木田余城(きだまりじょう)

概説 木田余城跡は木田余を横断する常磐線の南東側にあり、小字名に中城の称を残している。中城はほぼ300m四方で、周囲には堀があったが、今は水田化して外からは分からない。嘗ては水城として、天然の要害であった。(註:この文章が書かれた当時電留基地はなく、常磐線は現在の下り線側のみを走っていた。従って、現在電留基地内に建つ標柱の場所が中城といわれた場所です。つまり、現在は「木田余城(本丸)は常磐線の南東側」でなく「常磐線の下敷き」になっているのです。)
 木田余城主は信太伊勢守である。信太氏は信太荘司紀貞頼の裔であるが、小田氏に仕え、その代官となったため、南野荘の管理にあたることになったのであろう。木田余に移った時期は分からない。なお、中世木田余はきなまり(木滑)ともよんでいる。
 木田余城はもと台地にあったといわれる。「御りょう」とよばれる地があり、その坂下を城ノ内とよんでいる。城といっても小領主としての館だったのであろう。堀や土塁の跡はみられない。低地に要害(木田余城のこと)を築いたのは、ようやく戦国時代に入ろうとする頃だったと思われる。
 永禄の末年、信太氏が滅んでからは、小田氏治の居城となったが、天正6年、佐竹義重によって徹底的に破壊されてしまった。のち、朽木氏がこの城跡の湮滅を心配して、宝積寺を移した。しかし、明治36年、汽車の煙突からの飛び火で焼けてしまって今はない。一角に、わずかに信太氏一族の墓が残されている。[『土浦市史』より]
 信太範宗の墓:木田余城跡の一隅にあたり、五輪塔三基は信太伊勢守範宗・その妻・その嫡子紀八の墓と伝えられる。範宗は本城の築城者とされ、その祖は信太荘司紀貞頼(「菅谷系図」)、代々小田氏に仕えた。諸書は、範宗が主君小田氏治と対立し、氏治の命で一族の菅谷氏に誘殺されたと伝えるが、真相は必ずしも明らかではない。[現地説明板より]
第一浅間下踏切東側に土塁と堀跡らしき一画が残る
その他の写真
  1. 『土浦歴史地図』にある「大手道」とは電車区側から木田余沖集落方向へ向かうこの道
  2. 本丸(中城)は常磐線の線路に挟まれた電留基地の一画になってしまった(ここにある3つの石碑はいったいなんだろう?)
  3. 常磐線の西側、浅間下踏切の南西300mにある信太一族ゆかりの五輪塔三基
訪問記[2001/11/26]JR常磐線土浦駅の北約2kmにある第一浅間下踏切近くに土塁と古池に囲まれた墓所がある。ここは遺構の一部だろうか。そこから100mほど南に電車区へ入る地下道があり説明板が立っている。地下道を上がったところに信太氏一族の墓がある。ここは電車区内なので通過列車に注意して下さい。
[2004/01/26]今日は嫁さんの友人で木田余に生まれ育ったに方に周辺を案内してもらったおかげで、木田余城のイメージがかなりはっきりしてきた。知らないと騙されてしまうよ。
 常磐線によって完全に湮滅したといわれてはいるが、なんらかの痕跡がないのか、『土浦城とその城主たち』の解説を参考に手掛かりを列挙してみた。
(1)常磐線によって東西に2分されている。
(2)本丸跡は小字を中城といいほぼ300m四方の範囲。
(3)今でも北堀・南堀などの地名が残っている。(追記:横堀の地名もある)
(4)城はもと木田余の台地の「城の内」とよんでいるところにあった。
(5)木田余城主信田範宗の墓は木田余城跡内信太八幡境内にある。五輪塔3基が残る。
 もともとJR常磐線は現在の下り線路側のみにあったものを、わりと最近になってから電留基地建設のために東側へ拡幅したため、中城の畑地が湮滅した。この事情を知らずに『土浦市史』を読むと前回の私のように、JRの地下道を上がったところにある石碑が信太氏一族の墓だと思ってしまうのではないだろうか。電留基地にある「信太氏一族の墓」は、城跡を線路の下に埋めちゃったので、祟りを畏れて設置した新しいのかもしれない。あの標柱は木田余城の本丸(中城)跡を示しているだけで、実はこれとは別に常磐線の西側、浅間下踏切の南西300mに信太一族ゆかりの五輪塔といわれるものが三基ある。ここも木田余城本丸の一画で信太八幡境内といわれるが現在神社は無い(現在宝積寺が管理している)。ただ、五輪塔の裏に小さな「八幡」と彫られた石が置かれていた。戦国時代の木田余城の前身にあたる「木田余城ノ内」は600mほど北西にあたる。
所在地土浦市木田余。JR常磐線土浦駅北側の電留基地内およびその周囲。本丸(中城)は電留基地の下に埋没した。第1浅間下踏切のすぐ東側には土塁と堀の一部が残り、線路西側浅間下踏切の南西300mに五輪塔3基がある。第1浅間下踏切は国道354号線陸橋の南西約500m。踏切から線路の東側に沿ってさらに300mほど南西へ行くと説明板がある。そこから線路の下を潜ると電留基地内の石碑の場所へ行ける。[注意:見学には十分注意をして線路内には入らないようにして下さい。]
参考書『土浦市史』、『土浦歴史地図』