2024年 8月24日(土) The Beatles 映画「ザ・ビートルズの軌跡 リヴァプールから世界へ」
2024年7月5日、映画「ザ・ビートルズの軌跡 リヴァプールから世界へ」が封切りされた!
と思い上映館を調べれば、北陸地方で唯一、上映されない県に居住していることを知り愕然した初夏。
やはり上京した時、鑑賞しに行こうかと思うものの、より楽しいことに時間を割いてしまい、この映画とも縁が無かったのかな、と思いつつ居住する県の上映予定は8月下旬みたい。
この映画、縁が無かったのかな、と思いつつ、もし後悔するならば観に行かなかった後悔よりも観に行った後悔かなと、街まで足を伸ばしたのでした。
富山市内観光
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富山市内と言えば路面電車。
富山駅に到着し、最初に出発する路面電車の終点まで行ってみよう!と思い乗車してみれば「大学前」行き。

降り立つと直ぐに目に入ったのは県営球場。
富山県は読売ジャイアンツの創始者で、プロ野球の父と言われる正力松太郎氏の出身地ということで長嶋選手、王選手などのV9時代に毎年、試合があったとか。
運良く試合が行われており暫し観戦。
外野は昔の神宮球場みたいに芝生でした。

暑いのと次の予定があるので、途中で退席し、国立 富山大学へ。
大学周辺は、学生街でも、喫茶店も見当たりませんでしたが、市街地にある良い雰囲気の大学だと思いました。

そして10日前にも映画を鑑賞しに訪れた ほとり座に向かいます。
この映画館の周辺の路地の雰囲気は好きです。
次の時代にも残って欲しいと思う、平成の時代までならばどこにでもある裏通りです。

そして今回は上映後にトーク付きです。

映画「ザ・ビートルズの軌跡 リヴァプールから世界へ」
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2008年のイギリスで制作されたドキュメンタリ。
それを映画として映画館で、それもロードショー?という気持ちもありました。
新しい証言は特に無いようにも思えました。
しかしトニー・ブラムウェル、アラン・ウィリアムズ、アンディ・ホワイト、ノーマン・スミス、そしてピート・ベスト。
彼らの姿を、肉声を、字幕付きで観るだけで凄いことです。
2024年8月の今、ピート以外は鬼籍に入ってしまい、当時を知る方々が残された貴重なインタビュー。
それだけで観る価値があった内容だと思いました。
アフター・トーク
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音楽ライター・翻訳家の朝日順子さんとMCの汐月しゅうさんによるトーク。
これまた興味深いお話の数々でした。
会場にいる方からの質問コーナーも羨ましいお話の数々でした。

トーク・ショーの後はサイン会。
映画のパンフレットにサインを頂きました。

本当はこの2冊にも頂きたかったのですが、持参するのを失念し、残念!

帰宅してからピートが解雇された背景・経緯・理由を本を読み返し復習しました。
1984年に出版された高尾栄司著「ビートルズになれなかった男」。
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当時、キャバーン・クラブの元・司会者だったボブ・ウーラーにインタビューし、「ピートを外したのはポールである。
書籍には当時、地元で定期的に発刊されていた音楽情報誌マージービート誌Vol.1 No.2号の1面の巻頭に「ビートルズ、レコード契約にサイン!」の表題とともに文章で「おめでとう。ピート、そしてポール、ジョン、ジョージ」とある写真。
更に見解として
- ピートは、ブライアンがビートルズのマネージャーになるまで、経理担当者であった。
- ピートの母モナ・ベストは、ビートルズのマネージャーに近いことまでやってきた。ブライアンがビートルズと契約をしたのは、モナ・ベストの居間であった。
- ビートルズのロード・マネージャー(おかかえ運転手)、ニール・アスピノルは、ピートの家にずっと下宿していた。こうしたことは、ピートや母親がビートルズにかなりの支配力をもっていることを表している。
- ブライアン・エプスタインは同性愛者だった。ブライアンは自分のそうした欲望を満たすため、ピートを家族に紹介し、デートを申し込み、ブラックプールで関係を迫ったことがあるが、ピートに拒否された。(ピートの証言)
ブライアンは、ジョン、ポール、ジョージも同性愛者の立場から愛した。彼らは、そうしたブライアンからの申し出を気にもしなかった。(彼らを知る、ハンブルクのクラブ支配人ホルスト・ファッシャーの証言)
高尾栄司著「ビートルズになれなかった男」からの引用。

ピート・ベストのサイン付き
1989年に出版されたガレス・L・ポロウスキー著「ハゥ・ゼイ・ビケイム・ザ・ビートルズ」。
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当時のファンの女の子たちいよると解雇の最大の理由を一言で言えば嫉妬とか。
ピートがグループのリーダーで、いちばんハンサムだったと公言するファンが非常に多かったとのこと。
書籍には当時、地元で定期的に発刊されていた音楽情報誌マージービート誌Vol.1 No.23号の1面の巻頭に「ビートルズのレコード」の表題とともにピート・ベストだけの写真が大きく掲載されている。写真。
もう一つの理由はステージの雰囲気で、ほかの3人がワイルドで機知に富んでいるのに対し、ピートは控えめで物静かでグループに合わなかったこと。

日本語版は1996年に出版された1992年のマイケル・マッカトニー写真集「リメンバー」。
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「リッチーは技術的には必ずしもピートよりも上手なドラマーではなかったが、ピートより独創的であった。
ピートは手堅い、古いスタイルのロックンロールが得意だったが、リンゴのドラミングはジョン、ポール、ジョージの音楽の凝固剤としてすぐれていた。」
「リッチーは乾いたユーモアのセンスがあったが、ピートのほうはとてもまっすぐで内気のたちであった。
このグループではユーモアのセンスは非常にたいせつだったのだ。」

1994年に出版されたハリー・ベンソン写真集「イン・ジ・ビギニング」。
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1963年頃から1966年頃までロンドンの某新聞社から派遣されたカメラマンであった著者は、ジョンからピートが解雇されたその理由は、ベストの母親が原因だと聞いたとのこと。
「ビートルズを乗っ取ろうとしたんだよ。それが真相さ。」

そして2016年に出版されたマーク・ルイソン著「ザ・ビートルズ史 誕生」。
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2016年に発刊された日本語版 マーク・ルイソン著「ザ・ビートルズ史 <誕生>」の下巻のP506辺り、P526辺りにその頃の記述がある。
- 1962年 6月 6日 EMIオーディション
- 1962年 7月21日 モナ・ベスト(当時38歳)、3人目の子供を出産。
- この頃、ピートの耳に解雇されるかもという話が入り、ピートがブライアンに質問し、ブライアンが口ごもりながら否定した。
- 1962年 7月27日 ブライアン・エプスタイン、代理ドラマーとしてジョー・ブラウン・アンド・ザ・ブルーヴァーススタジオ・ミュージシャンBobby Grahamに打診するも断られる。
- 1962年 7月29日(日) もしかしたらポールの運転、ジョンのナビゲータで、リヴァプールからスケグネスのバトリン休暇村に滞在し演奏するリンゴに会いに日帰りで行ったらしい日。
- ブライアン・エプスタイン、代理ドラマーとしてRichie Galvinに打診するがジョンを好まなかったので断る。
- ブライアン・エプスタイン、代理ドラマーとしてJohnny Hutchimsonに打診するも女々しく思うビートルズを嫌っていたため断る。
- 1962年 8月16日 ブライアン・エプスタイン、ピート・ベストに解雇を通達する。
- 同日と17日 他のバンドで同じステージに立つJohnny Hutchimsonが結局、ドラマーを務める。
- 同日以降、ピートと仲が良く、ピートの母親モナと同居し、ピートの21歳年下の弟の父親でもあり、ビートルズが直接契約するロード・マネージャーでもあるニール・アスピノール、ビートルズとの契約通り仕事を続ける。
- 1962年 8月18日 リンゴ参加。

更に2024年に出版されたイアン・イングルス著「ビートルズ・イン・ハンブルク」。
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玄関よりも出入りする機会が多い勝手口。
勝手口の脇に置く収納棚の扉は1975年頃の気分です。

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