旧中山道沿い碓氷峠への尾根に残る古道跡2 尾根道詳細図 地図はこちら

弘法の井戸がある周辺の地形を見回してみると、左の写真のような掘割地形が一部に見られました。この掘割は、まぎれもなく人工的に造られたものでしょう。ただ掘割が道跡なのか、館跡などに見られる空堀などの類なのかは私にもわかりません。もし道跡であるならば断続的に続いていると思われるのですが、ここの掘割は途中で折れ曲がっていたり、その先で途切れてしまっていたりしています。

右の写真は刎石茶屋跡(羽根石茶屋跡)と呼ばれるところの大きな平場です。説明版によるとここに四軒の茶屋があったそうです。現在でも石垣や墓石が沢山見られます。旧国道18号線の道ができる以前まではこの旧道を旅する人もいたことでしょう。現在の地形から判断して、ここから人が離れていったのはそう古い昔でもなさそうです。

刎石茶屋跡に残る石垣
刎石茶屋付近に建つ東屋(休憩所)
刎石茶屋は坂本宿から碓氷峠までの山中にある茶屋で、中山茶屋の次に大きな施設であったようです。刎石という名前はハッキリしたことはわかりませんが、般若からきているようです。般若峰、はんね石、般石(ばんじゃく)坂などの名前が江戸時代の文献に見られるようです。
  • 『上野国志』の碓氷峠道の名所
    般若峰
    はんね石  石多し、坂なり。此所箱根より難所なり。
  • 高山彦九朗の『日記』天明2年
    盤石坂を登りて茶屋あり。平らかなる所を西へ行きて中ノ茶屋、・・・
  • 小林一茶の『帰郷日記』寛政3年
    浅間山の灰ふりて、人をなやめる盤石も、跡かたなく埋り、・・・

上写真右の休憩所前には碓氷坂の関所跡と書かれた説明版が立っています。それによると「昌泰2年(899)に碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所と思われる。」とありますが、この説明には疑問が残ります。関所がこの場所だとすると当時の関所としては山中過ぎるようです。しかしこの刎石茶屋跡付近は茶屋跡以前の施設跡と思われる土塁や堀跡などが見られ、確かに古い時代からここには何かの施設が存在したと考えられなくもありません。
承平8年(938)に平将門は京へ向かう従兄の平貞盛を追って、碓氷坂の関を越えています。信濃国分寺(上田市)付近で貞盛に追いつき、千曲川岸で合戦となりその戦火により信濃国分寺は焼失したと伝えています。貞盛は身一つで山中に逃れたといいます。『貞信公記』によると、天慶3年(940)に関所は廃せられたとあるそうです。

刎石茶屋跡から西の尾根道は刎石坂の急登とは対象的に高低のほとんど無い快適な道です。道幅もだんぜん広く古道の雰囲気は満点です。左の写真は刎石茶屋跡からやや西に進んだ辺りで、北側から土塁、道、段丘、平場となっていてこの辺りまで茶屋の施設が続いていたものと思われます。中山道の茶屋はかなり賑やいだ所だったと想像されます。

薄暗い杉林の古道を抜けると明るく広い尾根道が現れます。右の写真の付近の道は古そうな雰囲気が感じられます。この辺りはあるいは掘割状遺構なのかも知れません。この道があるところは尾根の一番高いところのようです。道跡の地形から見て、以前はそうとな交通量があったものと思われます。私が訪れた時は新緑の季節でしたが、秋の紅葉もまた素晴らしいのではないかと思われ、紅葉の季節にも歩いて見たいものだと感じました。

上の写真のような道がしばらく続いています。道や周りの地形から判断して、ここは江戸時代以前の道のようにも感じられます。しかも道幅はかなり広いです。このような山の中にこれだけの道が残っているのは、この道が幹線路だった証なのでしょう。緑も綺麗だし古道歩きには最高です。しかし古道歩きのハイカーなどとは殆ど出会いません。忙しい現代人には古道歩きなどは人気がないもののようです。「古道、街道・・・関係ないよ」とどこからかそんな声が返って来るような気がしました。

実を言うと私も若い頃は、歩くのは好きではありませでした。山登りをしていたにも拘わらず、歩くのは好きではないというのは変な話です。山に登ることが好きであって、歩くことそのもは疲れるから嫌いだったのです。こう言うと何だか勝手きわまる我が儘な人間に見られることでしょう。今考えてみれば、山に登る目的は、下界とは違う雰囲気を味ってみたかったのだと思います。現在でも家から駅まで歩くのが大変疲れます。何故なのかと考えた時に、それはアスファルトやコンクリートの人工的なものの上を歩かされているからではないのでしょうか。本来歩きやすく舗装された道が、歩くのに疲れるとは何とも皮肉な話です。

ところが古道に興味を持ってから、土の上を歩くことがこんなに楽しいものだったのかと悟ることができました。平地では鎌倉街道の取材に自転車を使うこともありますが、やはり土の上は、徒歩が一番味わい深いものがあります。古道は歩いているときが一番にいろいろなものが見えるんです。歩くとは足を動かして移動するだけではなく、周りの風景を見て感じることなんです。そこからは時間の経過も自然な流れに感じられます。タイムマシンでもないのですが、乗り物に乗ると時間の経過が違ってしまうもののようです。見えるものも見えなくなってしまったりします。

右の写真は上の写真の道の右側の尾根に上がって見たところで、そこにある大変大きな掘割地形を撮影したものです。古道探索を続けて来た者の予感といいますか、旧中山道の南側尾根の裏側が妙に気になっていたので、その尾根へ上がってみたのでした。するとそこには掘割があり、これは果たして道跡なのか。もしこれが掘割状遺構であるとすれば幅10メートルは超えるもので、三島の平安鎌倉古道に匹敵するものです。これは偉いものを見てしまいました。古代の東山道が頭を過ぎります。しかしこの先で掘割は突然にバッタリと崖となって切れてしまっていました。

仕方がないので再び元の道に戻ります。左の写真の右手の尾根を越えたところに上の写真の大きな掘割地形が存在すのですが、この写真の位置からでは大きな掘割があるとは想像もつきません。左の写真の道も古道らしい雰囲気のある感じの良い道なのですが、大変大きな掘割地形を見てしまうと、そちらが気になってしまうのが私です。上の写真の掘割の幅と、左の写真の旧道との幅の違いがお解り頂けるでしょうか。もしこの先にも上の写真のような掘割地形があるならば古道跡である可能性は大なのです。

元の道に戻って更に西へ進むと、右の写真の道両脇が崖になって切れ落ちている痩せ尾根の細道となります。写真のアングルが悪いので両脇が切れ落ちた雰囲気が伝わりませんが、ここに説明版が立っていて、それによると、この場所は「堀り切り」といい、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を、松井田城主大道寺駿河守が防戦しようとしたところであるといいます。その時に敵の進軍を防ぐために道の尾根を掘り切ったところで、現在は狭くなった土橋状の道で繋がれています。

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