(YSGA編集版)アメリカ南北戦争日報

1865年


1月12日 南軍装甲艦コロンビア号竣工
 (東部戦域)
 チャールストンで南軍が建造した装甲艦の中でも最も有力な艦の一つのコロンビアが竣工し、既に就役していた3隻に合流した。この艦は6インチの装甲に6門の重砲を備えていたが、不幸なことに最初の公試中に事故のため大破してしまった。

1月13日〜15日 フォートフィッシャー第2次攻撃
 (東部戦域:海軍作戦)
 ポーター提督はレッドリヴァー遠征の際の経験から陸軍に不信をもっていたので、バトラーのやる気のない戦いぶりに激怒した。選挙で勝利を得たことからリンカーンは人事を大胆に手掛けることができるようになり、1月8日に彼を解任してアルフレッド・テリーを後任とした。増援を得て8,000となった北軍は要塞の北岸に上陸し、艦隊が800トンもの砲弾の雨を浴びせた。15日には反対側に海軍の水兵と海兵隊からなる 2,000も上陸し要塞を挟撃した。
 水兵たちは陸戦の知識に乏しく正面から突撃して300以上の損害を出したが、彼らが南軍を引きつけたお陰で陸軍の攻撃は順調に推移した。7時間に及ぶ激戦のあと 2,000の守備隊は降伏し、通商破壊艦チカマウガも交戦中に座礁して焼却されてしまい、南部への海外からの物資の流れは途絶えることとなった。(北軍の損害も大きく 1,300に昇った)。

1月15日 北軍モニター艦パタプスコ号触雷
 (東部戦域:海軍作戦)
 チャールストンを夜間哨戒中のモニター艦パタプスコ(1つの砲塔に15インチ滑腔砲と8インチ砲を1門ずつ装備)は触雷し僅か15秒程で沈没した。105名の乗員の内、62名が戦死した。

1月24日 南軍装甲艦隊、最後の出撃
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲)
 ウィルミントン攻撃のために北軍艦隊が手薄になっている隙をねらってジェームス河の南軍艦隊は、ピータースバーグを攻囲中のグラントの補給基地であるシティ ポイントを襲撃した。この艦隊は3隻の装甲艦(フレデリックスバーグ、ヴァージニア、リッチモンド)からなり、南北戦争中で南軍がこれほどの数を揃えたことはかつてなかった。しかしヴァージニア、リッチモンドは河川障害に乗り上げてしまい、夜明けとともに北軍は河岸の砲台と15inch砲を備えた2砲塔モニター艦オノンダガ号が南軍に対して猛火を浴びせた。南軍の砲艦ドリュウリィは爆発を起こして沈没し、ヴァージニア号も6インチの装甲が15インチ砲により貫通されたうえ煙突も破壊されて排煙が砲室にまで入ってくる始末だった。
 南軍は装甲艦の障害からの離脱に成功したものの、これ以上の交戦を諦めて撤退した。


2月3日 リー、陸軍司令長官に任命される
 南軍を挟む、やっとこのあごが閉められていくと、ジファーソン・デービス大統領は、リーを南部連合陸軍の司令長官に任命した。

2月5日〜7日 ハッチャーズ・ラン会戦
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲)
 グラントはポトマック軍とジェームス軍の計9万でピータースバーグとリッチモンドの2都市を包囲しつづけていた。これに対しリーは食料が不足した6万の貧弱な装備の兵とともに、辛うじて37マイルに及ぶ塹壕線を確保していた。グラントはウォーレンとハンフェレイス(-、4-4-3):ハンコックの後任)の2個軍団にまたもやピータースバーグの西方への迂回を試みさせた。しかし南軍はゴードンの3個師団とA.P.ヒルの1個師団を最右翼に派遣して迎え撃ち、北軍を撃退した。北軍はウォーレンの軍団が 1,000を越える損害を受けたものの陣地をさらに西方へ拡張し続け、リーはもはや対応して塹壕線を延ばすことは困難となった。

2月17日 コロンビア占領と焼失
 (東部戦域:カロライナ戦役)
 南軍の将軍達は冬季にカロライナの湿地帯を行軍することは不可能だと考えていたのだが、シャーマンは“工兵大隊”を組織して応急に橋や道路を造り、2日間に1日は雨が降るという悪条件の中を行軍していった。サヴァナを進発した北軍は、4個軍団をY字型に配置し、それぞれの先頭がチャールストンをオーガスタを目指して左右に展開して後続は先鋒がトラブルに巻き込まれたときに増援できる態勢をとっていた。これに対峙する南軍はナッシュビルで崩壊したテネシー軍の残余とチャールストンの守備隊そしてサヴァナから脱出したハーディの軍団で合計しても20,000に過ぎず、これにホィーラーの騎兵が依然としてシャーマンを追尾していた。南軍はこの兵力をチャールストンとオーガスタに10,000ずつ守備隊として配置したが、シャーマンは両市を攻撃すると見せかけて、その中央をコロンビアに向かって進撃し17日に占領した。コロンビアには不幸なことに、その夜に綿倉庫に火が放たれたのが燃え広がり、市はほぼ完全に破壊された(誰が火を放ったかについては諸説が多数ある)。

2月18日 南軍、チャールストンを放棄
 (東部戦域:カロライナ戦役)
 北軍に退路を絶たれるのを恐れてハーディー指揮するチャールストンの南軍守備隊は3隻の装甲艦を爆破して市を放棄した。オーガスタの南軍も同様に北上して、ハーディーと合流を果たした。司令長官となったリーはデービスを説得して22日にカロライナ方面の全ての南軍の司令官にジョンストンを就任させた。

2月22日 ウィルミントン陥落
 (東部戦域:カロライナ戦役)
 グラントは北軍の優勢な海軍力を生かしてトーマスから引き抜いた部隊をスコーフィールドに指揮させて、フォートフィッシャーに上陸させた。ウィルミントンを守備していたブラッグ率いる南軍を追い払うと、スコーフィールドはシャーマンに合流するためノースカロライナ州中央部を前進した。カロライナの大半が北軍の手に帰したことは、ノーザンヴァージニア軍の将兵にも大きな衝撃を与え、北カロライナ州出身のもので軍を逃亡する者が続出した。


3月3日 ウェインズボロ会戦
 (東部戦域:シェナンドゥ峡谷)
 アーリーは僅か1,200まで消耗していたが、それでもなお遅滞戦闘を続けていた。
 北軍はカスターの騎兵師団で彼らを急襲して蹂躪し、南軍の多くは捕虜となった。

3月10日 ハンプトン、北軍騎兵を奇襲
 (東部戦域:カロライナ戦役)
 リーのもとからカロライナへ派遣されたハンプトンは10日にキルパトリック指揮する北軍騎兵のキャンプを奇襲することに成功した。
 態勢を建て直した北軍は、南軍に戦利品を回収する暇を与えずに撃退したが、数百人が捕虜となった。

3月13日 南軍装甲艦ニューズ号自沈
 (東部戦域:カロライナ戦役)
 ようやく竣工したニューズは艦名の由来となったニューズ河で警備に当たっていたが、シャーマンの軍が近づくと捕獲を恐れて自沈した。

3月18日 ウィルソン、アラバマ州へ侵入
 (西部戦域:セルマ戦役)
 トーマスは13,500の騎兵を27歳の若き騎兵指揮官のウィルソンに与え、テネシー州からアラバマ州へ侵入させた。北軍の目標は重要な補給拠点であるセルマと本来は南部の首都であったモンゴメリーを占領することであった。ウィルソンの快速部隊は順調に進撃を続けて大量の綿や貯蔵物資を燃やし、鉄道や橋梁そして工場を破壊していった。僅か 3,000の騎兵を率いていたフォレストももはや抵抗することもできずにセルマへと後退していった。

3月19日〜20日 ベントンヴィル会戦
 (東部戦域:カロライナ戦役)
 シャーマンは、いつも通り2つの縦隊を半日ほどの間隔を空けて北上を続けてており、まもなくウィルミントンから進撃している別働隊と合流する見込みであった。ジョンストンはハンプトンから北軍がゴールズボロ目指しているとの報告を受けると、自身の軍を集中して左縦隊をベントンヴィルで迎撃した。北軍の先頭はスローカム指揮する第14軍団であったが、ジョンストンは森に覆われた稜線沿いに部隊を配置していたので、北軍が南軍に気付いた時は既に三方向からの攻撃を受けていた。しかし南軍の攻撃が順調に進んだのは当初だけで、協調性の無い攻撃は、立ち直ったヴェテランの戦列を崩すことはできなかった。19日の午後、南軍は攻撃を更に3度繰り返したが後続の第20軍団が戦場に駆けつつあった北軍相手に、目立った成果は得られず、ジョンストンは攻撃を開始した位置に戻った。
 翌20日にはシャーマンの60,000を越える全軍が集結を終えると3倍の数的優勢を誇る北軍を前にしてジョンストンは後退することしかできなかった。
 北軍の損害は 1,600、南軍の損害は不明であるが北軍の倍程度と思われる。シャーマンはゴールズボロでスコーフィールドと合流を果たし、そこで3週間の休養をとった。そして泥まみれの道路がいくぶん乾いてから4月中旬にピータースバーグでグラントと合流することとした。

3月25日 フォート・ステッドマン会戦
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲)
 リーは北軍の攻勢をくい止めるための絶望的な賭け、即ちピータースバーグ前面にいるグラントに対して攻撃を行って北軍左翼の弱体化をねらい、ノーザンヴァージニア軍をリッチモンド方面から脱出させてカロライナでジョンストンと合流することを望んでいた。この攻撃の指揮はゴードンが任せられ、彼はピータースバーグ市街地のすぐ東にあるフォート・ステッドマンを攻撃目標に選んだ。ゴードンはノースヴァージニア軍の約半分を委ねられ、夜明け前に突撃を開始した。奇襲によって南軍はフォート・ステッドマン周辺を占拠したものの北軍は混乱から立ち直ると反撃に転じ、4時間後には激戦の末、反対に南軍の前哨陣地まで喰い込んだ。グラントは更に南軍右翼に対しても攻撃を命じ、大きな損害を被りながらも、4個旅団を引き抜かれて弱体化したA.P.ヒルの塹壕線を破り 1,000人近い捕虜を得た。
 北軍の損害 4,800に対して南軍の損害は 2,080にのぼり、この賭はリーにとって最悪の結果となった。
 翌26日にはシェナンドゥ峡谷からシェリダンが到着し、グラントの兵力は今や 120,000を上回るに至った。

3月29日〜31日 ディンウィディ・コートハウス及びホワイトオークロード会戦
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲)
 もはや60,000を割り込むまでに弱体化した南軍に止めをさすべくグラントはピータースバーグに対しアポマトックス河南方で全方面から総攻撃を開始した。ピータースバーグ正面の南軍塹壕線に対しては東からパーク、ライト、オードの3個軍団が牽制攻撃を仕掛けている間にウォーレンとハンフェレイスの2個軍団が南軍右翼を迂回攻撃を加えた。そして今回はこれらに加えてシェリダンの騎兵をさらに西方から迂回させて南軍の後方を一挙に衝こうとした。 しかしリーの反応は迅速であり、またもや裏をかかれたのは北軍であった。即ちピケットは2個師団に僅かに残った騎兵を指揮し、包囲を企てたシェリダンをさらに外側から迎え撃ったのであった。
 また迂回中の北軍2個軍団もA.P.ヒルの攻撃を受けた。北軍の前進は一時的に停止したが、シェリダンはピケットに対し歩兵と騎兵で圧力を掛け続けたので彼はファイブフォークスに退いて陣地を築いた。


4月1日 ファイブ・フォークス会戦
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲)
 友軍から孤立して、陣に籠もっていたピケットに対してシェリダンは騎兵を馬から降ろして攻撃させていたが、ウォーレンの軍団が側面から容赦なく締めつけると、南軍は遂にパニックに陥り、半数は降伏、半数は潰走してしまった。
 北軍はウィルダネス戦役を開始して以来の完勝を得て、グラントは翌日の総攻撃を指示した。

4月2日 ピータースバーグへの突撃
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲)
 シェリダンがピータースバーグへ通じる最後の鉄道を掃討している間に、北軍3個歩兵軍団の先鋒は南軍の塹壕線の各所で突破を果たしていた。A.P.ヒルは混乱した前線を立て直そうと偵察中に北軍兵と遭遇して戦死した。ピータースバーグ市周辺のゴードンのみが陣を固守することができたが、リーはリッチモンド〜ピータースバーグ防衛線の放棄を決意し、計画的な撤退に取りかかった。デービス大統領はリーからリッチモンドは放棄しなければならないとの電信を受けると、すぐさまダンヴィル向けの汽車に乗込んだ。ジェームス河に残されていた3隻の装甲艦も、この夜に爆破自沈させられた。

4月2日 セルマ会戦
 (西部戦域:セルマ戦役)
 フォレストは民兵の増援を受け、 7,000で堡塁にかこまれたセルマに逃れたが、ウィルソンの騎兵は馬を下りて突撃し壁をよじ登って足ががりを得て、ついには市を占領した。フォレストは辛くも脱出に成功したが、南軍は捕虜も含めると 4,000の損害を出した(北軍の損害はその1/10であった)。ウィルソンは鋳物工場や弾薬集積所を破壊するとアラバマ河を渡って東に進んだ。戦闘が止んだ時には北軍騎兵は既にモントゴメリーを占領し、ジョージア州のメーコンまで掃討を終えていた。やがてウィルソンの配下は逃走を続けていたジェファーソン・デービスを捕らえることになる。(5月10日)

4月3日 リー、ピータースバーグを放棄
 (東部戦域:アポマットクス戦役)
 南軍は悪天候の中リッチモンドとピータースバーグを放棄し35マイル西のアメリアコートハウスに集結した。窮余の一策としてリーはデービス大統領が一時的な首都に定めたダンヴィルの南方でジョンストンと合流することに望みをかけた。グラントも南軍の移動に気付き、リーと平行に南西へと進軍した。双方の軍は共に疲れ果てていたが、各々の指揮官の着想に疑念を持たずに従った。シェリダンはグラントに先行しダンヴィルへの鉄道線を切断し、リーに西方ブルーリッジへの後退を余儀なくさせた。

4月6日〜7日 セーラーズクリーク会戦
 (東部戦域:アポマットクス戦役)
 自軍の砲兵と補給馬車が安全にアポマトックス河を渡河させるために、アンダーソンとユーエルの軍団は時間を稼ぐ為に陣地を築き、北軍の追撃を一時的にせよくい止めるようとした。しかしシェリダンの騎兵がクリークに沿ってこの陣地の背後に回ったため、この停止は致命的なものとなってしまった。正面からは北軍の第6軍団が肉薄し、ユーエルは軍団(僅か 4,000強にまで減少)の全てとともに降伏した。アンダーソンは逃れたものの彼の軍団も1/3にあたる 2,000が捕虜となった。南軍はファームビルで一息つくことができたが、その時にリーの戦力は30,000を切るまでに減少してしまった。リーはアポマトックス経由でリンチバーグへの行軍を再開したが、そこへは南軍の意図を察したシェリダンが先回りしており、リーの前衛がアポマトックス・コートハウスへ2マイルまで近づいた時には既にアポマトックスを占領していた。

4月9日 アポマトックス会戦
 (東部戦域 アポマットクス戦役)
 フィツ.フュー.リーとゴードンは退路を塞いでいる北軍騎兵に攻撃をかけたが、やがて北軍主力が到着し南軍は撃退された。リーはついにこれ以上の戦闘の継続を諦め白旗を掲げてグラントとの会談を申し込んだ。グラントは武器と資材の明け渡しを求め、今後は戦闘に参加しないとの条件で南軍の将兵の解放宣誓を認めた。この日の午後に28,356のノーザンヴァージニア軍は降伏し、戦争は実質的に終了した。

4月13日 リンカーン、暗殺される
 13日夜リンカーンは、夫人と友人2人と共に、フォード劇場へ観劇に出かけたが、22時13分にブースの放ったデリンジャーの銃弾を受け翌朝に死去した。

4月23日 南軍衝角艦ウェブ号、最後の出撃
 (西部戦域:海軍作戦)
 22ノットという快速を誇る衝角艦ウェブ号はレッド河にあったが、この期に及んでもなお大西洋に出て通商破壊を挑もうとしていた。冒険は順調に進みとうとうミシシッピー河々口のニューオリンズまでたどり着いたが、そこでは北軍の艦隊が待ち構えており、ウェブの大胆な企ては失敗に終わった。

4月26日 ジョンストン、シャーマンに降伏
 (東部戦域:カロライナ戦役)
 ジョンストンは14日にシャーマンへ一時的な休戦を申し入れ、26日にテネシー軍と共に降伏した。


5月9日 フォレスト降伏
 (西部戦域)
 アラバマ州にいた彼の部下の中には降伏を拒んでメキシコへ逃れようと主張するものもいたのだが、フォレストは4年に渡る戦争で大きな負担を背負い、片腕を吊っている有り様だったので、北軍に降伏することを決意した。

5月19日 南軍装甲艦ストーンウォール号降伏
 (海軍作戦)
 65年の始めに竣工した南軍装甲艦ストーンウォールは 1,400トンの船体に300ポンド砲1門と70ポンド砲2門を備えており、3月24日に補給を終えるとスペイン北部の港を出港した。北軍は保有する航洋能力のある艦艇で最も大型で重武装の蒸気フリゲイトのナイアガラ( 5,540トンで12門の8インチ旋条砲と20門の11インチ滑腔砲を装備)と蒸気スループのサクラメントをストーンウォール迎撃のために派遣していたが、装甲を持たない艦で戦力が不明の装甲艦と交戦する危険を犯さずに距離を置いた。リスボンで石炭を補給後、ストーンウォールは大西洋を西に向かったが南軍の降伏を知るとキューバのハヴァナへと向かいそこでスペインの総督に降伏した。


11月6日 南軍通商破壊艦シェナンドゥ号、投降
 (海軍作戦)
 シェナンドゥは戦争終結後もベーリング海で6日間で北大西洋にいた85隻の捕鯨船の内の24隻を捕獲するなど戦果を重ねていったが、捕鯨船にニュースが届くのは遅かったため南軍が降伏したことはまだ知らないでいた。しかし8月2日にイギリス船からの新聞で戦争が終わったことを知るとリヴァプールへ向かうことを決意し11月6日に入港して艦をイギリスに引き渡した。地球を一回りしたシェナンドゥの戦果は38隻であった。

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