国分寺市の鎌倉街道上道  その1

国分寺市の鎌倉街道は東京都内では比較的街道跡が良好な状態で残っています。それもそのはず、国分寺二寺跡のすぐ傍を通っているために、国指定史跡との関係から思うように開発が進まず、運良く街道跡が残されたのではないのでしょうか。

左の写真は西恋ヶ窪の熊野神社前交差点の前に建つ熊野神社の社殿で、和歌山県の熊野大神を勧請鎮祭したもといわれます。神社は現在、西向きに建っています。社殿の右手裏には芭蕉の俳句や地元出身の俳人宝雪庵可尊の句碑があります。

ひょろひょろと なお露けしや をみなえし
   芭蕉

月花の 遊びにゆかむ いざさらば
   可尊

熊野神社の社殿と境内
熊野神社には『廻国雑記』の地名をよんだ歌碑があります。

朽ち果てぬ名のみ残れる恋ヶ窪
今はた訪ふも知記りならずや

ところで、私が不思議に思うのは鎌倉街道がこの熊野神社の裏を通っていたと伝えられていることです。そのことは多くの鎌倉街道の著書を出されている方々も書いておられます。鎌倉街道は直進的な道のはずですが、この神社でわざわざ東に迂回するかたちになるわけです。一説にはここから迂回して「一葉の松」に向かったのは谷間が湿地帯だったからとも言われていますが、私にはどうも納得のいかない説明です。むしろ東山道武蔵路の第四期の道へ向かったと説明されたほうが納得できるようです。

熊野神社境内にある『廻国雑記』の碑
熊野神社の表面の交差点の車道を南に坂を下っていきます。素人目に道として考えれば北から進んできた街道伝承の道はこの道と見るのが自然です。坂を下りた辺りで東に斜めに分かれる道があり、その先に、一葉の松跡地、姿見の池などがあります。
斜めに分かれた道でなく、今坂を下りてきた道で、そのすぐ目の前に道路の西に面して斎場があり、そこの奥に東福寺があります。左の写真は東福寺の前にある一葉の松跡から移されたとい三代目の一葉の松、並びに傾城の墓と傾城由来碑です。
東福寺前の一葉の松と傾城の墓及び傾城由来碑
一葉の松に関する伝説は鎌倉街道を知る人はたいがい知っていると思われますが、知らない方のために書かせて頂きます。

ミスター鎌倉街道こと畠山重忠が若き日の頃に、この地の遊女・夙妻大夫と、いつひか恋仲になっていました。重忠が平家討伐で源義経の軍に加わって出陣していたときに、重忠の恋敵の男が夙妻大夫に重忠は戦死したと偽りを告げるのでしたが、夙妻大夫はそれを聞いて悲しみ、ついに姿見の池に身を投げて死んでしまいます。里人は夙妻大夫のために松を植えたそうですが、その松は不思議にも一葉の松になったということでした。この悲恋物語のことが傾城由来碑に書かれていて、その物語から村名が起こったと『新編武蔵風土記稿』、『武蔵野話』に記されています。

東福寺前の鎌倉街道伝承の道にあるお地蔵様
普通松の葉は二葉あるものですが、なるほど確かに三代目の一葉の松は近づいて見てみると一葉のものがあります。この物語は不遇の武将である畠山重忠に対する後世の創作であるとも伝えられています。恋ヶ窪の地名も国府が窪から訛ったものとする説もあります。しかし、熊野神社の『廻国雑記』の歌碑にもあるように室町から恋ヶ窪と呼ばれた土地で、逆にロマンスに満ちた恋ヶ窪の地名から悲恋物語が作られたともいわれます。私はこの悲恋物語がホントか作話かとかはどうでもいいと思っています。川本町の項でも書かせて頂いたように畠山重忠が人々に語りつがれるほどの人物であったということは確かなことです。
鎌倉街道伝承の道の切通し、この先はJR中央線で遮断される

国分寺市の鎌倉街道上道 その1 その2 その3