金堂と講堂の東西には、僧が起居した南北に長い僧坊があり、東僧坊(南北44.5メートル、東西9メートル)の一角が発掘調査されています。また、金堂の北東には鐘楼と推定される建物の基礎も発見されているそうです。
以上の建物跡以外に、南東にやや離れた地点に七重塔跡が確認されていて、これらを総合したこれまでの調査の結果(出土瓦の研究等)から、武蔵国分寺は大きく三期の変遷をたどったことが想定されているそうです。
第一期(創建期)
天平13年(741)の国分寺創建の詔が配布されて直後に、塔周辺を中心とした寺院地で造営が着手される。その後、天平19年(747)に郡司層の協力要請を受け、組織的な造寺体制が整備される。造寺計画の変更とともに造営が進展し、天平宝字2年(758)までには創建事業が終了したものと考えられる。
第二期(再建期)
承和12年(845)の塔再建と層尼寺の大改修等が行われた9世紀後半代の整備・拡充期に当たる。北院建物の新築、講堂の増築、寺地内付属諸院の整備等が行われた時期と考えられる。
第三期(衰退期)
寺院地並びに伽藍地区画溝の埋没を契機とする縦穴住居の進出等が始まり、国分寺の存在意義が失われてくる10〜11世紀代の衰退期にあたる。
(多摩のあゆみ103号・国府・国分寺・東山道より)
|