土浦城    『土浦城下の遺構めぐり』および『土浦城の建物遺構』もご覧下さい

概説 土浦城が最初に築かれたのがいつなのかは明らかではありませんが、室町時代の永享年間(1429〜1440)に若泉氏が築いたものと考えられています。戦国時代には小田氏、菅谷氏の居城として戦火がくり広げられました。江戸時代になると、土浦城は代々の領主によって整備されました。慶長9(1604)年松平信吉が領主の時には水戸街道が整備され、城下町の基礎が整えられました。元和6(1620)年から7年にかけて東西の櫓が、明暦2(1656)年には、朽木稙綱によって時を知らせる太鼓が置かれた櫓門が建てられました。土浦城は別名亀城と呼ばれますが、これは城が幾重もの堀に囲まれており、その姿が水に浮かぶ亀のように見えたためであるとされています。土浦城の特徴は亀城の名からも推測できるように、霞ヶ浦と桜川によってできた低湿地の中の微高地を巧みに利用した水城であり、守りやすく攻めにくいことでした。江戸時代になり政治が安定してくると、城の性格も砦から政治の中心地へと変わります。土浦城も藩主の居城、藩の役所として機能しました。[以上、『フィールド博物館・土浦のしおり1土浦城の歴史』より]
 若泉三郎のこと:長禄3(1459)年から3年がかりで桜川の流路変更の大土木工事を完工したといわれるが、財力的に果たしてこのような大工事を成しとげることができたか、疑問もある。たしかに、鹿島神宮の「永享富有注文」(永享7(1435)年8月9日付)に信太庄土浦郷若泉三郎の名が見え、かなりの豪族で館中心の中城集落の開発領主的な存在であったと思われる。但し、最近この信太庄土浦郷の土浦は、現在の稲敷郡美浦村の土浦をさすという説が有力になって来たことは注目に値する。
 現在の土浦城を築城したのは結城秀康か:秀康は徳川家康の第2子で豊臣秀吉の養子となり、さらに結城晴朝の養子となり、結城城を本城とし土浦城にはおそらく代官を置き治めた。[以上、『土浦城とその城主たち』を参考にしました]
 土浦城の前身:現在亀城公園を中心として縄張りが形成されている土浦城は江戸時代を通じて整備されてきた近世土浦城であるが、中世の土浦城が必ずしも近世土浦城縄張りと一致する必然性はない。「近世土浦城と同じ場所」説は当然あるが、ここでは「中城館」説と「信田氏館(立田郭)」説を紹介する。詳しくはそれぞれのページをご覧いただきたい。
浄真寺西側外縁の土塁(2000/12/25)
その他の写真
  1. 南門から南東方向へ延びる土塁の一部が東光寺墓地南隅に残る
  2. 神龍寺の墓地の中に残る土塁
  3. 神龍寺の墓地の中に残るもう一つの土塁
訪問記[2000/04/04]土浦城は亀城公園をはじめ見どころがいっぱいですが、土塁ファンの私としてはまずは土浦城の土塁の現状について記録しておこうと思います。「土浦城とその城主たち」によると「今では、濠は埋められ、土塁は崩されてしまったが、東光寺付近、神竜寺付近、浄真寺付近にいくらか残っており」とあります。
[2003/05/11]近世末期の土浦城古絵図をもとにして自作した「土浦城の堀・土塁図」を手に、土浦城下町めぐりをしてみました。残存土塁の再確認、堀・水路跡の現況、門や枡形跡など往時を偲ぶ楽しい散策ができました。それについては『土浦城下の遺構めぐり』にまとめておきましたのでそちらもご覧下さい。
[2005/04/17]近世土浦城を概観しようと思えば、現在の亀城公園とその周辺市街地からある程度の想像は可能(前出『土浦城下の遺構めぐり』)。しかし、中世の土浦城はどこにあったのか?となると諸説入り乱れているというのが実際の所。弾正畑といわれた微高地の場所は現在の立田町土浦二高正門付近。ここに信田氏の居館があったという伝承がある(立田信田氏館をご覧下さい)。今日はその辺りを歩いて土浦図書館で出展などを調べてきた。
所在地土浦市内。亀城公園を中心に半径約600mほどの範囲。土塁の残る3ヶ所の寺:東光寺は大手町、神龍寺は文京町、浄真寺は立田町。
参考書『土浦城とその城主たち』、『土浦市史別巻土浦歴史地図』