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私の東京陸軍幼年学校

53年前の幼年学校の思い出を書いてみた。なにしろ半世紀前の話しである。うろ覚えの点が多く、間違いも多々あると思う。しかし一度は書いておきたいと思った事である。文中の注はこの文章を見てくれた同期の秋山邦博君からの指摘と彼が書いた空襲の時の記事から拾ったものである。そのたお気づきの点があれば末尾のイーメール番号にお知らせ下さい。

1 幼年学校入学の頃

中学二年のとき陸軍幼年学校を受験し合格した。私の母方の祖父、磯塚俊一は静岡連隊の連隊長をつとめた軍人であった。磯塚家は徳島藩の武士の出身で祖父はその家系を守った事になるが、4人の息子の内3人は陸軍士官学校(1人は幼年学校)出の職業軍人となった。だから私が幼年学校を受験したのはその影響かと思われがちであるがそれは全く違う。母はいわば職業軍人家族の長女であったが私には軍隊の話は殆どしたことはなかった。

幼年学校入学前後の私

左:昭和20年の3月か?兄正は海軍兵学校へ、私は陸軍幼年学校へ入学が決まり裏庭で記念写真。父芳太郎、母たけ、祖母あき、妹幸子
右:幼年学校の制服に身を固めた私と井上勝人君。井上君の家に外出。

幼年学校の存在を私に教えてくれたのは清水中学校に入ってからの友人和泉君であった。彼は一年生の時受験したが失敗し、二年生になって再度の受験に備え問題集を勉強していた。たまたまそれを見た私がおれも受けてみようかと思ったのが発端であった。母にも父にも試験の直前まで黙っていたように思う。ふたを開けてみると和泉君は不合格に終わり、私の方が合格したので大変気の毒な気がした。

同じ年、2年上の兄、正も海軍兵学校に合格した。朝日新聞に軍国一家としてニュースになった。母が私に軍隊の話しを決しなかったのは恐らく軍人にはしたくなかった為だと思う。父の反応は“まあ、一兵卒として徴用されるより将校となっていた方がいいだろう”というものであった。太平洋戦争がはじまってから2年が過ぎ総力戦は避けられないという悲壮感が高まりつつあったときである。今から思えば私が入学したときはすでにポツダム宣言が日本に通告されていたときである。

2 起床ラッパ

私が入った東京幼年学校は市ヶ谷から浅川に疎開していた。多摩御陵の近くであった。 入学して間もなく私はとんでもないところに来てしまったと涙で枕をぬらした事を忘れない。なにしろ厳しい訓練の毎日であった。朝は5時だったか6時だったかに起床ラッパで起こされた。といってもラッパを聞いたのは一カ月程経ってからで、それまではラッパが鳴り終わっても誰も気づかず眠りこけていた。同じ寝室にベッドをならべる三年生の斉藤模範生徒の怒声と拳骨でやっと目覚める始末であった。

(この話には後日談がある。2004年の第50回東幼会で斉藤さんにお会いし仲間とともに歓談する機会を得た。この折、斉藤さんが私のこのページを読んでおられたことを知り感激した、しかし斉藤さんは“私は怒声など発した覚えはない。皆さんのためにやさしく起こした筈です、是非訂正して欲しい。”と言われました。温厚誠実な人柄をにじませる風格の斉藤さんを前にして、私もつい“訂正します”とお約束してしまった。しかし、その後の49期の会で、隣の寝室の宮林君にその話をしたところ、“いやー、斉藤さんの声は特別大きかった、あれはやはり怒声だよ”、とのことであった。そこで次に斉藤さんにお会いするまでこの項はそのままにしておくことにした。ただ、この機会にはっきりしておきたいのは、我々5号室の仲間は当時も今も斉藤さんを頼りになる兄貴として、慕い、懐かしみこそすれ、恨んだことなど一度もなかったということである。)

(更なる訂正とお詫び。その翌年の東幼会で再び斎藤さんにお会いした際同じ5号室の仲間と相談して5号室だけの同窓会をやろうということになった。私がお世話をして2005年11月17日両国の江戸東京博物館のレストランで「第一回斎藤さんを囲む5号室の会」を持った。5号室の生存者15名中10名が出席する盛会となった。この会の報告もいずれ作ろうと思っているが私のホームページの記述も当然話題となった。その際私は上の訂正で大事なことを見落としていたことに気づいて愕然とした。斎藤さんによると上の「怒声と拳骨」の記述を読んだ同窓生から「斎藤!、お前は拳骨を使ったのか?」、となじられたそうである。というのも当時の東京陸軍幼年学校では肉体的制裁は厳に禁じられていて突き飛ばしただけで生徒監からお叱りを受けたそうである。そういえば私はあの当時中学の上級生からは殴られたことはあったが幼年学校では記憶にない。考えてみるとあの文を書いた時は勢いにのって書き上げたのでどうも「怒声と拳骨」がペアで出て来てしまったとしか言いようがない。こんないい加減な書き方で斎藤さんが長年悩まれたと思うと本当に申し訳ありません。5号室の会で改めてお詫びした次第です。)

起床すると素早く(何事も迅速を旨とした)軍服に着替え歯磨き洗面をした。洗面所は土間に木の簀の子をひいてあったように思う。そのあと中庭に整列し点呼を受けた。生徒鑑殿は初め柴田寿彦大尉(?)であったが後に何とかいう皇族の東くにの宮生徒鑑殿下に代わった(順序は或いは逆だったかも知れない)(注1)。

ある時点呼で“歯を磨かなかったものは前に出ろ”と怒鳴られた。何人かが前に出た。しかし生徒鑑(或いは下士官だったか?)は何本かの歯ブラシをかざし、“これは乾いたままだ、うそをついたものがいる“と生徒たちを睨み回した。こわいところだなと思った。 点呼が終わると朝食までの1時間くらいを校庭で過ごし英気を養った。歩き回りながら戦陣訓(注2)を暗唱した。1つ軍人は質素を旨とすべし、1つ軍人はーーーすべし。1つ軍人はーーーすべし。と5箇条にわたったと思うが全く覚えていない。宮城を遥拝したのち故郷に向って頭を下げた。母の顔が浮かぶまで頭を下げていた。疲れて腰を下ろすと上級生の怒声がとんできた、“将校生徒が腰を下ろすとは何事か”というわけである。休日をのぞいて校庭で座ることは許されなかった。大変なところに来たなと思ったのはこの時である。

ベッドは木作りで寝具は毛布だけであった。4月といっても寒かった。多くの生徒が寝小便をしてしまった。冷える上に眠りが深かった。昨日はあいつ、今日はこいつと蔓延した。私も例外ではなかった。湯たんぽ代わりにいれた水筒の水が漏れたなどと弁解したが誰も信じなかったと思う。

寝小便がおさまるとダニ騒動がはじまった。これはベッドからベッドへ毎晩拡大した。ベッドの縫い目の隙間に卵がびっしり見つかるようになった。ダニ退治は例年の行事でマニュアルが決められていた。風呂に湯を沸かしベッドをみんなでかついで湯に暫く浸けこんだ。

幼年学校俯瞰図

終戦後発行された第三訓育班文集に載せられたものから複製。図注には「この図は昭和20〜22年頃48期宇垣公最が記憶によって作成した図を、生徒スケッチ、写真などによって修整して48期出井馨が作図したものである。」と記されている。第三訓育班の秋山邦博君より平成10年5月1日ファックスでうけとる。現在のこの地の様子は52年後の幼年学校に述べられている。

3学科と教練

午前中は学科であった。私は語学はロシア語にまわされた。白系ロシア人の授業は面白かった。しかしロシア語に限らず授業時間は睡魔との戦いであった。なにしろあんなに眠かった事は私の生涯では2度と無かった。授業がはじまって暫くするとあちこちでバターン、バターンという音がし始める。眠りこんだ生徒の手から教科書が床に落ちる音である。そのうちに自分の足下でバターンと音がしてはっと我に返る。自分の本も床に落ちている。あわてて拾って姿勢を正す。暫くすると又同じ事がはじまる。眠り込む直前の引き込まれるような、抵抗しがたい甘美な感覚。後年これと同じ感覚をハイウエーを高速で運転しながら感じたことがある。居眠り運転は命取りになるが、居眠り授業では教官は怒りもしなかったように思う。

午後は教練でみっちりとしごかれた。私はまず気を付けの姿勢がうまくとれなかった。膝がどうしてもぴったり合わず、教官に何度も注意された。教練は伍長クラスの若い下士官によって行われることが多かった。我々の担当は蛇池伍長であった。珍しい名前なので今でも覚えている。幼年学校に配属される下士官は生徒の模範となるべき資質を備えていた。蛇池さん初め皆運動神経が抜群によかった。鉄棒は私の最も苦手とするところであったが、大車輪など信じかたい動きを見せてくれた。大車輪といえば二年生、三年生も皆うまかった。しかし私はますます苦手意識が強まるのを感じた。

私が元気づくのは剣道の時間であった。なにしろ小学校3年から始め、6年生の時は市民大会で個人と団体の両方で優勝した経験がある。誰にも負けない自信があった。事実大半の仲間は竹刀を持つのは初めてといった感じで翻弄してやった。日頃教練で得意になっている奴の後頭部を思いきりひっぱたくのは痛快であった。しかしこうゆう奴に限って叩かれても叩かれてもぶっつかってきた。肉弾戦になると正攻法は通じなかった。気迫に圧倒される事もあって困った。

4 食事と軍歌

食事は最大の楽しみであったが、同時にまた上級生との駆け引きもあって気が重いこともあった。食事は1年生から3年生までが10人くらいのグループを作って同じテーブルを囲んだ。昔は食べ放題であったらしいが私の時は敗戦間近の食糧難の時代である。訓練に明け暮れる生徒の食欲を満たすには絶対量が足りなかった。ご飯とお味噌汁をお椀によそうのは1年生の仕事であった。上級生から順に盛りつけるのでどうしても1年生は不利であった。上級生の中には自分の分を分けてくれる人もいたが不公平は直らなかった。生徒鑑があるとき、飯は平等に分けるようにと注意したほどであったがあまり効き目はなかった。上級生の問題というより下級生の遠慮も原因であった。

ある時肉の炊き込みご飯が出た。当番だった私はおひつの中をわざとかき混ぜないでご飯を盛りつけた。予想通り肉片は下に沈んでいた。一年生は飯粒より肉が多いといった感じの炊き込みご飯を食べることができた。二年生、三年生は恨めしげであったが誰一人文句は言わなかった。武士はくわねど高楊枝の気概から出たかどうか今となっては分からない。食物の恨みは決して消えない。

夕食後は校庭に整列して軍歌を歌いながら行進した。色々な軍歌を歌わせられた。幼年学校の校歌もあった。歌詞があやふやだと口の開きが小さくなり、直ぐに上級生から叱声がとんだ。賢い奴がそうゆう時は“いろはにほへとーーー”といえばよいと教えてくれた。同じ軍服をきて軍歌を歌いながら行進すると世の中から隔絶した悲壮感と同時に底なしの穴に落ちていくような、取り返しのつかない世界に入った様な気がした。 軍歌の中でも心に特に響くものが幾つかあった。はっきりと覚えていないが例えば「べきらの縁に波騒ぎーー」や「りょうようりょうとうーーー」といったものであった。故郷を離れた少年の心に響くものであった。

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幼年学校生徒たち

東京幼年学校の本部前に整列した同室の仲間達。後列右から2人目が私。後列左から4人目が斉藤模範生徒。昭和20年4月頃。

5 艦載機による銃撃

  戦局は既に取り返しのつかないところまで進んでいた。(もちろん当時は必勝を信じていた)東京は頻繁に空襲にあっていた。入学直後の4月にも夜中にたたき起こされ校庭に避難した。東京の空が赤く燃えサーチライトが夜空をなで回していた。別世界の風景を見る思いであった。

幼年学校も何度か艦載機、P51の襲撃を受けた(これを書いてからしばらくして、山形大学で教えた学生がメールをよこし、P51は艦載機ではなく硫黄島から飛び立った陸上機であることを教えてくれた。彼はその道のマニアらしくP51を写真入りで解説したwebsiteまで教えてくれた。今訂正するにあたって彼の名前を挙げたいと思ったがメールがどうしても見つからない。私が見つけたP51のwebsiteによるとP51は航続距離3200kmで硫黄島—東京間を十分往復できる当時としては最強の戦闘機であった。)。鉄棒にぶら下がっているとき突然目の前の丘を飛び越えて襲われたことがある。25ミリ機関砲だと覚えているが校庭を超低空で飛びながら掃射をした。パイロットの顔が見えたのを覚えている。銃撃を受けた校庭には何メートルおきかに深い穴がうがたれた。我々は校庭にたこつぼをほり万一の場合は飛び込んだ。銃撃の後は沢山の薬夾が校庭にのこされた。

幼年学校生徒も反撃した。校庭の一隅に機関銃(?)がおかれうちかえした。一度は敵機が白煙をあげたように覚えているが確かなことは覚えていない。

6 玄米飯

日曜日には外出を許された。飯ごうに昼食を入れてもらい私は母方の親戚の中野の磯塚家を尋ねたことがある。おじさん(母の父の弟であったと思う)とおばさんが迎えてくれた。おじさんは昼時になると私の飯ごうをのぞき、まあその分なら大丈夫だなといってお茶を出してくれた。当時はなんのもてなしもできなかったのである。別の機会には同室の井上勝人の馬橋の家に行った。おかあさんがいて歓待してくれた。井上のおじいさんも軍人であった様であるが詳しいことは忘れた。(井上君と私の幼年学校の制服姿を上の写真で見て欲しい。)

食糧難の時代である。自給自足の訓練もかねたのであろう、校庭のかなりの部分が耕かされ、カボチャやトマトなどが育てられた。将校生徒が便所から肥やしをくみ肥桶を天秤にかついで畑に運んだ。カボチャ畑に開けた穴に肥を流し込み、土をかぶせ種を蒔いた。しかし栄養失調は慢性的であった。脚気のためか、駆け足は直ぐ疲れた。やがて玄米飯が出されるようになった。玄米飯は暖かいときはよく噛めば問題なかった。しかし、弁当などで冷えたものはどうしょうもなかった。私はもちろん多くの生徒が下痢に悩まされた。軍事教練中にビーと音を出してくだす生徒もいた。

入校以来一年生の体重は減少を続けた。二、三年生が皆まるまると肥えているのと対照的であった。これは先に述べた食事の分配の不公平さ以前の問題のようであった。上級生の話では彼らも入学当時は痩せていったが半年もすると体重が増えだしたという事であった。じっさい私の下痢も7月になるととまり体重の減少にも歯止めがかかりだした。

7 夏休みの帰郷

昭和20年7月末、奇跡的に夏休みが与えられ三日間家に帰ることができた。和泉君がどこで手に入れたかリンゴ酒を持ってきてくれた。貴様と呼ぶのがまだ気恥ずかしかった。幼年学校の雰囲気とは違った厭戦気分が町に漂うのを感じた。三日間どのように過ごしたか、和泉君のこと以外は殆ど覚えていない。帰宅した翌日、母が出してくれたトマトに塩を付けて丸ごとかぶりついた事を覚えている。

東京に帰る日、父が清水駅まで送ってくれた。家をでるときの母の涙と駅のプラットホームでの肩を落とした父の背中は長く私の心に残った。兄も海軍兵学校に在学し、家には妹しか残っていなかった。後年、私の子供達が同じ年頃になったときもこの時の両親の心情を改めて思った。

中央線の駅から幼年学校までの長い道を歩いていると悲しくて涙が出てきた。我ながら女々しいと思ったが止まらなかった。とぼとぼ歩いていると、突然自転車で追い越しざま「将校生徒がなんたる歩き方か、胸を張って歩け」と怒鳴られた。幼年学校の教官の一人でたしか髭づらの軍曹であったと思う。私がどんな反応を示したのか残念ながら思い出せない。

この軍曹さんには別の思い出がある。ある時それまで曹長にまで許されていた帯剣が軍曹までとなった。そんなある日、軍刀をつった軍曹さんが階段をおりてくるのに出会った。彼は私の目の前で軍刀に足を取られ階段から転げ落ちた。私は見てはいけないものを見てしまった気がしてばつが悪かった。

8 B29による大空襲

幼年学校に帰った二日目か三日目の深夜、B29が幼年学校を集中的に爆撃した。その日は夕方から警戒警報が発令され生徒は8時か9時ころまで軍服姿のまま休ませられた。翌日から多摩川に水泳訓練に行くことになっていた。その事もあって当直士官が警戒警報解除と共に生徒を完全に就寝させたのが仇となった。我々がぐっすりと寝込むのを待っていたかのように爆撃がはじまった。

窓際にベッドがあった私が窓の燃える音で真っ先に目を覚ました(と私は思っている)。廊下越しに火の粉が舞い込んでいた。日頃の訓練で素早く着衣しながらみんなを起こした。多摩川に行くために準備した背嚢を背負い逃げた。一年生の建物の隣は三年生であった。蚊帳越しに寝ている三年生を見ながら廊下を走り抜けて校庭にでると、焼夷弾の火柱が隙間無く立っているように見えた。一瞬ひるんで近くの防空壕にはいり背嚢を外して外を窺った。その時焼夷弾が壕の入り口に落下し火花をあげだした。私は又ひるんだが思い切って壕から飛びだし、校庭を横切って走った。校庭の端は丘陵地帯となり、そこに逃れれば安全と思った。

しかし林の中の防空壕に飛び込むと動けなくなった。焼夷弾が林の中に間断なく落下し、その度にざーざーというすごい音が鳴り響いた。恐らく腰が抜けたのだと思う。そのまま壕内で空を眺めていた。燃える校舎の炎に照らされたB29の編隊が後から後から頭上を通過した。

空襲がどれだけ続いたか覚えがない。夜が明けると共に被害状況が明らかになった。校舎は全焼だったと思う。名前は忘れたが、校庭の一隅に生徒が休息したり面会者と会ったりするための建物があり、その裏は山で横穴が縦横に掘ってあった。我々新入生は夜きもだめしと称して上級生に引き回されたものである。その横穴に多くの生徒が逃げ込んだ。しかしその建物が燃えて出す煙が横穴に充満した為何人かは逃げ出したが10人くらいが取り残されているというニュースが入った。

柴田生徒鑑がラッパ手に内部の捜索を命じるとともに周りの生徒たちを見回し名を呼び始めた。私は下を向いて視線を合わせないようにした。しかし、酒井と大声で呼ばれた。ハイと立ち上がると兵隊さんがやってきて呼ばれた生徒たちにガスマスクを配った。しかし彼らが持つガスマスクと比べるとどうもお粗末なものであった。

ラッパ手を先頭に煙の立ちこめる横穴に入った。横穴の中は泥でぐじゃぐじゃであった。ラッパ手が杖を泥に突き刺しながら何人かを発見しそれを我々生徒が外に引きずり出した。外にいたものが顔の泥を落とし人工呼吸をした。鼻の中までドロが詰まっていた。中に昨夜一緒に夕食をとった3年生の一人がいた。

あなの中に進むにつれて煙は濃くなりこわかった。懐中電灯の光りは煙に遮られ何も見えなかった。もう捜索もおしまいかなと思ったとき、どこからかグーグーといびきが聞こえてきた。音を頼りにいくと何人かが折り重なって泥に埋まっていた。一番下の生徒がいびきをかいていた。横穴で煙に巻かれた10人くらいの生徒の内彼だけが生き返ったとあとから聞かされた。一番下にいて有害ガスから遮断された為と教えられた。

昭和40年頃、私は鳥取県にある岡山大学の研究所にいたが、ある時岡山大学から数人の教官が研究所を訪問した。その中の1人に見覚えがあった。横穴から生還した沼野忠之君であった。彼も私を思いだし20年ぶりの再開を果たした。縁とは不思議なものである。

空襲の被害は決定的であった。校舎は全焼した。死者は生徒10人くらい、下士官3名くらいであったと覚えているが確かなことは分からない。焼夷弾に直撃された死体を私も見た。丸太のような炭となり焼け跡に横たわっていた。私が最初に逃げ込んだ校舎脇の防空壕も後から見ると完全に焼け落ちていた。先に書いたように、私は逃げるとき多摩川の水泳訓練用に準備した背嚢を防空壕に残したまま逃げた。背嚢も中の衣類も完全に灰となり、制服のボタンが5つ殆どそのままの位置で並んでいた。そのほか小さな金属の缶が残った。歯磨き粉の入っていた缶である。ボタンと共にその後暫く手元に置き、ときどきだして眺めた覚えがある。

空襲が終わり生徒全員が校庭に集められた。多くの生徒は山を越え学校から逃げた。中には山を7つ越えて多摩川の水泳訓練所にたどり着いたものもいたそうである。これらの生徒は戦場離脱の罪を犯したとして名を読み上げられた。逆に私を含め校庭に留まったものは殊勲者として名を呼ばれた。私は横穴から生存者を引き出した功績を特に認められ何か勲章のようなものが貰える事になった。これは一緒に横穴にはいった野上君が私の名を挙げたことによったと記憶している。私も彼の名を申告した。もっともこれは間もなく起こる終戦と軍隊の解散によって実現しなかった。(注3)

そのうち、校庭におばさん達によって食事がはこばれた。私は手も洗わずにぎりめしをむさぼり食べた。そのごどこでどんな食事をどんな風に食べたか翌覚えていない。

9 終戦の詔勅と竹槍

空襲の後我々はかねてから山中に建設していた仮設校舎で寝泊まりをすることになった。かねてというのは、入学後もなく学校の近くの山中に木材を運び、山林を開いてバラックを作っていたのである。毎日、一回か2回、生徒1人1人が木材を肩に背負って山道を列になって登った。幼年学校に対する爆撃を予想しての作業であったかどうかは分からない。しかしとりあえず寝ることはできた。といってもたたみ2畳に3人くらいの余裕しかなかった。

終戦の詔勅は山の中の仮設校舎の前で聞いた。私はこれでやっと両親に会えると内心ほっとした。しかし周りの生徒たちからは泣き声が起こった。中には両手をたらしたまま号泣している生徒もいた。その姿はどきっとするほど感動的であった。私も何とか涙を流さねばと思った。しかし内心はこれで国へ帰れるなという思いを消せなかった。

しかし私の期待に反して若い教官達(大尉クラス)の意気は少しも衰えなかった。元気のよい生徒も多かった。本土決戦の準備が着々と進んだ。横穴を掘り巡らし、ところどころで木の根本などに節を抜いた竹の筒をさし込み換気孔とした。横穴の入り口は巧みに土と草でおおいカムフラージュされた。また先を鋭く切った竹の先を焚き火で焼き竹槍を作った。私はうっかり竹槍で機関銃には勝てないよともらしたため仲間から激しく責められた。私は決して勇敢な士官にはなれなかったと思う。

しかし山の中のバラック生活にも楽しみはあった。空襲で破壊された近くの缶詰め工場から鮭缶をトラックにいっぱい運び出し幼年学校に運んだ。どんないきさつであったか定かでないが下士官が指揮を執った。それからは毎日鮭缶を食べた。夜になると何人かでバラックの屋根に登り、盗み出した鮭缶を食べながら喋った。月を眺めていた記憶もある。どんなことを考えていたのであろうかはっきりした記憶はない。先に書いたように焼け出された後の食事のことは覚えていないが鮭缶のことはよく覚えている。あまり鮭缶ばかり食べてゲップはもちろんのこと、汗まで鮭臭かった事を覚えている。私は鮭缶は今でも好きではない。しかし因果なことに娘の亭主も孫も瓶詰めの鮭が大好物である。

10 幼年学校の解散

八月末徹底抗戦をあきらめた教官達によって幼年学校は正式に解散された。生徒鑑が拳銃を何発か空に向けてはなったのち油紙に包み地中に埋めた。生徒鑑の一人が訓辞でいった「10年たてば連合軍同士で戦い始める。我々は苦節10年で又会うことができる」という主旨であった。

別れに際して、同室の伊ケ崎暁生君(下写真)の正手簿(ノート)に書いた寄せ書きのコピーが手元にある(写真右)。昭和20年8月24日付けのこの寄せ書きでも「臥薪嘗胆この10年」、「10年後起ちて御国を起さむと我は里にぞ身を修むなり」とか「忍苦10年、再建の日迄」など10年がいくつも見られる。私自身も「沈黙10年」と書き残している。

異色は上田篤君の「科学化学」である。彼は今日の日本の科学立国を予見していたことになる。彼が今どうしているか知らない。

8月末、幼年学校を後に満員の列車に乗った。大した荷物はなかったが甘い菓子類をもらった。清水駅から荷物を肩に家まで歩いた。港橋まで焼け野原であった。しかし美の輪稲荷前のわが家は無事であった。艦砲射撃で神社の本殿が被爆しただけで周囲の家は殆ど無傷で残った。神風は局所的にはおこったのだと思う。

11 再会

幼年学校解散から今年は53年目である。この間私はまあまあの人生を送り、60才で1回目の定年退職を、更に65才で再就職先から2度目の定年退職を経験た。現在はフリーで67才の毎日を送っている。

幼年学校生活は昭和20年の4月から8月までの5カ月で67年の人生の1%にも満たない僅かな時に過ぎない。しかもその後の生活は幼年学校とは全く違う異質なものであった。しかしあの異質な体験は私の心に深く染み込んでしまった様である。ときどきあれは夢ではなかったかと自問してみるが、その度に焼夷弾の火柱がたつ校庭などなどの忘れがたい情景が目の前に浮かんできたものである。

幼年学校時代の友人との交際も戦後しばらくは細々と続いた。井上勝人くんはおかあさんと共に新宿の今の歌舞伎町当たりの地下防空壕に暫く住んでいた。中学時代であったか上京して何日か泊めてもらったことがあった。新宿は焼け野原であった。その後彼は一橋大学に、私は東大にはいり暫く交際が続いたがいつの間にか途切れてしまった。再会したのは何十年か経ってからで、彼は愛媛大学の教授となっていた。お母さんも元気であったが、彼は交通事故で車椅子の生活であった。

井上君の所にいったときのことであろう、一度かっての生徒鑑殿下であった賀陽宮さん(当時は既に皇籍を失い単なる賀陽さんであったかも知れない)のお宅に若干の食料をお土産に伺ったことがある。殿下にはお会いできなかったがお土産はお渡しした。後からお礼のお手紙を頂いた覚えがある。また矢張り戦後間もなく柴田生徒鑑が清水の私の実家にこられ一泊されたことがある。確か当時は手に入れがたかった下着をお土産に下さったと思う。しかしどんな話しをしたか全く覚えていない。大学を出てからは何かと忙しく幼年学校は私の心の奥深くにしまわれてしまった。

忘れかけていた幼年学校を思い出させてくれたのはNHKの朝のお茶の間番組を担当していた人気アナウンサーの井川君とニュース担当の秋山アナが幼年学校の同窓生であることを知ったときであった。上京のおり放送局に二人を尋ねたり、両君の世話でクラス会に出席したりした。上にのせた伊ケ崎君の写真や寄せ書きのコピーはその折り伊ケ崎君から出席者に配られたものである。

岡山から東京に移った1983年ころ、野上正夫君と会った。私の仕事の仲間の一人が沖電気に転職したが、その受け入れ役が当時専務取締役であった野上君であった。新宿の日本料理店で豪華な昼をご馳走になった。彼は私の入院中もお見舞いを贈ってくれたがその後会う機会がない。

12 オウム真理教と幼年学校

二度目の定年退職を迎える直前9カ月の入院生活を送ったことは別に書いた。この時オウム真理教のサリン事件が起こった。その後の警察の捜査でオウムの出家信者の生活ぶりが報道された。私には、彼らが閉鎖的な集団生活のなかで次第に何かに引き込まれていく様子が、私の幼年学校の体験と良く似ているように思えた。幼年学校の目的は中学生の少年に“天皇の御為に命を捨てる軍人精神”を植え付けることである。これは当時でも不気味な自己開発を必要とする教育であり、そのために外部から遮断された教育環境が必要であった。

私たち新入生は教練でも軍歌斉唱でも必死の形相となるか、あるいは目が落ち着かない風情をしていた。これに対して、2年生や3年生は実にどうどうとしていた。澄んだ目をした生徒が多かった。我々はこれに圧倒された。幼年学校の私には2つの人格があった。 1人はこのような目をした生徒になりたいと思い、もう1人はそれは恐いなと警戒心を抱いた。幼年学校の集団生活が続けば初めの人格が2番目を圧倒していったのであろう。夕闇の校庭を軍歌を歌いながら行進したときに感じた何とも言えない恐れがやがて歓喜に変わったのであろう。

人間は大多数の人間がやることに従おうとする本能があると私は思う。これに抵抗することは私のような人間には難しい。幼年学校から解放された後の人生も何となく世の流れに従って来たのかも知れない。そう思ってみると人間の閉鎖的な集団指向性の弱点は多くの場面にあらわれている。オウムもそうであるが、孫のお供でよく行くデズニーランドもその例である。何十人何百人という人たちがパビリオンに入場すべく列をなして1時間以上も小刻みに前進する。おかしいなと思いながら何となく列についてしまう。

このような私が戦後間もない頃一番感動したのは戦時中の共産党の徳田球一の生き方を聞いたときであった。彼は何十年かを反戦を唱えて獄中で過ごしたという。流れに逆らった人間がいたという事が私には驚異であった。私は共産主義に強く引かれ、その後大学にはいるまで関わり合いを持った。しかしやがて熱が冷めた。理由は色々あったがとりわけその集団指向の強さが私に本能的なこわさを感じさせたからである。別に幼年学校時代を思い出した訳ではなかったが何となく恐いと思ったのである。

注1:最初の生徒鑑は肱岡大尉であったが、4月19日大隊長として転出。2代目は柴田少佐が一、二、三訓育斑を一括して担当、三代目が賀陽の宮邦寿王殿下であった。
注2:「戦陣訓」は間違いで「軍人に賜りたる勅語」であった
注3:8月1日、テニアン基地を飛び立ったB29、180機が第一波で鶴見、川崎、長岡、水戸を次いで第二波で八王子を爆撃した。1日20時20分に発令された警戒警報が同55分に空襲警報に変わったそうである。八王子への第一弾は翌2日の0時45分に投下されたがそれから2時29分までの約2時間に67万2772発、1593トンの焼夷弾が八王子市に降下した。幼年学校には3万発が着弾したというから、私の見た校庭を埋めた火柱の記憶は間違いではなかったと思う。死者406人であったという。(以上は秋山君の記事から引用)

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