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後楽園

Korakuen

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 この広さが後楽園の特徴です。いわば素晴らしき河川敷公園。

後楽園

 岡山市内の名所といえば後楽園が一番というか、その他は鉄筋コンクリートの岡山城位しかない、というのが岡山の惜しい所かもしれません。もう少し厚みがあると県全体としてもアピール出来るとも思いますが、いや岡山のアピールなら倉敷がやるから岡山は目立たなくていいんだ、などと言われそうな状況です。まあそんなものかもしれません。結構空襲で焼けたというのもありますが、これだというのが弱いのが岡山です。
 
 都市の骨格を作る時に、いや作ることが出来る時にしっかり作っておくというのが、どの都市にあっても重要なことです。荒廃すればやがて無くなるかもしれないけれど、でも都市の骨格まで無くなる時は、よほどの時しかない。社会が変わり、人々の生活が変わっても、しっかりとした都市の骨格があれば、必ずやいい町になっていくと思います。そして岡山の都市の骨格は後楽園だったのでしょう。明治になり、昭和になり戦災を受けても、この庭園はしっかりと受け継がれてきたのです。

 後楽園の施主は池田綱政。閑谷学校の創始者池田光政の息子にあたります。良き政治がどういうものか一概には答えは出ませんが、こうして後世に残されたもので判断すれば、間違いなく地元にとって良き領主だったと言えるでしょう。都市のストックを作るということは、その時代だけでなく何世代に渡って恩恵を受けることが出来るのです。岡山にあまり見るべきものはないかもしれませんが、残っているものは良き政治を感じさせるものでした。そして江戸の昔から庶民に開放されてきたということは、当時から恩恵を受けていたのですね。
 
 で、ロケーションはかなり特徴があります。金沢の兼六園のような戦略的な取り方ではなく、河川敷をいかに活用するかという、言ってみれば少々せこいものでした。そもそもは岡山城を「岡山」という小さな丘に築城した際に、旭川を変に曲げた結果、抜本的河川改修が必要となり、そうしているうちに河川の蛇行の副産物としてここに河川敷が生まれ、では庭園として整備しようとなった、といったプロセスではないでしょうか。だから岡山城と旭川を挟んで対峙しているし、堀が東側にもしっかりと回っているし。でも出来てしまえば何百年も人々に愛される場となりました。
 
 上の写真にも書きましたが、ここの特徴はその広大さです。日本庭園というと、結構ちまちまと作ってしまいますが、ここはそうはせず、あくまでも大きな空間を生かすことに重点を置いています。京都の町中とは大違い。また芝生が多用されているのも珍しいかもしれません。このあっけらかんとした空間が人の心も解放してくれます。
 その一方でディテールもしっかり作り込まれており、それをじっくりと見だすと切りがなくなるのが奥が深い証拠。でもそれは夏以外にしましょう。確かに訪れた日に太陽が照っていなくてよかったかもしれません

 
園内一番の高台である唯心山から。下界が見えないよう周囲に高木を植えています。水面が気持ちいいですね。
岡山城もこの程度の借景ならばいいのではないでしょうか。 ぽつんと置かれていた石灯籠。どことなくイサムノグチ風で面白かった。茶庭型石灯篭といわれています。
八橋。こうやって細部を切り取ると回遊式日本庭園だなと思います。

 

岡山城

 続けて川向こうの岡山城へ向かいます。この城は廃城令により順次解体されてきたけれど、天守閣は残されていたそうです。そこが池田氏の意地だったのかもしれません。自らの居城を壊すなんて。でも結局太平洋戦争の空襲により焼け落ち、1960年代に鉄筋コンクリートで再建というプロセスを辿ってしまいました。惜しいといえば惜しいことです。姫路城は黒い網(擬装網)で覆って空襲から守ったそうですが、たまたま不発弾で助かったというのが定説です。その点岡山はあっという間だったのでしょうか。歴史の偶然の積み重ねがあちこちに物語を作ります。

 そして戦後の再建にあっては早期なものはさっさと鉄筋で建ててしまったというのが世の流れでした。でも戦前まで残っていたため、比較的写真が残されており、結構忠実に再建されたのでしょう。黒は漆だったのでしょうか。
重要文化財の月見櫓。天守閣にかなり近いのに焼けなかったのは素晴らしい。でも櫓を城内から見ると、たいしたこと無く見えてしまいます。向こう側には城壁が聳えているのに。
旭川越しに見る岡山城.結構様になります。