(YSGA編集版)アメリカ南北戦争日報

1861年


4月20日 ノ−フォ−ク海軍工廠の喪失(東部戦線)
 ヴァージニア州民兵がこの重要な根拠地を占領し、優秀な蒸気フリゲイト メリマックと大量の海軍用物資と兵器(新式の9インチ砲52門を含む)を獲得した。

5月 南軍私掠船の出現(海軍作戦)
 僅かの砲を積み込み急ごしらえで商船より改装した数隻の私掠船が大西洋沿岸の航路を徘徊し始めた。

5月 封鎖の開始(海軍作戦)
 即席ではあるが成長しつつある北軍海軍(ほとんどは商船の改装)はポトマック川からメキシコ湾にかけての封鎖任務を開始した。

5月24日 ワシントン威嚇(東部戦線)
 南軍のヴァージニア州民兵はアレキサンドリア地方を占拠し、急造で砲台を据えつけてポトマック川河口を射程に収めた。

6月1日 ブ−ンビル会戦(西部戦線)
 北軍のナサニエル F.ライアン准将はセントルイスに対する南軍の脅威を取り除いた後(5月10日)に自身の判断でジェファ−ソン シテイに進軍し、クライヴァ−ンジャクソン知事の南軍民兵をア−カンサス州に退却させた。南軍のスタ−リング プライス准将率いるミズ−リ民兵はベン マクル−フ准将のア−カンサス民兵の増援を受けミズ−リ州の奪還を試みた。

6月 ウエストヴァージニア州とヴァージニア州における作戦(東部戦線)
 オハイオ州義勇兵を率いたジョージ B.マクレラン少将はフィリッピ(6月3日)とリッチマウンテン−キャリック砦(7月11日−14日)の2つの会戦ででウエストヴァージニア州から南軍の小部隊を追い払った。東方のヴァージニア州では北軍の支配するモンロー要塞の近辺にあるビックベテルで小競り合いが起こった(7月10日)。

6月〜7月 ワシントンとリッチモンドへの集結(東部戦線)
 南部同盟と合衆国の両軍の主力がそれぞれの首都の間に集結した。名誉進級により少将となった北軍のアーヴィン マクドゥエル将軍は38,000を率いて(ただしその内、熟練の兵士は2,000人以下であった)ヴァージニア州センタ−ビル近くのボ−ルガ−ル将軍麾下の20,000を攻撃するためにワシントンを進発した。(7月19 日)

7月21日 第1次ブルラン会戦(東部戦線)
 マクドゥエル将軍はブルラン川沿いに敵が布陣しているのを察知していたものの、シェナンドウ峡谷下流域に展開していた南軍のジョセフ E.ジョンストン将軍がボ−ルガ−ルを救援するため指揮下12,000の大部分を引き連れて駆けつけたことには気付いていなかった。28,500の戦力を持つマクドゥエルは南軍左翼の迂回を試みたが北軍の未熟な兵士、幕僚には余りにも難しい機動であった。いくらか前進した後に、北軍の攻撃はトーマスJ.ジャクソン准将のヴァ−ジニア旅団の抵抗により阻止された。(ジャクソンはこれにより”スト−ンウオ−ル”のあだ名を得た。)シェナンドウ峡谷からのジョンストンの巧妙な部隊転用はウインチェスターから鉄道で最後の旅団が到着した時点で成功を遂げた。包囲を意図した北軍部隊は逆に包囲を受け、マクドウエル軍の大部分はパニックに陥り戦場から逃亡した。我慢強く後衛を果たしたのはジョージ シークス少佐の歩兵大隊とイニスN.パルマー少佐の騎兵大隊の2つの正規部隊のみであった。北軍はは2,706、南軍は1,981の損失を受けた。南軍のジェファーソンデービス大統領が追撃を認めなかったことは多くの批判を受けている。

7月22日 北軍の新野戦軍司令官(東部戦線)
 マクレラン将軍がマクドゥエル将軍と交替して指揮をとるべくワシントンに急きょ呼び戻された。

7月〜12月 マクレランによる軍隊の訓練(東部戦線)
 マクレラン将軍はポトマック軍の編成と訓練を開始した。一方で川を挟んだヴァージニア州ではジョンストン将軍率いる南軍がマナサス一帯に駐留していた。

8月10日 ウィルソンズクリ−ク会戦(西部戦線)
 ライアン将軍は今や11,600にのぼる南軍のプライス将軍とマクル−フ将軍率いる部隊をの軍を4,500の戦力で攻撃した。当初の北軍は優勢に戦いを進めたが無謀な突撃でライアン将軍が戦死したことにより攻勢は潰え、北軍は混乱して退却した。北軍は1,235、南軍は2,084の損失を受けた。
 コメント:南軍は戦術的には勝利を得たけれども、ライアン将軍の積極的な作戦によりミズ−リ州は北軍に留まった。今や中立のケンタッキ−州が両軍の目標となった。

8月〜12月 ケンタッキ−州におけるグラント将軍とジョンストン将軍(西部戦線)
 北軍のユリシ−ズ S.グラント准将は西部の南軍を指揮するアルバ−ト シドニ−ジョンストン大将がケンターッキ−州の重要拠点を獲得するためにレオニダス ポ−ク少将を派遣したことを知った。ポ−ク将軍はグラント将軍の機先を制してパドカウを占領し(8月6日)この時点で北軍にとり最重要な戦略目標であるカイロの安全を確保した。続いてジョンストン将軍はミシシッピ−川を南に下ったり、テネシ−川やカンバ−ランド川を遡る水運を遮断するために防衛線をケンタッキ−州を横断する形で築いた。この防衛線の西端はケンタッキ−州のコロンバスであり、その西岸のミズ−リ州ベルモントには前哨拠点を置いていた。

8月27日 ハタ−ラス入江の作戦行動(海軍作戦)
 シ−ラス H.ストリングハム提督の戦隊は南軍の背後を防御する陣地帯を弱めるためにモンロ−要塞からベンジャンミン F.バトラ−少将の指揮する800の兵を上陸させ封鎖基地を設立した。

9月12〜13日 チ−トマウンテン会戦(東部戦線)
 南軍のロバート E.リー将軍はウエストヴァージニア州の奪回を試みたが撃退されてしまった。

10月21日 ボ−ルズブラフ会戦(東部戦線)
 ヴァ−ジニア州リ−スバ−グ近郊でポトマック川を渡った北軍の偵察隊はナ−タン G.( シャンクス)エヴァンス大佐指揮する優勢な南軍と交戦したが上院議員から軍人に転じたエドワ−ド D.ベ−カ−大佐が愚かにも部隊をばらばらに投入してために破滅的損害を受けた。ベ−カ−大佐は戦死し、切り立った河岸で釘付けになった彼の部隊は戦死または戦傷237、捕虜または行方不明714の損害を受け壊滅してしまった。南軍の損失は149だった。この会戦は戦術的には重要性は低かったが、ワシントンに与えた影響は重大なものがあった。奴隷制度廃止論者のマサチュ−セッツ州上院議員ベンジャミン F.ウェ−ドを長とする戦争遂行両院合同委員会は偵察を命令したたチャ−ルズ P.スト−ン准将を告訴も審理も無く8ケ月に渡って勝手に収監してしまったのである。戦争集結までこの委員会は北軍軍部にとって夢魔のような重荷であり続けたのである。

11月1日 北軍の新総司令官
 年老いたスコット将軍の辞任によりマクレラン将軍が昇進したが新たな動きは何ら無く北軍に軍事行動の遅れへの不平不満が出始めた。

11月7日 ベルモント会戦(西部戦線)
 約3,000の戦力を率いたグラント将軍は増大しつつある南軍のミズ−リ州西部に対する圧力を緩和することを目的としてベルモントへ攻撃を一撃離脱的に行い成功を収めた。北軍の損失は498だったのに対し南軍は5,000以上の戦力を持ちながら約900の損失を出した。

11月18日 ハレック将軍が西部の指揮をとる。(西部戦線)
 ヘンリ− W.ハレック少将が西部に赴任し優柔不断なジョン C.フリモント少将に取って替った。しかしドン カルロス ビュ−エル少将がケンタッキ−州中部と東部を指揮していたため北軍の指揮系統は依然として分割されていた。1861年の終わりにはジョンストン将軍の南軍はミシシッピ−からカンバ−ランド峡谷にかけてのラインをしっかりと確保していたのである。

11月7日 ポ−トロイヤル上陸作戦(海軍作戦)
 北軍サミュエル F.デュポン提督はサヴァンナとチャ−ルストンを結ぶ重要な内陸水路であるポ−ト ロイヤル海峡に対し陸海軍統合の侵攻を行った。9隻の軍艦が要塞を制圧し、ト−マス W.シャ−マン准将指揮する17,000が上陸を果たした。ポ−トロイヤルは北軍の封鎖艦隊の重要な基地となった。

11月8日 トレント号事件(海軍作戦)
 サン ジャシント号のチャ−ルズ ウィルキス艦長はバハマでイギリスの汽船トレント号を独断で臨検を行い、デ−ビス大統領の代理としてイギリスに向かう途中の南部の大使ジェ−ムス M.メイソンとジョン スライデルを強制連行した。この横暴な行為によりイギリスと戦争勃発寸前まで事態は進展したが、外交的にウィルキスの行動は合衆国と無関係であると宣言、また外交官を解放しイギリスの軍艦で航海を続けられるよう手配し事態を鎮静化させた。

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