概説 | この城は殿里に近い水田の中、八幡とよばれる小字の地にあったといわれている。現在はその跡を見出すことは困難で、わずかに八幡の小祠にそれが窺われる程度である。ここは菅谷弾正治貞の城で、天正18年佐竹によって滅ぼされたと伝えられるが、謎につつまれている。この城はもと台地にあったと伝えられる。白畑・羽黒の字名をもつ地がそれという。白畑は白幡とも書かれ、白幡は源氏の幡だから、小田氏と何か関係がある地なのだろうか。小田氏は治久が源氏を称しているからである。ここは城郭らしい構えはみえず、名主級武士の館だった所とも思われる。[『土浦市史』より]
国道6号線バイパスと国道125号線が交わる真鍋跨道橋交差点のすぐ北側に八幡台といわれる場所がありそこにかつて八幡社があったが現在は一部が国道6号線バイパス一部が住宅地となり、八幡社を忍ぶものは何も無い。しかし、いつのころか八幡の祠は常名の水田の中にわずかに残った畑の脇(現在は葦原)に置かれて、常名新田の某家が管理してきたという。ただし、現在残る祠は比較的新しいものと思われる。常名の水田は戦後の耕地整理の折に大々的に道の付け替えが行われたが、この畑だけはそのまま残ったという。かつての常名城の言い伝えが残っていたからと思われる。この地が常名城跡と推定されるのは、(1)周囲の水田よりもわずかに高まっていること、(2)かつて畑や蓮田での起耕中に深さ1mほど掘ると礎石と思われる大きな石や炭化した木片が出たことなどからである。[常名の旧家の方よりの情報] |