左の写真は西恋ヶ窪の熊野神社前交差点の前に建つ熊野神社の社殿で、和歌山県の熊野大神を勧請鎮祭したもといわれます。神社は現在、西向きに建っています。社殿の右手裏には芭蕉の俳句や地元出身の俳人宝雪庵可尊の句碑があります。
ひょろひょろと なお露けしや をみなえし 芭蕉
月花の 遊びにゆかむ いざさらば 可尊
朽ち果てぬ名のみ残れる恋ヶ窪 今はた訪ふも知記りならずや
ところで、私が不思議に思うのは鎌倉街道がこの熊野神社の裏を通っていたと伝えられていることです。そのことは多くの鎌倉街道の著書を出されている方々も書いておられます。鎌倉街道は直進的な道のはずですが、この神社でわざわざ東に迂回するかたちになるわけです。一説にはここから迂回して「一葉の松」に向かったのは谷間が湿地帯だったからとも言われていますが、私にはどうも納得のいかない説明です。むしろ東山道武蔵路の第四期の道へ向かったと説明されたほうが納得できるようです。
ミスター鎌倉街道こと畠山重忠が若き日の頃に、この地の遊女・夙妻大夫と、いつひか恋仲になっていました。重忠が平家討伐で源義経の軍に加わって出陣していたときに、重忠の恋敵の男が夙妻大夫に重忠は戦死したと偽りを告げるのでしたが、夙妻大夫はそれを聞いて悲しみ、ついに姿見の池に身を投げて死んでしまいます。里人は夙妻大夫のために松を植えたそうですが、その松は不思議にも一葉の松になったということでした。この悲恋物語のことが傾城由来碑に書かれていて、その物語から村名が起こったと『新編武蔵風土記稿』、『武蔵野話』に記されています。