旧中山道沿い碓氷峠への尾根に残る古道跡6 | 尾根道詳細図 | 地図はこちら |
旧中山道の坂本から旧碓氷峠までの中ほどに山中茶屋跡というのがあります。山中茶屋は刎石茶屋と同様に碓氷峠の尾根道に存在した休憩施設であったと思われます。現在ではその跡を見るのみです。建物跡や整地された地形、墓石などが今も多く見られます。先に紹介した明治11年に明治天皇の一行が御巡幸道路を通ってここ山中茶屋で休憩されたとき、ここは9戸で一集落をなしていたそうです。山中村落学校が置かれ25名の児童が在学していて、明治天皇はその教育熱心さに奨学金25円を下賜されたといわれています。 | ![]() |
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寛文2年(1662)には13軒の立場茶屋があり、寺もあって茶屋本陣には上段の間が2ヶ所あったそうです。また力餅、わらび餅などを名物としていたということです。山中坂は山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂で、またの名を「飯喰い坂」といい、坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても上れず、手前の山中茶屋で飯を喰って登ったといいます。説明版によると山中茶屋の繁盛はこの坂にあったと書かれています。
上の写真と左の写真は山中坂の道の北側尾根に残る掘割道跡の地形です。 |
この写真のところが何故道跡なのか疑問を持たれる方もいるのではないでしょうか。私は中央が凹字に窪んでいる掘割地形だから道跡であると思うのですが、しかし、それだけならばこのような地形は至る所にあるはずです。或いは普通の谷地形ともいえなくはありません。道というものは断続的に続いていなければならないはずです。この地形は私には人工的に造られたものと判断しました。掘割の深さや幅が一定していて一直線に上っているのは自然浸食の谷では考えられない地形なのです。 右の写真は上の写真の道跡が旧中山道の道と合流する付近のものです。 |
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山中茶屋跡から上の写真の道跡と旧中山道が合流する付近までは長い坂(山中坂)が続いていて、途中に現在は使用されていない壊れた別荘などの建物があったり、また例のごとく廃車が捨てられていたりします。以前はこの辺りまでは車で入ってこられたものと思われます。左の写真は「一つ家跡」の説明版が立つ付近のものです。江戸時代にこの辺りに老婆が商う一軒の茶屋があったということです。また写真左手の林の中を登って行くと子持山へ登ることが出来るようです。ここは子持山山頂の裾を通る付近になります。 |
右の写真は「陣馬が原」の説明版が立つ分岐点になっています。写真右への道は現在は安政遠足に使われている道で、こちらの道が現在は峠へのメインルートになっています。この道は「和宮道」とも呼ばれています。一方、写真ではわかりずらいのですが白い説明版の左から奥へ進む道があります。こちらの道が実は旧中山道であり、また更に古い道跡が確認できる道筋になっています。 | ![]() |
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陣馬が原の説明版には、「太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代、武田方と上杉方のうすい峠合戦がある。笹沢から子持山の間は萓野原でここが古戦場といわれている。」とあります。左の写真の道は上で説明した和宮道です。写真右手が萓野原で左手が子持山側になります。和宮道とは、幕末に皇女和宮が御通行された道のことで、当時に新たに開拓された道だと思われます。
惜しまじな君と民との為ならば 身はむさし野の露と消ゆとも |
京の都から関東の将軍家へ嫁入りされる和宮の目に、ここ碓氷峠の風景はどのように映ったのでしょうか。
一方、右の写真は陣馬が原から峠へと向かう旧中山道の道です。この写真の道の右側の林の中に更に古そうな道跡らしい地形が見られます。こちらの道は地図でルートを追ってみると、和宮道よりも険しようですが峠までは近道であることが確認できます。この先、化粧水、人馬施行所跡付近で笹沢を渡り、いよいよ峠への最後の急坂となるのです。また余談ではありますが、この付近の地面奥深いところに長野新幹線のトンネルがあるもようです。 |
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笹沢を渡った旧街道は左に折れていき、その先は尾根を回り込むように右へカーブしています。この辺りは地形的にカーブを繰りかえさないと進めないところのようです。そしてその道がカーブしている付近の谷側に左の写真のようなかなり大きな掘割道跡が確認できます。そろそろ峠も近いこの辺りに、これほど大きな掘割道跡があるとはまた驚きでした。そしてその道跡付近を更に調べていると、どうも道跡に隣接するような何かの施設跡と思われる地形も見られるのです。 |
右の写真は上の写真の掘割道跡と思われる地形の続きです。
碓氷峠に関係する鎌倉時代関連の文献資料として『源平盛衰記』には、寿永2年(1183)に頼朝が鎌倉を出発して信濃国へ木曽義仲勢を牽制するために大軍を進めている内容の記しがあります。この時に臼井坂を越えていることが出ています。『吾妻鏡』では建久4年(1193)に頼朝が下野国那須野、信濃国三原野などでの狩倉に出発していることが出ていて、三原野は浅間山の北麓といわれ、この記事と関連する『蘇我物語』には鎌倉街道上道のルートを通り碓氷峠を越えている記が見られます。 |
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「次の日は碓氷の峠に打上りて、矢立の明神に上矢を参られ、御狩始め渡らせ給ひけり。」とある『蘇我物語』の記で矢立の明神と出ているのは、現在の熊野神社と同一の神社かは明確にはわかっていないようです。また『宴曲抄・善光寺修行』では「薄紅の臼井山、おもふどちは道行ぶりもうれしくて、いかでわかれむ離山の、其名もつらし過なばや、」とありこの時代の幹線ルートは旧碓氷峠越えであったことがうかがわれます。
左の写真は旧碓氷峠直下の山中に残る人工的な地形です。 |
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