」は殿屋敷遺跡、城ノ内遺跡、松葉様遺跡、楯の台遺跡などの城館複合体と捉えておくことにする。

(1)西福寺薬師如来の由緒書:美浦村大谷の古刹東輝山薬王院西福寺の薬師如来の由緒書に「(前略)天慶3(940)年将門ノ誅ニ伏スルヤ子孫当国ニ来リテ住シ、同6年信太小太郎頼望ナル者東条並ニ信太ノ両荘及行方ヲ押領シ以テ城郭ヲ本郡佐倉ニ構ヘ堂宇ヲ此地ニ建立シ薬師如来ヲ安置ス。(後略)」とある。[『美浦村誌』より]
(2)『稲敷郡志』『稲敷郡郷土史』:佐倉砦趾は大字佐倉にあり、一は松葉様の地にあり、平坦にして、面積3600坪、周囲土塁を構ふ、高約4尺許、又中央を画断して一条の土塁あり、相伝ふ信田氏の族是れに居ると。一は館の地にあり、高原にして小野川に瀕し、土人伝ふ、往古志太小太郎義良、此に来り、初めて城を築き居る。[『江戸崎町史編さん資料(3)』より]
(3)南北朝期の文書:「北畠親房御教書」に「(前略)其外も信太庄佐倉楯、河内郡馴馬楯等引退候き、(後略)」とあるのは、関城・伊佐城・下妻城などは、南朝方として、しばらくは支えてくれるであろうが、その外の小城は、支え切ることが不可能である。信太庄の佐倉楯や河内郡の馴馬楯なども北朝方に後略されるというような状況の中で結城氏の救援を求めている文書である。[『楯の台古墳群発掘調査報告書』より]
(4)南北朝期の文書:「別府幸実軍忠状写」の暦応4(1341)年7月17日の記録に、「同十七日、屋代彦七信経に同道仕りて、信太庄に馳せ向うの処、佐倉城の凶徒等、没落せしめ候い訖んぬ。伊佐津の入海を打ち渡り、東条城に馳せ参ずの処、御敵降参す。同日亀谷城に相向うの刻、また以って降参す。同廿三日、高井城に押し寄せ、所々を焼き払い候い訖んぬ。(読み下し)」のように、佐倉城は足利方に攻められて落城する南朝方の城として登場する。[『龍ヶ崎市史中世編』および『龍ヶ崎市史中世史料編』より]
佐倉神社土塁(城ノ内遺跡)
    佐倉城の各遺構
  1. 殿屋敷遺跡
  2. 城ノ内遺跡
  3. 松葉様遺跡
  4. 楯の台遺跡
訪問記[2001/04/03]縄張り図なしに「この付近」という話だけで散歩したので掴みどころがなかった。しかし、県道沿いのディスカウントショップ・ジャンボ駐車場の南に深い堀がありそうだ。
[2003/02/03]殿屋敷には空堀・土塁跡があるが個人宅内のため見られない。殿屋敷古墳は門口にある。牧野谷津の現況はゴルフ場になっている。城ノ内の遺構としては、佐倉神社から東へ向かう道沿いに土塁が切れ切れに残存する。松姫大明神の祠はその道の東の突き当たり交差点のど真ん中にある。祠の南側角の土塁はかなりよく残っている。松葉様遺跡の遺構としては、閉鎖されたディスカウントショップ「ジャンボ」駐車場南側の竹藪の中に大きな堀跡がある。そして、県道を挟んだ西側の畑と民家の間には土塁が残る。楯の台丘陵は西側から9割方土取されて湮滅していた。丘陵東端の稲荷神社付近が僅かに残っているのみ。南北朝期の佐倉城はどこかとか戦国時代の佐倉城はどこか、といった問題については今後考えていきたいと思う。
所在地稲敷郡江戸崎町佐倉。詳しくは、各遺跡のページを参照してください。
参考書『美浦村誌』、『江戸崎町史編さん資料(3)』、『楯の台古墳群発掘調査報告書』、『龍ヶ崎市史中世編』、『龍ヶ崎市史中世史料編』