九条道家 くじょうみちいえ 建久四〜建長四(1193-1252) 号:光明峯寺殿

後京極摂政良経の長男。母は一条能保女(源頼朝の姪)。西園寺公経女、綸子を妻とする。内大臣基家・順徳天皇后立子の兄。教実二条良実一条実経・鎌倉四代将軍頼経・藻壁門院(後堀河天皇中宮)・仁子(近衛兼経室)ほかの父。
祖父兼実のもとで育ち、八歳の時母を亡くす。土御門天皇の建仁三年(1203)、十三歳で元服、正五位下に叙される。侍従・左中将を経て、元久二年(1205)正月、従三位。同年三月、権中納言に任ぜられる。建永元年(1206)三月、父が急逝し、九条家を継ぐ。同年六月には左大将を兼任し、承元二年(1208)七月、権大納言に進む。順徳天皇の建暦二年(1212)六月、内大臣。建保三年(1215)十二月、右大臣に転ず。同六年(1218)十一月、皇太子傅を兼ね、十二月、左大臣に転ず。承久元年(1219)六月、暗殺された源実朝の後継将軍として第三子頼経を鎌倉に下向させる。同三年四月、仲恭天皇(母は道家の同母妹立子)の践祚に伴い摂政に任ぜられる。同年、承久の乱が起こり、仲恭天皇が廃されると共に、道家も摂政を止められたが、頼経が正式に征夷大将軍となった後の安貞二年(1228)十二月には、後堀河天皇の関白に任ぜられ、朝政を主導した。寛喜三年(1231)七月、関白を子の教実に譲り、従一位に進む。その後も「大殿」として実権を握り続けた。貞永元年(1232)十月、娘の藻壁門院所生の四条天皇が践祚し、道家は天皇の外祖父となる。文暦二年(1235)三月、教実が二十六歳の若さで夭折したため、摂政に還任。嘉禎三年(1237)三月、摂政を聟の近衛兼経に譲る。翌暦仁元年(1238)四月、出家。法名行慧。仁治二年(1241)十二月、故教実の娘である彦子(のちの宣仁門院)を入内させて四条天皇の女御としたが、翌三年正月、天皇は十二歳で夭折。後継天皇には幕府の意向により土御門院皇子邦仁王が立ち(後嵯峨天皇)、道家は外祖父の地位を失った。寛元四年(1246)には名越光時の隠謀に関し幕府より嫌疑をかけられ、関東申次の地位を失う。建長三年(1251)、再び幕府転覆の陰謀の嫌疑をかけられ、翌四年(1252)二月二十一日、失意のうちに東山光明峯寺で薨じた。六十歳。
祖父以来の九条家歌壇を引き継ぎ、建保三年(1215)九月の内大臣家百首、同五年九月の右大臣家歌合、貞永元年(1232)七月の恋十首歌合、同年八月十五夜歌合などを主催した。自らも歌を能くし、建保四年(1216)の後鳥羽院百首、同年の順徳院内裏百番歌合、同五年の冬題歌合、承久元年(1219)の内裏百番歌合、貞永元年(1232)の洞院摂政家百首などに出詠。新勅撰集撰進には企画者として大きな役割を果たした。新勅撰集初出(二十五首)。以下勅撰集に計百十八首入集。新三十六歌仙。『道家詠草百首』として伝わる歌集は、建保四年の後鳥羽院百首歌である。日記に『玉蕊』がある。信仰心篤く、明恵に帰依。東福寺・光明峯寺の創立者でもある。

  3首  2首  2首  3首  1首  3首 計14首

題しらず

わたの原霞もいくへ立つ波のゆたのたゆたに浦風ぞ吹く(新千載14)

【通釈】大海原では霞が幾重にも立ちこめ、立つ波をゆらゆらと揺らして、浦風が吹いている。

【語釈】◇わたの原 海を広々とした原に擬えての称。◇ゆたのたゆたに 大きな振幅で揺れるさま。古今集の歌に由来する(下記本歌)。万葉集には「ゆたにたゆたに」とある。

【補記】海上に幾重にも立ちこめる霞、そして幾重にも寄せる波。それらをゆったりと靡かせながら、浦風が吹き寄せる。蕪村の「ひねもすのたりのたり」を思わせるような、大らかな春の海の叙景である。建長二年(1250)頃に完成した『現存和歌六帖』にも見え、題は「なみ」とする。おそらく晩年の作か。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
いで我を人なとがめそ大船のゆたのたゆたに物思ふ頃ぞ

 

吉野川岩もと桜めもはるに波にたちそふ花の面影(道家百首)

【通釈】吉野川――その岸の岩の根元に生えている桜が芽吹き、目も遥か、岩にたぎり立つ白波を眺めれば、花の面影が重なるように立ち現れる。

【語釈】◇岩もと桜 岩の根元に生えている桜。◇めもはるに 「芽も張る」「目も遥に」の掛詞。

【補記】やがて訪れる吉野の桜の季節を、川の白波に予感している。道家には同じ初二句を用いて満開の桜を詠んだ歌もある。「芳野河岩もとざくら咲きにけり峰よりつづく花の白浪」(続後撰集)。
建保四年、後鳥羽院が企画した百首歌に詠進した作。道家二十四歳。豊かな資質を窺わせるに充分な佳作揃いで、このまま才を磨いてゆけば、父に匹敵する歌人にもなったのではないかと思われる。しかし五年後には承久の乱が起こり、後鳥羽院・順徳院の内裏歌壇は瓦解した。以後、道家は歌作りへの熱意を失ってしまったように見える。

【参考歌】九条良平「千五百番歌合」
山川の岩もと桜かげ見れば雪をぞあらふたぎつ白波

 

わけきつる深き心の色を見よ春は吉野の花ぞめの袖(道家百首)

【通釈】山を分け入って来た、私の深い心の色を見よ。春は吉野、その桜の花で染めた花染めの袖を着て――。

【語釈】◇わけきつる 山を分け入って来た。「きつる」は「着つる」と掛詞で、「袖」の縁語。◇深き 「色」「袖」と縁語になり、吉野の山の深さをも掛けて言う。

【補記】これも建保四年後鳥羽院百首。「心の色」は、花の縁で心の有様を色と言ったもの。下句はその色を「花染めの袖」と言いなしたのだが、初句に帰って袖を振りつつ山を分け入ってきた様をも暗示する。吉野への深い思い入れを快活に、かつロマンチックに、目も綾な技巧でもって歌い上げた。

ほたる

夏の夜は物おもふ人の宿ごとにあらはにもえてとぶ蛍かな(現存和歌六帖)

【通釈】夏の夜は、恋に思い悩む人の家という家に、あらわに燃えて飛ぶ蛍であるよ。

【補記】蛍の光を恋(こひ)の火になぞらえて詠むのはありふれているが、架空の遠隔点から夏の夜の人界を俯瞰して、家毎に飛び回る蛍に人々の「物思ひ」の火を眺めた趣向は空前であろう。摂関家の御曹子にふさわしい大柄な詠みぶりと言うべきか。

【参考歌】和泉式部「後拾遺集」
人の身も恋にはかへつ夏虫のあらはに燃ゆと見えぬばかりぞ
  藤原秀能「如願法師集」
下にのみむせぶ思ひもあるものをあらはにもえてゆく蛍かな

 

さ夜ふかき軒ばの草に露おちて秋をかけたるうたたねの夢(道家百首)

【通釈】夜も深まった軒端の草に露が落ちて――早くも秋を兼ねている、うたた寝の夢よ。

【語釈】◇秋をかけたる まだ夏であるのに、秋を兼ねた。「かけ」は露の縁語。

【補記】深更、軒のあたりに生えている草に夜露がしたたり落ちる――その微かな音を聞いたのか、あるいは気配を夢現に感じ取ったのか。うたたねのうちに見た夢にも、すでに秋の気配は入りこんでいる。上句と下句の間に、連歌の付合風の呼吸がある。

【参考歌】二条院讃岐「新古今集」
鳴く蝉の声もすずしき夕暮に秋をかけたる杜の下露

建保五年九月、家に秋三首歌読み侍りけるに、雲間雁を

夕さればいや遠ざかり飛ぶ雁の雲より雲に跡ぞきえゆく(玉葉590)

【通釈】夕暮になると、ずっと遠ざかって飛んで行く雁――その列が、たなびく雲から雲へと霞んでゆき、やがて跡方もなく消えてしまう。

【補記】自邸の歌会での作。夕暮、塒へ戻る雁の列が遠ざかって行く。たなびく雲から雲へ移るごとに、その姿はいっそう霞み、やがて跡を消してしまう。「雲より雲に」の句が、茫漠とした空間にアクセントを与え、景趣に奥行を生んでいる。

貞永元年八月十五夜、家に歌合し侍りけるに、名所月

須磨の浦やあまとぶ雲の跡はれて波よりいづる秋の月かげ(玉葉655)

【通釈】須磨の浦では天を飛び去った雲の跡もなく晴れて、波の間から秋の月が昇って来る。

【補記】須磨は在原行平や光源氏の流謫地として名高く、海人の塩焼など侘びしげな情景が好んで詠まれた歌枕である。しかしこの歌では意表をつくように、雲が晴れたあと沖合いから昇る清々しい月の光を詠んだ。「あまとぶ」が雲の素速く大きな動きを写し、一首に生彩を添えている。これも自ら主催した歌会での詠。貞永元年(1232)は、娘の藻壁門院が産んだ四条天皇の践祚した年である。これにより、道家は晴れて天皇の外祖父となる。齢四十にして手にした栄光であった。

建保四年、百首歌たてまつりける時

たのめおきしふるさと人の跡もなくふかき木の葉の霜のした道(道家百首)

【通釈】あてにしていた故郷の人の足跡もなく、深く積もった木の葉の、霜が置いた下に隠れた道よ。

【補記】約束を交わしていた「ふるさと人」は跡形もない。深く積った木の葉が道を隠し、霜を置いているばかり。「たのめ」は「約束して期待させる」意だが、恋の上で言う場合が多い。この「ふるさと人」にも、かつて足繁く通った女を思い浮かべるのが王朝和歌の常道だろう。新後撰集458に初句「たのめおく」、第三句「跡もなし」と改悪されて入集。

 

(あめ)にます豊岡姫のをとめごが雪に袖ふるさゆる夜の空(道家百首)

【通釈】天にいらっしゃる豊岡姫の少女が、雪の降る中、袖を振っている、冷え冷えとした夜の空よ。

【補記】「豊岡姫(とよをかひめ)」は早くは拾遺集の神楽歌などに見える。天照大神の異称と理解されていたようだが、伊勢外宮に祭られている豊受姫が誤って伝わったものかとも言う。いずれにしても、「をとめご」は天上の女神に仕える若い官女のことになる。夜空に舞い散る雪に、五節の舞姫のイメージを重ね、袖を振って舞う天女の幻影を思い描いたのである。

【参考歌】「拾遺集」神楽歌
みてぐらはわがにはあらずあめにますとよをかひめの宮のみてぐら

 

秋の夜の手枕(たまくら)なれし月かげの面影ながらつもる雪かな(道家百首)

【通釈】秋の夜の、独り腕枕をして眺め慣れた月の光――その面影さながらに白々と積もる雪であるよ。

【補記】手枕をして寝ていた秋の夜、庭に射す月の光を毎晩眺めていた。その面影さながらに、冬になった今は雪が降り積もる。月光と積雪の映像を重ね合せる趣向は当時ありふれたものだが、秋から冬への時の移りを一首に歌い込めた手際は鮮やか。

遇不逢恋

ながめやる空のただぢもかよふやと伊駒の山に雲なへだてそ(洞院摂政家百首)

【通釈】あなたのいる方の空を眺めやる私の心は、直路を往き来するかと思うので――生駒の山に、雲よ、私とあの人の間の隔てを置かないでおくれ。

【補記】「筒井筒」で名高い「伊勢物語」第二十三段を踏まえている。「君があたり見つつを居らむ生駒山雲なかくしそ雨は降るとも」。河内国高安の女が、心離れた「大和びと」を思い、大和との国境をなす生駒山を眺めての作である。道家の歌では、生駒山にかかる雲を恋の障害の象徴として用い、大空へ放ちやった心よ恋人のもとへ届けと、山に祈りを託しているのである。

建保四年百首歌たてまつりける時

世のつねの人より君をたのめとや契かなしき身と生まれけむ(続後撰1198)

【通釈】世間一般の人にも増して貴方に一身を託せと、切ない宿命のもとに我が身は生まれついたのでしょうか。

【補記】この「君」は百首歌を献った相手、後鳥羽院その人を指すとしか考えようがない。「世のつねの人」誰しも頼みに思う貴方ですが、誰よりもまして貴方に一身を託せざるを得ない宿命に生まれついた身。そんな我が身をいとおしくさえ思います、と摂関家の嫡子としての思いを訴えている。建保四年(1216)は後鳥羽院蜂起の五年前。「かなしき」の一語には複雑な思いが籠められていたろう。乱後、道家は遠島両院の環京を幕府に訴えているが、虚しい結果に終わったことは言うまでもない。

建保百首歌に

ねをぞなく弥生の花のかれしよりをしへぬ庭のあとをながめて(続古今1412)

【通釈】声を上げて泣いてしまう。弥生の花が枯れてより後、父の教えを承けられなかった我が庭のあとを眺めては。

【補記】「弥生(やよひ)の花のかれし」は、父良経が建永元年(1206)三月に亡くなったことを暗示する。百首歌を献上した年から数えて十年前、道家は十四歳であった。「をしへぬ庭」は、『論語』に由来する漢語「庭訓」を和語化した「をしへの庭」により、父からの教育を充分受けられなかったことを言う。続古今集ではこの歌に続き、遠忌の日、定家が良経を回想して道家に贈った歌を載せている。「おくれじと慕ひし月日うきながら今日もつれなくめぐりあひつつ」。

長谷寺にまうでてよみ侍りける歌中に

老ののちまた思ふことはなきものを人の心になほなげくかな(万代集)

【通釈】老いてのち、もはや思い煩うこともないのに、人の心にはやはり歎くことがあるよ。

【補記】霊験あらたかな十一面観音で名高い大和長谷寺に参詣しての感慨。晩年の道家は天皇の外戚の地位を失い、度々反幕の陰謀の嫌疑をかけられるなど、失意の重なる日々を送った。万代集で後鳥羽院御製「人もをし人もうらめし…」のあとに載せているのは、意味有りげである。

【主な派生歌】
立ちかへりつれなき世ぞとしりながら人の思ひにまた歎くかな(良実[続古今])


公開日:平成14年07月29日
最終更新日:平成23年06月28日