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『切り抜き情報』
2003年6月15日号

【言い伝えたいこと】

発行者・マルジナリア研究所
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要旨=「書籍」でなくても、「著作集」でなくても、「ひとこと」で、生涯に匹敵する程度の言葉を、言い伝えることが可能だ

 

◎傘を離そうとしなかった(武谷三男のこと)20000428

◎研究中は天地なり(田中正造)

◎私は言いたいことを言っているのではない(桐生悠々)

◎縛ることがどんなに人間を踏みにじることか(北良治)20000610

◎人は何かを「学ぶ」ために生まれてきたのだ(佐々木智佳)20000606

◎Aさんの残してくれた笑顔(尾崎明子)20000521

◎お前が焼いたパンを車で配達するか

【文献 1】

傘を放そうとはしなかった

20000428『朝刊新聞朝刊』

講談師 神田香織 福島県いわき市 45歳。

[物理学者の武谷三男氏が亡くなった。氏は戦後、核兵器、原子力、公害問題などに、物理学者の立場から活発に発言し、現代の科学技術の安全性を問い続けてこられた。若い頃の著作に、今日の航空機、列車、原発事故など、巨大事故が起こる可能性を予測した内容のものがあるが、それらがことごとく的中してしまっている現実を思う時、感慨深いものがある。]。[私は氏の次男にあたる人と五年前に離婚した者だが、()。日常生活でも氏は自らの安全性の考え方に徹していた。そのひとつは、常に雨傘を持ち歩いていたことだ。ある晴天の日に食事に出かけた時、店の駐車場から店内に入るまでのわずかな間にも、傘を放そうとはしなかった。いぶかる私に氏はこう答えた。「物事には一○○%絶対ということはあり得ない。常に万が一を考えて行動する。これが安全性の考えだよ」 多数の人命にかかわる仕事をする人々には、氏の考えをぜひ身につけて頂きたいと願いつつ、元義父のめい福を祈りたい。]

      *     

(関連)[「根底に氏独自の『技術論』がある。安全性の証明がないと技術といえないという自明のことが論理的に明らかにされ、幅広い活動につながった」と量子力学などの共著がある長崎正幸立教大名誉教授。]20000529『朝日新聞朝刊』

【文献 2】

研究中は天地なり

『田中正造選集 第五巻』著者・田中正造。発行所・岩波書店。1989年8月10日。

明治37年10月1日 黒澤酉藏宛

(青年、買収される)「青年も一回酒食には精神を奪わるるほどの貧苦、渇して水と来てはいかなる人にても」P15

「東京も田舎も只戦争の外事にのみ心を奪われて内治之事は満更忘れたり。山林濫伐も盗賊横行も此時にあり」

「なんでも提灯行れつの世の中に真面目で討死する兵士のみは憐れに相違なし」P15

「なんでもかでも日本は大に亡国に候。研究研究。こんなよの中に生れて出たのも亦一つの研究ならん。天地は長し、人の命は短かし、研究は天地と共に長がし。研究中は天地なり。天地や天地や汝ぢは我々と共に長く研究し、又研究の材料を多く我に与ふるものなり。○夜半燈明らかにして恰も白昼の如し。」P15

【文献 3】

私は言いたいことを言っているのではない

(『他山の石』一九三六年六月五日、太田雅夫『桐生悠々自伝』所収)](『反骨のジャーナリスト』 著者・鎌田慧 2002年10月18日第一刷 岩波書店)

(桐生悠々の発言)[人動(やや)もすれば、私を以て、言いたいことを言うから、結局、幸福だとする。だが、私は、この場合、言いたい事と、言わねばならない事とを区別しなければならないと思う。私は言いたいことを言っているのではない。徒(いたずら)に言いたいことを言って、快を貪っているのではない。言わねばならぬことを、国民として、特に、この非常に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ。言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、苦痛である。何ぜなら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるのに反して、言わねばならないことを言うのは、義務の履行だからである。もっとも義務を履行したという自意識は愉快であるに相違ないが、この愉快は消極的の愉快であって、普通の愉快さではない。しかも、この義務の履行は、多くの場合、犠牲を伴う。少なくとも、損害を招く。現に私は防空演習について言わねばならないことを言って、軍部のために、私の生活権を奪われた。私は又、往年新愛知新聞に拠って、いうところの檜山(ひやま)事件に関して、言わねばならぬことを言ったために、司法当局から幾度となく起訴されて、体刑をまで論告された。これは決して愉快ではなくて、苦痛だ。少くとも不快だった。」P115 (2003/06/04記)

【文献 4】

縛ることがどんなに人間を踏みにじることか

『朝日新聞朝刊』20000610

 [九日初会合を開いた厚生省「身体拘束ゼロ作戦推進会議」の委員の一人、北海道奈井江町長の北良治さん(六三)は自治体代表としての立場に加え、ある体験があって選ばれた。「全身の血が逆流しました」。北さんは、十七年前の衝撃を今も忘れない。五月の夕方、札幌市の老人病院に入院していた母親を一週間ぶりに見舞うと、ベッドの上で、さくに両手足を縛られていた。母はおびえた表情で「何で縛られるの」と訴えた。ひもをほどくと飛びついてきて、「連れて帰って」と泣いた。北さんはぼうぜんとし、涙があふれた。看護婦に抗議すると、「人手がないんです。いやなら別の病院に……」という。母親は当時九十一歳。農家に嫁ぎ、十人の子を育てた。よく働き、優しい母だった。北さんは当時、町議会の議長。町内に福祉施設がなく、札幌の病院に入院させたのだった。すぐ自宅に連れ帰ったものの、翌年亡くなるまで、縛られた痛みは母の記憶に残った。「おふくろに何てひどいことをしたのか。今も頭にやきついています」と北さんは語る。町長になって十三年。「最後までその人らしく、尊厳を大切にする」を基本理念に施設を運営してきた。「絶対に縛らない。介護保険を運営する自治体がこの理念をはっきりと打ち出し、団結して取り組めば、拘束はなくせます」と語る。「縛ることがどんなに人間を踏みにじることか。自分がその立場になったらと考えてみてください」 九月の会合では、縛らない介護を続ける奈井江町の痴ほう施設の取り組みなどを紹介して。]20030605記

【文献 5】

人は何かを「学ぶ」ために生まれてきたのだ

『朝日新聞朝刊』20000606

[先日、十八歳になったばかりの友人が、病気でこの世を去った。白血病だった。高校の時から入退院を繰り返していて、私も何度か見舞いに行った。その時に彼女が言った「学校に行きたい」の言葉を私は忘れられない。彼女の夢はスチュワーデスで、高校卒業後は専門学校へ進学するはずだった。入院中も退院後に備えて毎日、勉強を欠かさなかった。しかし彼女は退院出来ないまま、その短い生涯を閉じた。それまで適当に生きてきた私にとって、彼女の死は重くのしかかってきた。人は何かを「学ぶ」ために生まれてきたのだ。たとえそれが、周りの人にとってくだらないことでも構わない。「学ぶ」ことによって人は大きくなれる。目標を達成するまでの過程の中に、人生の意義があると私は思う。大学生 佐々木智佳 仙台市 18歳。]20030605記 14面

【文献 6】

Aさんの残してくれた笑顔

20000521『朝日新聞朝刊』

[眠るまでのひとときを幾人かのお年寄りがホールに集まり、楽しくおしゃべりしていた。歯を磨いた後、廊下を徘徊しているうちに部屋を間違えた人がいて、小さなけんかもあったが、おしゃべりするうちにいつも以上にに話に花が咲いたようだ。輪の中心のAさんは明治生まれ。しゃきっとした笑顔が印象的で、その夜はとても機嫌が良かった。徘徊する人の手をひっぱって隣に座らせて「ねえ、あんたもこの話を聞きなよ」と優しく語りかけた。周りの仲間にも最高の笑顔を振りまいた。おしゃべりは二十分ほど続き、聞き役に回ったBさんがしみじみと「これが本当のことだから楽しいのよ」と締めくくった。私は仕事をこなしながら、この様子を見ていた。忙しくて話を聞く余裕がない。それでも楽しい雰囲気は伝わり、AさんとBさんの言葉が廊下を走り回る私の耳に届いた。その夜から幾日かして、Aさんは突然倒れて帰らぬ人となった。いい話とはどんなに楽しいものだったのか。懐かしい昔の話に花が咲いたことだろう。楽しい話は聞けなかったけれど、Aさんの残してくれた笑顔が「いい人生だったよ」と、いつまでも語りかけてくれている。 介護職員 尾崎明子 静岡県 47歳]20030606記

【文献 7】

お前が焼いたパンを車で配達するか

2003/05/22『朝日新聞朝刊』

[何の前触れもなしに、父が突然天国に召されてから1年がたち、金沢に残された母がこの春、父と約束していた新しい「仕事」をスタートさせた。いつの頃からか、趣味でパン作りをするようになった母は、家でパンを焼いては職場や友人、ご近所に、「たくさん作ったからどうぞ」とおすそ分けをしていた。「おいしかったって言われるとうれしいものよ」と、母はまたどっさり焼いた。父はアツアツのあんパンをほおばりながら、「定年になったらお前が焼いたパンを車で配達するか」と冷やかし気味に言ったものだ。父が亡くなったあの日から、母は枯れることなく涙を流し、オーブンの火が消えた日が続いた。一周忌が過ぎたある日のこと、思いがけず母のパンのファンの方から注文と配達の依頼が舞い込んだ。「お父さん、本当に仕事になったわ」と、母の顔はパッと明るくなった。それを機に、店は構えず頼まれたときだけのパン屋を開業。今、父の車にかごいっぱいのパンを載せ、喜々として配達を楽しんでいる。]パート村上優子 大阪府交野市 35歳

【日録・余録】

20030526

私がこれまで鈍感だったこともあろうが(それはそれとして)最近、一生懸命な人にお会いすることが多い。それを記録したいと思うのは、はなはだ自然な現象ではなかろうか。

      *

(橋本義夫たちは「ハガキ」運動を始めたが、それとは別の意味で)

ハガキ1枚程度で、一人の人間の生涯のごとき時間を、凝縮的に表現できるものだということを、この神田さんの文章の「切り抜き」で思ったことであった。

とするなら、ほんの「ひとこと」でも語れよう。   

      *     

「言い伝える」という範囲を、広くとらえなくてはならぬ。教訓を垂れるということではない。自分なりに一生懸命にやり、そして他人が一生懸命にやることに感銘する、というだけのことである。「相互に懸命」である。        

また、それを誰が語るか、というのも大事なことだ。意外な人が語ったりするのである。

      *           

(武谷三男が)「傘を離さなかった」とすれば、これは「安全性」を自分の日常の行動において身に付けようとしたという意味で、それほどなら彼の「安全性」についての書籍を手にとってみようと思った。

      *     

(田中正造の言うのは)研究とは、大それたことではなく、自分の目の前にある、はなはだ個別の、困難な事柄を、研究の材料にすることだということ。→わかりやすく言えば、「天下国家の研究ではなく、谷中村の研究をせい」、ということである。そこに「天下国家」が凝縮して存在しているのだ、というのである。→とすれば。自分が研究するのだから、無数の研究者が輩出しなくてはならない、ということになる。

 

20030604

桐生悠々は、金沢に生まれ、長野(『信濃毎日新聞』)で活躍し、愛知で没した。→「言いたいことを言う」というのは、桐生悠々が揶揄されているわけだが、このような揶揄で人は、他人を落とし込めるのである。それをとっぱらって、「言わなければならないことを言う」というのは、やはり物事の構造について、そこにリスクがあるよと、注意することなのであるが、それをさせない、言わせない力学が働く。→田中正造の言う、「事物の道理」と似ている。→桐生悠々の、「言わねばならぬこと」の典型が、『信濃毎日新聞』の、大空襲を予言した「関東防空大演習を嗤う」の記事であろう。→東京上空で敵機を迎え撃つという陸軍の作戦計画を批判した文章である。「是の時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである」。

 

20030606

(尾崎明子さんの投書記事)すばらしい文章であるとKTさんにメール。これを書いた尾崎さん、主人公の亡くなったAさん、聞き役のBさん。さらに何人かの人々が、まるで映像のように見えてくる。そしてAさんの「言い残したい」発言はゼロだが、「笑顔」だけはしっかりと残されている。→こういう文章に触れると、忘れかけている「日々、新たに」の精神が自分のなかに甦ってくる。

 

20030608

(村上優子さん)。言葉だけではない。「パン」を焼いて人々に食べてもらう、というのもまた、伝承なのである。このパンもまた、亡くなった者とそれを受け取る者にすれば、大部の「著作」にすら相当するであろう。決してこのことは、宗教的とか精神的とかの話ではない(そう受け取る人が多いはずだが)。生き残った者が生きるための、手っ取り早い「選択」である。



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