ロバート E.リーは1829年ウェストポイントを次席で卒業し、米墨戦争はメキシコシティ攻略作戦で手手の戦闘に参加して軽傷を受けた。1852〜53年にウェストポイントの校長を務め、またジョン・ブラウン事件の際には逮捕した部隊を指揮した。リーは南部の合衆国離脱には反対だったが、故郷のヴァージニア州が脱退するとそれに従いジェファーソン・デービス大統領の軍事顧問となった。戦後、反逆罪で起訴されたが決して裁判にかけられることはなく、1865年から70年に死去するまでヴァージニア州レキシントンにあるワシントン大学の学長を努めた。 |
ジョージ B.マクレランは1846年ウェストポイントを次席で卒業し、直ちにメキシコに赴きウィンフィールド・スコット将軍(アナコンダプランの提唱者)の下で勤務した。戦後は3年間ウェストポイントで工兵学を教え、その後は各地で工事に従事した。1857年に軍を離れイリノイ・セントラル鉄道に入社したが戦争が勃発すると陸軍に復帰した。軍隊の組織化、兵士の訓練は得意だったが、非常に非現実的で自己顕示欲が強く実戦向きではなかった。また政治的野心が強くリンカーンに対しても極めて批判的だった。司令官を解任された後、1864年には民主党から大統領選に出たが、もちろん落選した。戦後はニューヨーク市で行政職を勤め、1878年から81年にニュージャージー州の知事となった。 |
ブラックストン・ブラッグは1837年にウエストポイントを卒業後セミノール戦争、米墨戦争に従軍し56年に退役した。戦争が勃発すると61年に准将に任命されてシャイローで善戦した。しかし軍司令官としては決断力と根気に欠け、後には配下から「彼の指揮下にある限り、我々を敗北から救ってくれるのは神の手以外にありえないと信じる」とまで酷評された。戦後は土木技師としてアラバマやテキサスで働いた。 |
ヘンリー W.ハレックは1839年にウェストポイントを3位で卒業、戦略論を著作するほどの知性派で「秀才君」というあだ名を得ていた。米墨戦争中はカリフォルニアで戦い、54年に辞職してカリフォルニアで法律事務所を開いた。61年に軍に復職すると西部戦線を任された。実戦では決断力には欠けており、政府高官やマクレランとも衝突を繰り返していたけれども、軍隊の組織作りに長けており64年にグラントの下で参謀総長を務めたときには実力を発揮した。戦後も終生軍に身を置いた。 |
トーマス J.ジャクソンは1846年ウエストポイントを卒業し米墨戦争で砲兵として従軍、2年足らずの内に少佐に昇進する。51年にヴァージニア陸軍学校の教師になるが、教育には全く関心はなかった。第1次ブルラン会戦で断固とした防御戦闘を繰り広げてストーンウォールのあだ名を得、その後の峡谷戦役−シェナンドゥ峡谷−で大胆な作戦を敢行し名声を馳せた。ジャクソンは「新約聖書の通り生き、旧約聖書の通りに戦う」と述べられているほど信心深かったが、部下と争うことも多かった。 |
ジェームズ・ロングストリートは1842年にウエストポイントをほとんど最下位の成績で卒業し、米墨戦争ではメキシコ・シティー攻略作戦中に負傷した。彼は防御戦闘を好み、冷静、有能、柔軟で一流のポーカープレイヤーとの評も高かった。しかし短気な性格で怒り散らすことも多く、同じく短気なA.P.ヒルと決闘寸前までいったこともあった。戦後は保険業を営み、後に共和党員となり様々な連邦政府の役職を勤めたが、同僚や隣人には心底嫌われた。 |
ユリシーズ S.グラントは1843年にウエストポイントを真ん中ほどの成績で卒業、米墨戦争では乗り気ではなかったが目ざましい戦果を挙げた。しかし平時の西部駐屯は性に合わず、飲酒に浸って54年に辞職する。その後は様々な仕事を試みるが成功しなかった。戦争勃発とともに大佐に任命され、すぐに准将に昇進した。戦後はアンドリュージョンソン大統領の陸軍長官を務め、その後、二期に渡り大統領を務めた。しかしその任期中は汚職が横行し、彼の大統領としての評価は低い。 |
ドン・カルロス・ビューエルは1841年にウエストポイントを卒業、セミノール戦争と米墨戦争に従軍し、その後は軍務局勤務となった。61年にオハイオ軍の指揮を任されたが、ペリーヴィル会戦後に有利な情勢に乗じて攻撃を行わずにいたため査問会議で責任を追及され10月に軍司令官を解任され、64年には軍を辞してしまった。 |
アンブロース E.バーンサイドは、1847年にウェストポイントを卒業した後、短期間米墨戦争に従軍し、辞職して自分のデザインしたライフルを製造した。ピーターズバーグ包囲戦で大損失の責任を問われて辞職し、戦後は政界に入りロードアイランド州の州知事や上院議員を勤めた。 |
ウィリアム・ティカムセ・シャーマンは1840年にウエストポイントを卒業、米墨戦争では戦闘に参加せず、53年に軍を辞した。その後はサンフランシスコの銀行員を始めとして様々な事業に手を出すがどれ一つとして成功しなかった。59年にルイジアナ州にある陸軍学校の校長となるが、61年にルイジアナ州が連邦を離脱すると辞職して北軍に参加した。ジョージア州攻略後の無慈悲な焦土作戦は有名であるが、厳しい南部再建計画には反対であった。グラントの大統領就任とともに陸軍司令長官に就任し、グラントの引退まで勤めた。その後は政界入りを進める声も高かったが、頑に断った。 |