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A State of Coma

定年の2年前、平成5年の夏、スコットランドのエヂンバラで国際会議が開かれるのを利用してアメリカ、イギリス、オランダを回って帰国という世界一週旅行を計画した。アメリカはシンシナチの長男宅で10日ほど楽しんだ後、エヂンバラに行こうと思った。大学生協で切符や宿の手配をすべて済ませた所で、かねて申し込んであった一泊2日の人間ドックに入った。その結果が思いがけない腎臓ガンの発見であった。自覚症状もなく意外であった。

急遽山形大学医学部付属病院の泌尿器科に入院 左腎臓の摘出手術を受けた。摘出手術はうまくいったらしいが、後の処置に問題があった。腸閉塞となり2度目の開腹手術が約3週間後に同院の第一外科で行われた。既に腸は滅茶苦茶に癒着が進み此の手術は9時間に及んだらしい。挙げ句の果てに耐性黄色葡萄状球菌によるいわゆる院内感染を受け、爾来約4カ月を意識不明のままベッドに横たわることとなった。

私自身は平成5年の8月に2度目の手術で手術室に運ばれたのは覚えているが、次に物心が付いたのは翌年の1月初め、神戸大震災の直前であった。この間腹部に500ccもの膿が溜まり更に3度目の開腹手術を受け、肺炎、腹膜炎、肺水腫、12十二指腸潰瘍など多くの合併症に苦しみ、3ー4回の危篤状態を経験したらしい。「らしい」というのは勿論この間私は意識不明ですべての話は回復後医師と妻の定子から聴かされたものだからである。

 4カ月間意識不明といったが正確には幻想の世界に遊んだといった方がよいかもしれない。私は私なりの生活、しかもかなり刺激的な奴、をこの間送っていた。普通の夢は断片的で直ぐ忘れてしまうのに対し、この幻想はストーリーが一貫していて現実の世界と緩やかにつながっていた。色々な幻想を見た。時間的には化学教室の学生時代、から海洋研究所を経て山形時代まで、それから入院中の病院生活と実に多彩であった。

この話を友人や家族に語るといつも書き残しておきなさいと言われたが、何となく億劫でそのままにしてきた。今年久しぶりに出席した大学時代の同窓会である火曜会でも同じ事を言われた。今日はその内の幾つかのの思い出を纏めてみたい。もう大分時間がたったので細かい点はかなりいい加減だが、大筋は決して忘れる事は出来ない。又此は夢ではなくて生活の記録なので全部書くと長たらしくなってしまう。話の前後や中を端折り面白いところだけ書くことにした。  

1 病院のこと

私の入院していた病院では入院患者を3つのカテゴリーに分けていた。第一は昼間だけ入院を許された患者で勿論特定のベッドを持たず、夜は外に出された。第2は特定のベッドは持たないが昼夜入院を許されたもの、第3は特定の部屋とベッドを与えられ昼夜病院で暮らす患者であった。私は初めは第2のカテゴリーであった。勿論第3のカテゴリーでないことは不満であったが、部屋が空く迄我慢するほかなかった。

何処でも好きな場所に座ったり寝たり出来ると言うことは席争いであった。私はテレビの前の長椅子に座ったが忽ち隣や後ろにびっしり患者がつまり、暑くてたまらなかった。患者さんは皆珍妙な格好をしていた。あるものは顔を目だけ出して包帯でぐるぐる巻いていた。あるものは色とりどりの千羽鶴の束を頭からかぶっていた。此の患者は何時も私の左隣にいた。夜は空いたベッドを探して寝たが直ぐ他の患者が隣に入りこんで寝た。

私は何とか個室が欲しかった。主治医のN先生や看護婦さんたちを集め英語で自己主張をした。私はこんなに一所懸命働いてきたのだ、個室に入る権利があると主張した。その後ある若い先生が私を個室に入れてくれた。ベッドは金属製でとても狭かったが我慢した。しかしその部屋にも包帯と千羽鶴の患者は昼夜を問わず出没して私を苦しめた。しかし不思議なことに家内の定子が来ると彼らは瞬時に姿を消した。隣や後ろに人がいて邪魔だから外に出してくれと彼女に頼む度に彼女は「何言っているの、誰もいないじゃない」と答えた。部屋は狭かったが壁には大きなベニスの絵が掛かっていた。川の向こう岸に有名な町並みが美しかった。

 私はなんとかもっと良い部屋を自分で探そうと何度か真夜中にベッドから抜け出した。しかし自分の部屋を出ると直ぐ疲れて歩けなくなり、大声で看護婦を呼んだ。しかし呼べど叫べど誰も来なかった。耳を澄まして足音を聞いた。足音がする度に叫んだ。もう駄目かと諦める頃いつも目の前が薄明るくなり、自分の部屋の壁に掛けてあるベニスの絵が現れた。ああ自分の部屋にいるんだなと思うと、私は何時の間にかもとのベッドに座っていた。ああ良かった、もう2度と抜け出すまいといい聞かせたが、その後も何度もベッドを抜け出し同じ苦しみを味わった。

ある時とうとうN先生が酒井さん今度抜け出したらもうベッドには戻しませんよと宣言した。私はもう絶対にしませんと誓った。然し気がつくといつの間にかベッドを抜け出していた。しかも今まで来たことのない一角にいた。私は焦ったが体が動かなかった。もうあの部屋には戻れないなと思って涙が出た。涙が止まるとまた目の前のあのベニスの絵が現れた。いつの間にかベッドにいた、然しもとの部屋ではなかった。不安で身が縮む思いであった。

2 看護婦襲撃事件

私は病院にもう長いこと入院していた。しかし私は終始病院から何とか抜け出そうと考えていた。何回もベッドを抜け出したが、その度に色々な理由で挫折しを繰り返してきた。この話もその中の1つである。

ある時斉藤さんというとても親切でベテランの看護婦さんが何故か私の逃走を黙認し、彼女につれられて深夜病棟を抜け出した。病院は箱根にあった。彼女につれられて深夜の箱根登山鉄道の駅にたどり着いた。もう終電は出てしまった後であった。人もまばらな駅に荷物がが積み上げてあった。その陰から小柄な看護婦がでてきて私に近寄り血統を調べるので採血をしますといって注射器を取り出した。ここで血統と書いたが実は血糖値のことだがこのときは血統だと思っていた。

私は咄嗟におかしいなと思った。前に新聞で看護婦に化けた物取りが麻酔薬を通行人に注射し意識を失わせて金品を奪う話を読んだ記憶があった。私は嫌だといて看護婦を押しのけた。すると大柄な三人の看護婦が現れ私を押さえつけようとした。私は相手の顔にパンチを食らわせたり足を蹴っ飛ばしたりして激しく抵抗した。我ながら力がでた。

しかし私にとって本当のショックは親切でベテランだと思っていた斉藤看護婦も一味であったことを発見したことであった。彼女は私に近づき顔をやや赤らめて、酒井さんあそこに男たちがいるでしょう、あまり抵抗すると彼らに棍棒で殴り倒されますよ、おとなしく言うことを聴きなさい と”忠告”した。

私は諦めて注射を受け意識を失った。気がつくと同じ様な目にあったらしい10人くらいの眠りこけた男たちと一緒に小型トラックに押し込められ移動中であった。どこかで停車したとき斉藤看護婦が私を密かに運び出し道路脇に隠してくれた。自動車が去った後歩いて調べると浜松であった。ここから又紆余曲折の後病院に戻った。入り口で守衛に事情を話し警察に連絡するように頼んだ。しかしその後警察から私には何の連絡もなかった。しかし病院から何人かの看護婦が連絡もなく姿を消している事は事実であった。しかし斉藤看護婦は勤務を続けていた。私は定子の耳元で囁いた。彼女は親切そうだけど拐かしの一味なんだよ。気を付けろよと。彼女は勿論信じなかった。

 意識が戻った後で定子や看護婦さんから聞いた話はこうであった。重体の間は毎朝5時になると宿直の看護婦さんがやってきて、酒井さん血糖値を調べますので採血します、と注射器を片手に私の手を取るわけだが、時に私は看護婦さんの顔を殴り付けたそうである。又ときどき暴れるので力のある看護婦さんが私を抑えようとして、私に足げりなどで激しく抵抗されたという。

意識が戻ってからも暫くは朝5時の採血が続いたが、未だ半分眠った状態の中で看護婦さんの白い顔がスーッと目の前に現われるのは不気味なものだった。箱根で私を押さえつけようとした3人の内2人は、夢の中の顔と照らし合わせると、副婦長さん、他の1人もベテラン看護婦でその後ずいぶんお世話になった。患者を甘えさせないで自立させようと、時にしごくのはベテランの看護婦さんである。9カ月の入院中に私はベテランで厳しい看護婦さんと、未熟だが(或いはその故に)患者の我侭を聞いてくれる看護婦さんの両者にうまく接することが出来るようになった。

3 恐い尼さんの話

これも看護婦さんの話しである。私はある私立大学の教員であった。大学には立派な教会があった。教会の正面の扉は頑丈で何時も閉じられていたので、信者でない私はそれまで教会の中を覗いたことはなかった。しかしある時、たまたま扉が開いていたので何となく中にはいってみた。人気のない薄暗い内部をおそるおそる進むと、得体の知れない恐怖が襲ってきた。じっと正面を見てたっていると、頭から黒衣をかぶった尼さんが近づいてきた。彼女は恐い顔で私をにらみ、「ここで何をしているんですか、ここは貴方の来るところではありません、早く出なさい」と言った。私は、すみません、何となく入ってしまって、といって後じさりするようにして教会を出た。

その後しばらくは教会には入らなかった。しかし、前を通るたびに何となく秘密めいた教会のことが気になったいた。あるとき、大学の本部の建物と教会の側面の入り口が渡り廊下で繋がっていることに気付いた。その入り口は扉がまわりの壁と同色でちょっと見ただけでは判らないようになっていた。扉を押すと簡単に開き、その内側に厚い黒いカーテンが掛かっていた。カーテンの隙間から覗くと、正面に祭壇の側面が見えた。内部にだれもいないのを確かめて入った。祭壇をじっと見つめていると、いつの間にかこの前の黒衣の尼さんが私の横に立っていた。「又ですか」と言いながら彼女は私の両手をひもで固く縛りつけ、その端を祭壇の手すりにくくりつけた。私を睨みながら「罰です、暫くここにいなさい」と言って彼女は消えた。

縛られた私が何時解放されたか、実はよく覚えていない。ただ、おしっこやうんちを漏らしたりして屈辱的な時間を過ごしたことは覚えている。私はもう決してはいりませんと誓って解放された。しかし、気がつくと私はまた側面から忍び込んでいた。前回黒衣の尼さんがどうも祭壇の裏から現れたような気がしたので、今度は祭壇の裏に回ってみた。案の定、下に降りる階段があった。階段を途中まで下りると人の話し声が聞こえた。そっと下を覗くと、地下室があり、テーブルを囲んで男たちがひそひそと話しをしていた。その様子はいかにも陰謀を巡らしている感であった。

すると又あの黒衣の尼さんが私の後ろに立っていた。彼女は実に恐い顔ををしていた。彼女は私の両手両足を縛り、地化室のエレベータに乗せて一番下の階に連れ込んだ。そこで私をすごい目で睨み、無言で立ち去った。私はああこれでおしまいだなと思った。

意識が戻ってから、あの恐い尼さんが副看護婦長の1人、Iさんによく似ていることに気付いた。家内にその話しをすると、こうであった。私は眠っている間に何度か点滴のチューブを引き抜いたそうである。ある時は気付くのが遅れて多量の出血があり、あわやという事態になったそうである。これを防ぐために夜勤の看護婦さんは苦労したわけであるが、Iさんはしばしば私の両手両足をベッドに縛り付けたという。家内は毎朝6時頃には病院に来て、一糸もまとわず裸で縛り付けられている私の紐をゆるめ体に布団を掛けたという。

そんなわけで、私はI看護婦さんの顔を見ると何となく恐怖に襲われた。しかし、ある時、廊下を点滴の架台を引きながら歩行中に、ばったりとIさんと顔を見合わせることになった。Iさんは私を見てにっこり笑った。私はああこの人も善意の看護婦さんなんだと安心した。

4 化学教室と警察署

時は戦後間もない頃、場所は東京の郊外、私はおんぼろ車で原野の中を走るでこぼこ道を運転していた。突然 トラック数台に分乗したデモ隊が赤旗を振りながら追い抜いていった。私はどうゆう訳か道を間違え背丈を越すような草ぼうぼうの小道でエンストを起こした。自動車をおいて救援を求めて辺りを歩きまわったが人影もなく途方に暮れた。

高みに登ると遥か向こうに本来走るべき広い道路があり自動車が走るのが見えた。自分の自動車に戻ると数人の男が私の自動車を調べていた。助かったと思って声をかけると、途端に襟髪を取られ問答無用で手錠をかけられてしまった。刑事であった。その中の1人は紛れもなく化学教室の後輩の野尻君であった。彼は不破敬一郎さんの弟子で私の東京時代にPhDをとったが私もその時の審査員の1人であった。勿論幻想の中の私はそんなことに矛盾を感じたわけではないがちょっと驚いたことも確かであった。

そのうちに銃声が聞こえてきた。野尻刑事は私を木陰に引きずり込み過激派のアジトが近くにあり別の刑事達が急襲している事、私は彼らの一味とみて逮捕された事を早口でまくしたてた。彼はしゃべり出すと止まらない事で知られている。私は彼によってある警察署に連行され取り調べを受けた。警察署に着いて見るとそれは昔の化学教室そのものであった。

赤煉瓦の玄関を入ると中にたくさんの馴染みの部屋がつながっていた。中を覗くと顔見知りの刑事がたくさんいた。馬淵久夫刑事、村上悠紀夫刑事などなどであった。それから紆余曲折を経て私は無関係であることが立証され、自動車も警察によって署まで運ばれ私と共に無罪放免となった。尤も自動車が返還されるまでには警察の施設係と色々面倒なやりとりがあったが詳細は忘れた。

 

5 オセアニアから人を招いた話

ここで言うオセアニアとはどこか南の海の島国のこと。東京時代である。なにかの折りに南の国に私の遠い血筋の青年がいること、彼が日本の高校で勉強したがっていることが分かった。そこで私が日本への旅費と滞在費を持ち、別の親戚が富士山麓で彼の実際の面倒を見る事になった。

空港に彼を迎えに行った。顔を包帯でぐるぐる巻いた目だけ出した彼がやってきた。しかし驚いたことに彼のほかに6人の様々な格好の若者が降り立ち、一緒に面倒を見て貰えるというのでやってきた、というではないか。私は仰天して彼に事情を聞いたがはっきりしない。とにかく深川に用意した宿に7人を入れたが勿論狭い畳の部屋にごろ寝であった。私は彼を呼びとにかく困った、どうするか明日までに結論を出すと告げた。

翌日は深川の水路で7人を遊覧船に乗せ1日を楽しく過ごした。しかし私の心は決まっていた。その夜7人を呼びこれはお前たちの約束違反だ、あの青年も含めて全員帰って貰う、但し往復の旅費は私が持つと告げた。7人で約120万円であった。彼は顔に包帯を巻いたまま泣いていた。私の心も痛んだ。しかし7人の面倒は見れないことは明らかであった。呼んだ青年を許す気にもなれなかった。帰りの航空券はある旅行会社に頼んだ。担当はどうゆう訳か又野尻君であった。この話は更に南の国に駐在するある商社マンの離婚問題に巻き込まれる形で進んで行くがここでは省略する。

6 石橋純一郎君の話

石橋君はまだ院生であった。私はどこかの部屋で数人の学生相手にセミナーをしていた。気がつくと石橋君がいない。どうしたのかなと思っていると、突然入り口の戸をがらっと開けて彼が顔を出した。先生今日は箱根でスキーのジャンプがあるので私はこれから見に行きます。と叫びあわただしく入り去った。すると学生たちもじゃあ俺も、俺もと口口に叫びながら部屋から走り去っていった。

それじゃ俺も行こう、と私も飛び出した。見ると新幹線の電車が目の前を走り去ろうとしていて、石橋君が飛び乗り、続いて学生たちが飛び乗っていた。私もはーはーと走りながら追いつき何とか飛び乗ったがそのまま力つき意識を失った。

どれだけ経ったか目を覚ますと、電車は既にどこかの駅に停車し、私は誰もいない座席に一人横たわっていた。車掌室らしい。声を出したが返事はない。席から転げ落ちるようにして床に降り、這って扉迄言ってホームを窺った。戸口に洗面器がありその下にコンドームが何本も吊してあった。ホームには人影はなかったが、ホームの向こう側から看護婦さんが一人歩いて来た。顔を見ると馴染みの人である。大声を出す前に向こうで私に気付いてくれた。

私は助かったと思った。私は彼女に新幹線でこんな所まで来てしまった、もとの病院まで連れていって下さい、と頼んだ。彼女は非常に同情した顔で、酒井さんはずーと此の病院にいたんですよ、何処にも行きませんよ、といった。私は混乱して私の病室まで連れていって下さいと頼んだ。彼女は更に優しく、ここが酒井さんの病室ですよと言ってくれた。呆然として見回すと例のベニスの絵がぼーっと現れ、私はもとのベッドにいた。洗面器の下の例のものどうなったかなと思いながら又意識が薄れた。

7 野崎義行邸の水銀事件

野崎さんは広くて立派な家を海岸の近くに持っていた。ある夏、堤真君や2、3の学生たちと野崎邸の近くの海岸に釣りに行った帰り、皆で立ち寄った。彼は未だ帰っていなかったがどういう訳か玄関から中に入れた。リビングルームの向こうに大きなダイニングテーブルがありご馳走を山盛りにした皿が並んでいた。

学生達がおーっと歓声を上げて突進すると1人が椅子かテーブルかに引っかかり、それがリビングルームの壁に立てかけてあった食器棚のようなものに当たった。すると多量の水銀が床に転がり出てきた。仰天した。野崎さんが帰る前に何とか始末しようと思っていると野崎一家が自動車で帰ってきた。入ってくるなり彼は顔色を変え窓際に行って外を向いてしまった。

話は前後するが名古屋大の増澤君が初島沖の冷水活動域の潜航調査の帰り、わが家によってくれた事がある(これももちろん夢の世界での話し)。その時話しが野崎さんにおよんだ。彼が北大の人たちから聞いた話では、野崎さんは機嫌が悪くなるとぷいと窓から外を見て返事をしなくなるということであった。私はそれを想い出して何はともあれ水銀を集めようと思った。

堤君が任して下さい、といってガラス管で吸い上げてはガラス瓶に入れようとした。然し見ていると吸い上げるそばからボロボロとこぼしている。私は水銀のことは俺にまかせろといってやってみたがあまり効果はない。野崎夫人に聞くと今日はパーテイーでお客を招待してあるとのこと。これを聞いてますます気が焦った。

やがて野崎夫人がもう間に合わないから保険会社を呼びましょう、と言った。聞いてみると家財道具一式を保険にかけてあるので、彼らに通告すれば何とかしてくれるはずであるという。私は渡りに船と保険会社を呼ぶことをお願いした。電話をすると驚いたことに防護服で完全武装した2人の男が水銀吸入装置を携えて現れ、あっと言う間に部屋中の水銀を除去してくれた。但し水銀で汚染された家具などは新規に買い換えることになり、その請求書は私が受け取ることにした。やがてパーテイー客が現れる時となり野崎さんも口を利いてくれるようになった。我々は早々に退散した。
 

8 本当の話

定子によると私が昏睡状態から目を覚まして直ぐに尋ねた言葉は、オセアニアから7人呼んだがその旅費がまだ支払ってないから直ぐに支払ってくれ、であったという。彼女がそんな話は聞いていないというと私は大変腹を立てたそうである。しかし彼女がいくら私のファイル調べてもそんな話がでてくるわけがない。私自身がこの話は幻想であったことに納得するには1カ月くらいが必要であった。

私は東京時代の最後の航海でパプアニューギニアのラバールに行った。ここは太平洋戦争中ラバール航空隊の基地があったところで、当時少年期を過ごした私と同年代の現地人の多くは日本語が話せた。彼らと話していると、こんな所までやってきて日本語を教えたかっての日本の身勝手が身にしみた。これがオセアニアから人を招いた妄想の原点だろうと思う。このほか夢の中で借金したり、物理的に迷惑をかけた人は数多い。野崎邸で水銀をばらまいてしまった珍事件はその例である。目が覚めてしばらくはこの人達になんとお詫びしたらよいかと悩んでいた。頭が正常に戻るにつれてこれらの話が夢であったことが段々と分かり、その都度ホットした。

初めに書いたように私が昏睡状態から目覚めた直後神戸の大地震がテレビや雑誌をにぎわした。やがてオウム真理教事件が飛び込んできた。毎日刺激のあるニュースを見たり聞いたりしている内に私の頭の混乱もおそまってきた。なにしろ目覚めた当時は私はロスアンジェリスの病院にいるつもりでいた。だから看護婦さんにも英語で話しかけ、酒井さん日本語でお願いします、などと叱られていた覚えがある。

目が覚めて暫くして9カ月間溜まりに溜まった手紙を見始めた。その中の一通に私がかって議長をしていた事のある国際集会のサーキュラーがあった。その中で私の病状が報じられていた。酒井は腎臓ガンの手術後入院が長引き4カ月にわたってin a state of comaであった、と書かれていた。昏睡状態とはこの様に言うのかと感心した。

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