佐倉楯の台

概説 ある時代の佐倉城の一部と考えてもよさそうだ。
 南北朝時代の1341年(興国2年・暦応4年)頃には、佐倉楯または佐倉城が、南朝方に味方をした佐倉郷周辺の人々の戦いの拠点となっていて、楯の台が、佐倉楯の一部、または付属の防御施設であった可能性がある。[『楯の台古墳群発掘調査報告書』より]
南西側からの遠望
訪問記[2003/02/03]楯の台古墳群として遺跡登録されているが、佐倉楯の遺構とも見られているようだ。現在は西側の9割方は土取されて完全に湮滅して、稲荷神社のある台地東端部が残るだけになっている。実際こんなになくなっているとは思わなかった。稲荷神社の社の北側に楯の台古墳群No1古墳がある。その北西50mにあるNo8古墳は残っていると思われる(未確認)。その他の西側の部分はみごとに完全湮滅。
所在地江戸崎町佐倉字楯の台2728外。ホギメディカル江戸崎配送センターの400mほど東にある丘。かつては、ホギメディカルの場所から現残存丘陵までの全てが楯の台であった。
参考書『楯の台古墳群発掘調査報告書』