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閑谷学校

Shizutani School

34 47 47.01,134 13 10.31

 雨の中での訪問となりました。この規模の建物で屋根を分節化しないとこれだけの高さになります。

 せっかく岡山まで来ているのだから閑谷学校まで足を伸ばそうと急遽決め、山陽本線で吉永まで足を伸ばします。ということで今回はすっかり岡山国宝の旅になってしまいました。何しろ岡山の国宝建築は、吉備津神社とこの閑谷学校だけですから。でも数は少ないけれど、個性という面では結構際立っています。
 
 閑谷学校には学生の時に来て以来ですから40年振りか。当時は多分バスを利用したと思いますが、今やバスは1日に2本という超ローカルに成り下がり、タクシーしか手段が無くなりました。雨が降ったりやんだりの天気の中、10分も乗れば到着です。 
 
 岡山藩主池田光政が庶民に教育を施すために設置した日本最古の庶民学校、というのが閑谷学校の概要です。武士の子弟は岡山藩学校が城下にあるため、ここは完全なる庶民のために作ったとか。このような静寂な場こそ庶民のための学問の場として相応しい。1670年(寛文10年)に設立され、1701年(元禄14年)には講堂が完成し、全容が整ったようです。池田光政も結構味なことをやるではないですか。こうした庶民の底上げが日本の国力の源泉になっており、明治以降の発展の基礎となっている、とよくいわれています。
 
 庶民の学校という触込みですが、一歩中に入ると空間の気高さというものをひしひしと感じます。ここは襟を正して学業に励む場なのだ、無駄口をたたくな・・・と言われたかどうかは分かりませんが、少なくともそういう雰囲気がします。その中心は講堂でしょう。備前焼の独特な色合いの瓦が大きく聳え、壁が一部にしかない大空間は凛として学問の場に相応しい。集中して学業に勤しむことが出来る・・・という気になります。
 
 いや、本当のところはどうだったのか分かりません。本当に静寂に包まれていたかもしれませんし、いやいや若者が一杯押し寄せ、にぎやかに学んでいたのかもしれません。そこいらを伝えるものが何もないため、想像するしかありません。そして学ぶ者たちはどうやって暮らしていたのでしょうか。寄宿舎はないから通いだったのでしょうか。そしたら近所の者しか来られないし。いやそんな詰めたものではなく、年に数日学びのために来たのでしょうか。
 
 そういう生活の匂いが全くしないのがここの特徴です。唯一飲室という生徒の休憩室がある位で、講堂を中心に孔子を祀っている聖廟、光政の髪などを収めた御納所、閑谷神社、書物を収めた文庫などが淡々と立地しているだけ。ストイックに学問を追究する場という感じがひたひたと。
 それを一層強めているのが丸みを帯びた石塀でしょう。隙間なく、角も無く、石を積み上げ延々と塀を廻している姿はストイックそのものという気がします。雑草が生えてくるなどとんでもない。内部も全部石が詰められ、植物がはびこる隙間などありません。この雰囲気の中で多くの若者が学んでいったことでしょう。
 
 ここのもうひとつの特徴は、奥に明治期に建てられた新閑谷学校とも言えるものがあったことです。明治になり藩政改革により学校は一旦閉鎖されたのですが、山田方谷らがここを新たな学問の場にしようと言う活動により、学校は再興され、閑谷精舎となる。そして新校舎が明治38年に完成して昭和39年までこの場で学んでいたのです。いやいや県立閑谷高校の沿革は寛文10年に始まるというものすごさ。光政の意思が後世の人たちに伝播し、ここが常に学問追求の場になっていたというのには驚かされます。場の成せる技が人々を動かし、今に伝えられているのです。

石垣越に講堂、校門などを見る。確かに見事な石垣です。 御納所から閑谷神社(手前)と聖廟(奥)を見る。均整の撮れたデザインです。
講堂の内部を目一杯の逆光で撮ってみました。華唐窓はどことなく書院風ですが、この規模になると大胆に使わないといけません。この磨かれた板床の見事さ。
講堂の広縁。とても好きな場所です。ここで休憩とか取れたのでしょうか。あくまでも静かです。左の建物は校門です。 文庫と呼ばれる書庫です。周囲を石垣と小山で覆い、火事に対する最大の配慮をしています。
御納所。光政の髪や爪、歯などを納めたとか。うーん、学ぶ者はどのくらいの頻度でお参りしたのでしょうか。 明治期に建てられた言わば新校舎。昭和39年まで中学、高校として使われていたそうです。