(YSGA編集版)アメリカ南北戦争日報

1862年


1月19〜20日 ミル スプリングス会戦(西部戦線)
 ケンタッキー州東部ではカンバーランド地峡からフェリックス ゾリコファーとジョージ クリテンデンの両将軍率いる南軍の4,000が突進してきたが、オハイオ軍(司令官はドン カルロス ビューエル)から分派されたジョージ H.トーマス准将の同規模の部隊によって徹底的に打ちのめされた。

2月〜4月 北カロライナ州沿岸での作戦行動(海軍作戦)
 アンブローズ E.バーンサイド指揮下の北軍部隊はルイス ゴールズボロウ提督により輸送されロアノーク島に上陸した。(2月7日)南軍守備隊を撃退した後(2月8日)、バーンサイドはニューベルン(3月14日)とビューフォート(4月26日)を占領した。

2月6日 ヘンリー要塞攻略(西部戦線−ミシシッピー上流)
 A.S.ジョンストンの哨兵線防御を破るため、グラントはイリノイ州カイロから強襲上陸作戦を敢行した。アンドリュー フート提督の指揮する河川装甲砲艦戦隊はテネシー川を遡り、低地に置かれたヘンリー要塞を砲火で圧倒した。

2月14日〜16日 ドネルソン要塞攻略(西部戦線 ミシシッピー上流)
 グラントは陸路でカンバーランド川にあるドネルソン要塞に向かい、砲艦戦隊はいったん引き返してカンバーランド川をグラントを支援しながら前進した。ドネルソン要塞にはジョン B.フロイド少将指揮(ギデオン ピローとシモン ボリバル ブックナーの両少将が補佐)の15,000が駐留していた。2月14日にまず北軍砲艦が攻撃を行ったが失敗に終り撃退された。翌日、南軍は逆襲に転じて北軍の包囲陣をほとんど突破しかけたが、グラントの反撃で要塞に追い戻されてしまった。フロイドとピローは水路で脱出し、ブックナーは休戦を乞うたがグラントの返答はかの有名な最後通牒であった。即ち「無条件かつ即刻の降伏以外は受け入れることはできない」というものである。
ブックナーは2月16日に降伏した。北軍の損失は2,832,南軍の損失は捕虜を含めて16,623であった。(訳注−この数字はヘンリー要塞も含めてか?)

3月 マクレラン将軍の計画(東部戦線)
 新総司令官の攻撃精神の欠如に悩まされていたリンカ−ンはとうとうマクレランに緊急命令を発し攻勢を督促した。(3月8日)マクレランはワシントンあるいはその近郊に約180,000の兵力を有していたが、J.E.ジョンストン将軍がマナサス周辺に100,000を越す兵力を展開させているという誤報(実際は約50,000程度)に欺かれ、ジョンストンの陣営を迂回するためにリッチモンドから45マイル離れたチェサピーク湾のアルバナに軍を海路で輸送することを決断した。ジョンストンはこの計画を察知すると直ちにラパノック川の対岸まで後退してこの作戦を無意味なものとした。そのためマクレランは軍をモンロー要塞に海上輸送し、その後陸路でヨーク川とジェイムス川に挟まれた半島を通ってリッチモンドに向かうことにした。リンカーンはジョンストンの戦力分析を疑っていたものの、この計画をしぶしぶながら承認した。ただし予定された海輸には南軍の装甲艦ヴァージニア号(旧北軍蒸気フリゲイト メリマック号、ノーフォーク海軍工廠で捕獲され突貫で装甲を施された)の存在が脅威を与えていた。

3月〜4月 ファラガット提督のミシシッピー河遠征(西部戦線 ミシシッピー下流)
 デービッドグラスゴー ファラガット准将は8隻の蒸気スループとコルベット、20隻の小艦艇、9隻の砲艦を従え、メキシコ湾からミシシットピー河口へと侵攻した。この艦隊にはバトラー将軍麾下の10,000の部隊を乗船していた。ミシシッピー川はセント フィリップ要塞とジャクソン要塞で守られており、この両要塞には合わせて115門の重砲が備え付けられていた。加えて南軍の装甲艦ルイジアナが機関が未成であったため、セント フィリップ要塞のすぐ上流で浮き砲台として停泊していた。

3月7日〜8日 ピーリッジ会戦(西部戦線 ミシシッピー以西)
 16,000の兵力を率いる南軍のアール ヴァン ドーン少将はアーカンサス州のフェイエッテビルの北東30マイルの地点で防御体制を取っている北軍サミュエル R.カーチス少将の12,000の右翼を包囲することを試みた。この行動を察知したカーチスは攻勢をくい止め、ヴァン ドーンは2日間の不屈の戦いの末に撤退した。南軍の損害は約1,300であり、北軍の損害はは800以上に昇った。

3月8日 ハンプトンローズの海戦 第1日(海軍作戦)
 ヴァージニア号はノーフォークから出航し待ち構えていた北軍の封鎖戦隊(全てが木造艦)を攻撃した。重武装の装甲艦は北軍の集中砲火にも損傷を受けず北軍のカンバーランド号(24門艦)をラムで衝撃して沈め、続いてコングレス号(50門艦)も攻撃し撃沈した。ミネソタ号(50門艦)は戦闘に参加しようとして座礁してしまった。日没までにヴァージニア号は僅かな損傷を修理するためにノーフォークに帰還し、乗員は残っている3隻の敵艦をかたずけるべく再出撃の準備に入った。この夜、北軍の小型ではあるが革命的な装甲艦、ジョン エリクソンの設計によるモニター号がニューヨークから到着し無力となったミネソタ号の近くに停泊した。

3月9日 モニター号対ヴァージニア号(メリマック号) (海軍作戦)
 南軍の装甲艦は再び姿を現し、モニター号は迎撃に出た。ヴァージニア号の船体は厚い鋼鉄の装甲とオーク材で覆われ、7インチと9インチの巨砲を10門積んでいた。モニター号は低乾舷で重装甲の回転砲塔に2門の11インチ砲を備えていた”鉄製の箱を乗せた筏”であった。4時間に渡り装甲艦は互いに叩き合ったが損害は与えられずヴァ−ジニア号はノーフォークに帰投した。モニター号はハンプトン ローズの制海権を確保することに成功した。(装甲艦による海戦は海軍の構造に革命を起こした、木造船を時代遅れの物となったのである。)

3月10日 マクレランの作戦準備(東部戦線)
 ヴァージニア号はもはや輸送の脅威ではなくなったことに満足して、マクレランは直ちに指揮下の軍のモンロー要塞への移動を準備した。

3月11日 リンカーンの戦争推移見通し(東部戦線)
 マクレランをリッチモンド方面に専念させるためにリンカーンは彼を一時的に陸軍総司令官から解任し、自ら陸軍の最高指揮権を執った。この件に関するリンカーンの論法は確固たる物であったが、大統領自身もしくは軍事長官のエドウィン M.スタントンが求められている専門的な経験を欠いていたため、結果は惨憺たる物であった。

3月13日 ニューマドリッドと10番島(西部戦線)
 北軍の作戦は陸海共同作戦で幕を開けた。フート司令官の砲艦戦隊の支援を受け、ジョン ポープのおよそ23,000の部隊はミシシッピー川をニューマドリッドに向けて下った。ポープはニューマドリッドから南軍守備隊を追い払い、続いて10番島攻略へと向かった。

3月22日 マクレラン半島へ進撃(東部戦線)
 マクレランはリンカーンにポトマック軍(130,000強)が進軍した後のワシントンの防御は75,000をもって確保すると保障した。(この内にはシェナンドウ峡谷からワシントンに対する脅威を防ぐ責任を持ったN.P.バンクス将軍の23,000の存在も含む。)

3月23日 カーンストーン会戦(東部戦線−峡谷戦役)
 シェナンドウ峡谷下流部でバンクスと対峙していたのはストーンウォール ジャクソン少将であり、4,300の戦力を率いてストラスバーグ南方まで退いていた。バンクスはジャクソンがワシントンへの脅威になることは無いと確信してウインチェスター周辺にジェームス シールズ准将の9,000を残し、マクレランの半島での作戦に呼応するため東方マナサスに向けて移動した。ジャクソンはシールズの戦力を把握していなかったがカーンストーンで攻撃を加えこれを撃退した。南軍の攻撃はシールズがジャクソンは援軍を受けたに違いないと報告したほど熾烈であった。

3月24日 リンカーン バンクスに渓谷に戻ることを指令(東部戦線)
 指令を発すると同時に、リンカーンはまたワシントン防衛にマクレランが残した戦力は75,000ではなく50,000でしかないことに気付いた。マクレランがうんざりしたことには、このためリンカーンはマクドウエルの30,000の軍団をそれがまるでモンロー要塞に立てこもっているかのようにワシントンに釘付けにして置いた。マクレランにリンカーンはワシントンへの脅威が無くなればマクドウエルを直ちに陸路でリッチモンド近郊の彼の軍に合流させることを保証していたのだが、リンカーンはマクドウエルに既にフレデリックスバーグ近郊にある10,000の兵力を合流させるように指示した。小規模な戦いでカーンストーン会戦のように重大な意義を持った物は滅多にあるものではない。


4月 リーの戦略計画 (東部戦線)
 デービス大統領の軍事顧問のロバート E.リー将軍はモンロー要塞に集結しているマクレランの100,000とフレデリックスバーグのマクドウエルの40,000の軍勢に対しリッチモンド防衛のためにジョンストンが用いることができるのは僅かに60,000でしかないことを悟っていた。そしてリーはまたワシントンに対してリンカーンがあまりに神経質であることにも気付いていた。増強されて18,000近くの戦力を有するジャクソンに峡谷で陽動作戦を行わせ、マクレランからできるだけ多くの部隊を引き抜いてしまう作戦案をリーは勧告した。このプランはジャクソンの同意を得、デービスから承認された。

4月4日 ヨークタウン攻略 (東部戦線−半島戦役)
 マクレランは90,000を率いてリッチモンドへ向かっていたが、ヨークタウンから南西に10マイル半島を横切って伸びている塹壕線に直面した。そこには南軍のジョン B.マグラダー准将が率いる15,000が配置されていた。マクレランは多数のダミーの大砲と偽りの行動で欺き、本式の封鎖を開始してワシントンに攻城砲を要請した。ジョンストンがラパノックから到着したため南軍は60,000となったが、マクレランが大規模な砲撃の開始をもくろむ2日前にリッチモンドに向けて後退した。マクレランはゆっくりと追撃した。

4月4日〜8日 10番島の降伏 (西部戦線−ミシシッピー川上流)
 北軍の2隻の砲艦が勇敢にも10番島の重砲の砲列をかいくぐり対岸までポープの部隊を護衛した。(4月4日〜7日)島と地上との連絡を立ったため、10番島の守備隊は降伏した。(4月8日)島から60マイル下ったところにはメンフィスの北を防御するピロー要塞があった。ポープの軍は川を船で下りピロー要塞を包囲し、砲艦と蒸気スクーナーは砲撃を開始した。ハレックはポープの部隊をコリンス攻略に振り向けたが、艦隊はそのまま残り砲撃を続けた。(ここでの成果を挙げたことでポープは後に東部で指揮をとることになる。)

4月6日〜7日 シャイロー会戦 (西部戦線)
 ジョンストンはピッツバーグ渡船場とシャイロー教会付近でグラントの不用心な前哨野営地に奇襲を行ない北軍は手ひどく痛めつけられ追い立てられた。勝利を取り戻そうとするグラントの精一杯の奮闘は日没時についに成功した。すべての予備を使い果たしてしまった南軍は初めはグラントの砲兵に前進を妨げられ、続いては側面から砲火を浴びせかけた2隻の北軍砲艦により撃退された。ジョンストンは死力を尽くした突撃を率いていたところ戦死し、ボールガールが指揮を引き継いだ。その夜、ビューエルの軍が河の東岸に到着し、その一部は川を渡ってきた。翌日の日の出から少し経ってグラントは逆襲に転じ、正午までにボールガールは戦闘を打ち切り、コリンスに退却した。南軍は参加およそ40,000に対し10,600、北軍は62,700に対し13,000の損害を出した。北部では多くは根拠のないものであったがグラントへの批判が高まった。これらに対してグラントの救済を求められたリンカーンの答えは「私はこの男を替えるわけにはいかない。彼は戦ってくれる」というものであった。

4月15日 ペラルタ会戦 (西部戦線)
 南軍のヘンリー ホプキンス シブリー准将はカリフォルニアに侵攻するためおよそ4,000のテキサス義勇兵を引き連れてテキサス州のフォートブリスからリオグランテまで前進したが、ニューメキシコ州ヴァルヴェルデでエドワード R.S.キャンビー大佐の同等の兵力を持つ部隊に打ち破られた(2月21日)。そしてシブリーはアルブケルケ、サンタフェと順番に占領していったが、食料の欠乏により退去を強いられ、またアルブケルケ南方20マイルのペラルタで増援を受けたキャンビーと遭遇した。続く一連の遭遇戦でシルビーと彼の崩壊しつつある部隊はフォートブリスに戻らざるを得なかった。(4月〜5月)

4月24日〜27日 ニューオリンズ攻略 (西部戦線−ミシシッピー下流)
 ファラガットの旗艦は要塞から砲撃を浴びせられたが、彼の戦隊は防壁を突破し要塞に突入した。要塞からは11隻の砲艦が反撃してきたが、そのうちの9隻は撃沈された。全ての南軍部隊はニューオリンズから撤退したのでファラガットは進撃し、これを占領した。(4月25日)セント フィリップ要塞とジャクソン要塞は砲艇隊の砲火を受け、加えてバルターの陸軍部隊に包囲されたため降伏した。(4月27日)以降はバルターの部隊はニューオリンズの支配に当たった。

5月 北軍のミシシッピー川遡上作戦 (西部戦線−ミシシッピー下流)
 ファラガットはミシシッピー川を遡り、バトンルージュとネチェズを降伏させた。しかし厳重に要塞化されたヴィックスバーグは北軍の艦隊を撃退した。(5月23日)ニューオリンズに戻ったファラガットはワシントンからミシシッピー川を打通するよう断固とした命令を受け、艦隊は砲艇隊を伴って再度ヴィックスバーグへ挑むこととなった。

5月〜6月 ハレックの進撃 (西部戦線−ミシシッピー下流)
 ハレックは合同した各軍に対し直接に指揮をとり、非常にゆっくりとコリンスへ前進した。ボールガールはハレックの前から退却して都市を明け渡し、テュペロまで退いて軍を再編成した。(5月29日)続いて南軍はピロー要塞からも撤退した。(6月5日)どっしりと構えたハレックは配下の部隊を分割し、ビューエルを東方テネシー州に送り、グラントをミシシッピー流域で守備に当たらせた。一方で南軍はボールガールに替わりブラックストン ブラッグが西部戦域の司令官となった。チャタヌーガに対するブラッグの脅威を除くためブラッグは配下の部隊のほとんどをテネシー州南部に素早く移送した。

5月1日 ジャクソンの状況 (東部戦線−峡谷戦役)
 ジャクソンはスイフトラン ギャップに位置し、2つの脅威に直面していた。その一つは峡谷を遡って来るバンクスであり、もう一つはウェストバヴァージニアから接近しつつあるフリモントの15,000であった。リチャード S.ユーウェル准将に8,000を任せてバンクスを阻止するために残し、ジャクソンは西に移動しアレゲニーに入った。

5月5日 ウイリアムズバーグ会戦 (東部戦線−半島戦役)
 ポトマック軍は遅滞戦術を行っているジェームズ ロングストリート少将指揮のジョンストンの後衛部隊に前進を妨げられた。北軍の前進はゆっくりと継続される。

5月8日 マクドウエル会戦 (東部戦線−峡谷戦役)
 ジャクソンはフリモントの先遣隊を奇襲して追い返した。これ以降フリモントは全く前進することをせず、ジャクソンは峡谷に戻った。

5月9〜30日 ジャクソンの前進 (東部戦線−峡谷戦役)
 ジャクソンは北へと急進し、渓谷を下った。マサヌテン山地(50マイルの長さに渡りシェナンドウ峡谷を二分している)を北軍との遮蔽に役立て、その中程の峠で東に転じて後に再び北進した。

5月9日 プラムポイントの戦い (西部戦線)
 要塞に留まっていた南軍の砲艦隊はチャールズ H.デービス大佐(フートはドネルソンでの作戦で負傷して後送されていた)指揮する北軍艦隊を日の出とともに攻撃を仕掛けることにした。北軍の2隻の砲艦が大破したが南軍艦隊は撤退した。(ハレックの進撃のためピロー要塞の守備隊は6月5日に撤退した。)

5月23日 フロントロイヤル会戦 (東部戦線−峡谷戦役)
 ジャクソンはフロントロイヤルの北軍守備隊を駆逐しバンクスの背後を脅かした。

5月25日 マクレラン、リッチモンドを視認する (東部戦線−半島戦役)
 マクレランはマクドゥエルとの予想される合流地点を確保するために3個軍団をチカホミニー川の北に配置し、3個軍団をスウォーレン川の南のリッチモンド正面の塹壕線の前に留めていた。

5月25日 第1次ウインチェスター会戦 (東部戦線−峡谷戦役)
 ジャクソンはバンクスをウインチェスターに追い詰め、そこで再び手痛い打撃を与え、ポトマック川の対岸まで追い立てた。ハーパースフェリーでバンクスは3,000の捕虜を出し、小火器10,000、火砲数門、そして莫大な量の食料を失った。北軍の損害は約1,500、南軍の損害は400であった。

5月26日 リンカーンの反応 (東部戦線−峡谷戦役)
 フレデリックスバーグのマクドウエルに対しリンカーンは計画されていたマクレランとの合同から峡谷に急行させるように変更し、またフリモントにも攻勢の再開を求めた。ジャクソンはその時ポトマック川岸にいたが、この罠には気付いていた。フリモントの15,000はウインチェスターの南西わずか25マイルに迫って東に進撃し、マクドウエル指揮下のシールズは10,000でフロントロイヤルを奪取し、その後には更に10,000が続いていた。ポトマック対岸のバンクスは再編成中で再び南進する準備を進めていた。

5月30日〜6月7日 ジャクソンの撤退 (東部戦線−峡谷戦役)
 ジャクソンは15,000の兵力、2,000の捕虜そして戦利品も積んである2列縦隊の輸送馬車を率いて素早く撤退し、フリモントを阻止するために騎兵隊を前方に派遣していた。そして彼はウインチェスターを5月31日に放棄して、罠が閉じる前に死地を脱しストラスブルグに到着した。一方マサヌテンの西側からフリモントは追撃しており、シールズも東方から追いすがっていたが、6月5日にハリスバーグにいたジャクソンはユーウェルをクロスキーでフリモントに対して分派し、自身は残余を率いてシールズを迎え撃った。

5月31日〜6月1日 セブンパインズ会戦(フェアオークス会戦)(東部−半島戦役)
 ジョンストンは北軍が部隊を分割し、マクレランの左翼が孤立しているのに目を付けた。しかし南軍の貧弱な幕僚能力のおかげで計画された二重包囲は各個投入のの正面攻撃となってしまい、北軍の増援が川を渡った後に撃退されてしまった。ジョンストンは重傷を負い、グスタフ W.スミス少将が後を継いだ。翌日の攻撃も再び撃退された。
北軍の損失は約5,000であり、南軍は6,100であった。マクレランは今やマクドゥエルが彼と合流することは決して無いであろうことが分かっていたにももかかわらず、分散したままの陣形を正すことはしなかった。フィツジョン ポーターの軍団はチカホミニー川の北岸に残されたままだったのである。

6月1日 北ヴァージニア軍の誕生 (東部戦線)
 デービス大統領はジョンストンの後任にリーを任命した。

6月6日 メンフィスの戦い (西部戦線)
 北軍艦隊はメンフィスの南軍艦隊を攻撃するため川を下り、1隻を除いて南軍の艦艇を壊滅させた。メンフィスは降伏しデービスの艦隊はヴィックスバーグ上流のヤズー川とミシシッピー川の合流点に移動した。

6月8日 クロスキー会戦 (東部戦線−峡谷戦役)
 ユーウェルはフリモントの中途半端な攻撃を退け、北軍が前進するのに不可欠な1つの橋を焼き払った。

6月9日 ポートリパブリック会戦 (東部戦線−峡谷戦役)
 ジャクソンはシールズとポートリパブリックで交戦した。5時間に渡る会戦はユーウェルが増援に駆けつけたことで決着し、シールズの部隊は20マイルほど後退した。夜半までにブルーリッジのブラウンズギャップに落ち着き安全を確保し、輸送馬車は戦利品と共にリッチモンドに送られていた。フリモントはハリソンバーグに向けて撤退しており、シールズはルレイで再編中であった。またマクドウエルはすっかりマクレランから切り離され、峡谷に留まるようにという命令を受けてフロントロイヤルに留まっていた。(4月30日から6月9日までジャクソンは18,000以下の戦力で70,000の北軍を手玉に取り、北軍の戦争計画全体の様相に変更を強いた。)

6月11日 ハレック総司令官に昇進する
 ハレックは総司令官に任命されワシントンに向け出発した。(6月17日)西部での彼の指揮権はグラント(テネシー軍)とビューエル(オハイオ軍)に個々に引き継がれた。

6月12日〜15日 スチュア−トの襲撃
 (東部戦域 半島戦役)
 J.E.B.スチュア−ト准将(★2.1,2-5-5)は麾下の騎兵師団から1,200騎を選んでポトマック軍を迂回し、後方を襲撃してまわった。ホワイトハウス(リッチモンド東方約35マイル)にあるマクレラン(☆☆☆3.-1.0,5-1-2)の司令部の間近で大量の物資を破壊するなどの戦果を挙げたことに加えて、リーに北軍の作戦計画に関する非常に重要な情報をもたらした。

6月25日 南軍の集結
 (東部戦域 半島戦役、七日会戦 第1日目)
 リ−(★★★2.3.1,4-5-5)の指揮下にある南軍の3/4はリッチモンド近郊のメカニクスビルに集結し、早速小競り合いが生じた。シェナンドゥ峡谷から駆けつけたジャクソン(★★2.2,3-6-6)もアスランドステ−ションに到着した。

6月26日 ヴァージニア軍結成
 (東部戦域)
 リンカーン大統領は西部からミズーリ州で勝利を得ていた自信家のジョン・ポープ少将(☆☆☆3.-1,2-4-2)を召集し、マクドゥエル(☆☆☆3.-1.-1,3-4-3)、フリモント(☆☆☆4.-3.-2,2-1-2)、バンクスを擁する新しいヴァージニア軍の指揮を委ねた。

6月26日 メカニクスビル会戦
 (東部−半島戦役、七日会戦 第2日目)
 リ−はジャクソンの側面攻撃と呼応して戦闘を開始する予定であったが、午後になってもジャクソンは現れなかった。経験不足で欠陥の多い幕僚業務のおかげで南軍はA.P.ヒル(★2.2,3-4-4)を筆頭に正面突撃を敢行してしまい北軍の約4倍の1,500の損害を出してしまった。泥に苦しめられていたジャクソンは結局は戦場に到着しなかったが、断片的な突撃を撃退していた北軍のポ−タ−は彼の接近を知るとその夜のうちにゲインズミルに後退した。

6月27日 ゲインズビル会戦 
 (東部−半島戦役、七日会戦 第3日目)
 リ−は65,000の兵力をもって再び攻撃を行ったが、ジャクソンは攻撃が遅れてポーターの右翼を脅かすことに失敗した。再度A.P.ヒルの師団が単独で攻撃する羽目になり手ひどい損害を受けた。やがて北ヴァージニア軍の全師団は北軍の前面に殺到し、ついには戦線中央部でジョン・ベル・フッド(★2.2,1-5-1)指揮する旅団が突破を果たしたものの、ポーターの軍団は他の軍団からの増援で救援され混乱から立ち直った。その夜、マクレランの命令でポーターはチカホミニー河の南岸に後退した。またマクレランは南軍の主攻勢は左翼と中央に向けられると確信していた、そしてフィルカーニーとジョセフ E.フッカーの両准将が『南軍のマグラダー(★3.1,3-3-5)が展開している薄い外郭を突破してリッチモンドを奪取することは可能である』と保証して反対したにも関わらず、ジェームス河への全面後退を命令してしまった。「私の軍は余りにも小規模だったのでこの会戦を失ってしまった(彼は南軍が20万人だと信じていた)。・・・連邦政府はポトマック軍を見捨てたのではないのか。・・・以下首脳部に対する罵詈雑言続く(当日、陸軍長官に宛てたマクレランの電報より)」北軍は2,800の捕虜を出すなど6,800の損害を受けたが、南軍は約9,000を失った。

6月28日 ヴィックスバーグ突破
 (西部戦域ミシシッピー川方面)
 ニューオリンズを発したファラガットの北軍艦隊は3マイルに及ぶヴィックスバーグ要塞のまるで棒打ち刑を受けているかのような激しい砲火を、ある程度の犠牲者と艦船に相当の損害を出したものの突っ切ることに成功し、ミシシッピー川とヤズー川との合流点でデービスの艦隊と合流を果たした。

6月29日〜30日 ポトマック軍後退
 (東部戦域 −半島戦役、七日会戦 第5〜第6日目)
 リーはマクレランの後退を認めると追撃を敢行したが、この迅速な攻撃は個々の北軍軍団長による一連の遅滞行動で阻止され、北軍の馬車縦列はホワイトオーク沼地を抜けることに成功した。
 マクレランは自らジェームス河にある新しい策源地を視察に赴いた。


7月1日 マルヴァンヒル会戦
 (東部戦域 −半島戦役、七日会戦 第7日目)
 北軍の士気が崩壊しかけていると見て、リーは正面攻撃を敢行した。しかし、マクレランの不在時に北軍第5軍団長のポーター(-,5-4-4)は射撃に適した高地に絶好な態勢を整え、見事な防御戦闘を展開した。ジャクソンは前日に引き続き戦闘に寄与せず、リーの突撃はまたもや幕僚連中の不手際で命令が錯綜したため、個々の旅団が満足な砲兵の支援も受けられずに、各個に正面攻撃を敢行するという最悪の展開となった。丘では百門もの北軍砲列が待ち受けており、南軍の愚行のおかげで彼らは単に手近な敵をなぎ倒すだけでよかった(歩兵の交戦範囲まで接近できた連隊は少数しかなかったため、この会戦は恐らく南北戦争で砲兵による損害がライフルの損害を上回った唯一の例かもしれない)。最も損害の大きかった師団長の1人であるD.H.ヒルが「戦争ではない、殺人だ」と述べたこの会戦で、南軍は2時間の内に5,000という大損害を被って撃退された。

 マルヴァンヒル会戦は明らかに北軍の勝利だったのだが、マクレランは直ちに、北軍砲艦の援護を受けられるハリソン渡船場への後退を命じてしまった。7日間の北軍の損害は、戦死1,734、負傷8,062、行方不明6,053(ほとんどは捕虜)であり、南軍の側は戦死3,478、負傷16,261、行方不明875であった。ゲインズミルを除く全ての南軍の攻撃は撃退されたのだが会戦の終了時には北軍はリッチモンド郊外から駆逐され、ジェームス河畔に打ち破られて縮こまっていた。

 ロバート E.リーは1829年ウェストポイントを次席で卒業し、米墨戦争はメキシコシティ攻略作戦で手手の戦闘に参加して軽傷を受けた。1852〜53年にウェストポイントの校長を務め、またジョン・ブラウン事件の際には逮捕した部隊を指揮した。リーは南部の合衆国離脱には反対だったが、故郷のヴァージニア州が脱退するとそれに従いジェファーソン・デービス大統領の軍事顧問となった。戦後、反逆罪で起訴されたが決して裁判にかけられることはなく、1865年から70年に死去するまでヴァージニア州レキシントンにあるワシントン大学の学長を努めた。
 ジョージ B.マクレランは1846年ウェストポイントを次席で卒業し、直ちにメキシコに赴きウィンフィールド・スコット将軍(アナコンダプランの提唱者)の下で勤務した。戦後は3年間ウェストポイントで工兵学を教え、その後は各地で工事に従事した。1857年に軍を離れイリノイ・セントラル鉄道に入社したが戦争が勃発すると陸軍に復帰した。軍隊の組織化、兵士の訓練は得意だったが、非常に非現実的で自己顕示欲が強く実戦向きではなかった。また政治的野心が強くリンカーンに対しても極めて批判的だった。司令官を解任された後、1864年には民主党から大統領選に出たが、もちろん落選した。戦後はニューヨーク市で行政職を勤め、1878年から81年にニュージャージー州の知事となった。


7月15日 南軍甲鉄艦アーカンサス出撃
 (西部戦域 ミシシッピー川方面)
 まだ未完成の南軍甲鉄衝角艦アーカンサス(砲10門装備、鉄道のレ−ルで装甲)は減水間近のヤズー川を離れ、北軍艦隊36隻が居並ぶ中を突進し、迎撃に出た3隻の北軍艦艇を蹴散らし、停泊中の艦に猛射を浴びせ通り抜けてヴィックスバーグに入った。ア−カンサスは多数の命中弾を受け戦死7と負傷7を出したが、装甲を貫通した弾丸は、1発しかなかった。北軍は多数の艦艇に損害を受け100名を遥かに越える損害を出した。夜間に北軍は5隻の甲鉄艦と4隻の砲艦でヴィックスバーグを攻撃したが、暗闇のなかアーカンサスを捕捉することは困難で1発しか有効弾を与えることはできなかった。

7月22日 南軍甲鉄艦アーカンサス対北軍艦隊
(西部戦域ミシシッピー川方面)
 北軍の甲鉄艦エセックスと砲艦クィーン・オブ・ザ・ウエストはヴィックスバーグ要塞を突破し、アーカンソスの撃沈を試みた。エセックスは軽微な損害を受けただけでアーカンサスに近接したが致命的な損害を与えることはできなかった。
続いてクィーン・オブ・ザ・ウエストが衝角攻撃を試みたが操艦を誤り、自らは縦射を浴び大損害を受けたもののアーカンサスの被った損害は軽微なものだった。


8月6日 アーカンサス爆沈
 (西部戦域ミシシッピー川方面)
 ヴァン・ドーンからの命令でアーカンサスはバトンルージュ奪回支援のために機関の調整が不十分のまま出撃した。しかし迎撃に出た北軍甲鉄艦エセックスと交戦する寸前で機関は停止して座州してしまい、乗員は艦の放棄と爆破を実行しアーカンサスは短い生涯を終えた。

7月〜10月 ブラッグのケンタッキー侵攻
 (西部戦域)
 南軍のブラッグ(★★★3.-1.0,5-1-5)はテネシー軍を率いてチャタヌーガから北へ進撃し、その一方で配下のエドムンド・カービースミス(★3.1,4-3-3)はノックスビルを発しリッチモンドで北軍の1師団を蹂躪して多数を捕虜とした(8月30日)。2つの南軍部隊の合計は約50,000であったのに対して北軍のビューエル(☆☆☆3.-2.-1,3-4-3)もほぼ同等の戦力を有していたものの、自身とナッシュビルとの連絡線がフォレスト(★2.2,1-6-5)とモーガン(★2.0,1-4-4)の南軍騎兵隊による奇襲攻撃により脅威にさらされているのに気付いてオハイオ川岸にまで後退した。これによりブラッグはケンタッキー州の大部分を手中に収めたが、彼が落胆したことには多くの志願者を予想してわざわざライフルを1万5千丁も余計に持っていったにもかかわらず南軍のために戦おうとする者はほとんどいなかった。

 ブラックストン・ブラッグは1837年にウエストポイントを卒業後セミノール戦争、米墨戦争に従軍し56年に退役した。戦争が勃発すると61年に准将に任命されてシャイローで善戦した。しかし軍司令官としては決断力と根気に欠け、後には配下から「彼の指揮下にある限り、我々を敗北から救ってくれるのは神の手以外にありえないと信じる」とまで酷評された。戦後は土木技師としてアラバマやテキサスで働いた。

7月11日〜8月3日 北軍の再編成と再集結
 マクレランを相手にするのに嫌気がさしたリンカーンは熟達した統率力を発揮する人物の必要性を認めてハレック(☆☆☆4.-2.-1,6-0-1)を西部から引き抜いて総司令官に任命した(7月11日)。西部での指揮権はグラント(テネシー軍)とビューエル(オハイオ軍)に別れて引き継がれた。ハレックはポトマック軍に半島からワシントンに戻るよう命じた(8月3日)。

 ヘンリー W.ハレックは1839年にウェストポイントを3位で卒業、戦略論を著作するほどの知性派で「秀才君」というあだ名を得ていた。米墨戦争中はカリフォルニアで戦い、54年に辞職してカリフォルニアで法律事務所を開いた。61年に軍に復職すると西部戦線を任された。実戦では決断力には欠けており、政府高官やマクレランとも衝突を繰り返していたけれども、軍隊の組織作りに長けており64年にグラントの下で参謀総長を務めたときには実力を発揮した。戦後も終生軍に身を置いた。

7月〜8月 南軍の対応
 (東部戦域 ヴァージニア軍崩壊)
 リーはこの北軍の移動に関心を持ち、ジャクソンに12,000を持たせヴァージニア州中央部にポープの動静を探るため送り込んだ。リーはリッチモンド守備隊に20,000を残してゆっくりと後に続いた。

8月9日 シダーマウンテン会戦
 (東部戦域 ヴァージニア軍崩壊)
 ラパハノック河を渡ろうとするポープの移動を妨害しようとしたジャクソンは、バンクス(☆☆☆3.-2.-2,2-1-2)指揮する約1万の北軍先遣軍団から激烈な攻撃を受けた。当初、分散した南軍に対して優勢を得たバンクスは敵の左翼に大きな打撃を与えたがジャクソンは前線に出て混乱を収拾し、戦列を建て直した。A.P.ヒルの師団の到着後、南軍は反撃に転じ日没までにはバンクスをカルペパーへ撃退した。北軍の損害は約2,300,南軍の損害は約1,300であった。そしてポープの主力の到着後にジャクソンはラピダン河を越えて撤退した(8月11日)。

8月24日 リーの計画
 (東部戦域 ヴァージニア軍崩壊)
 リーはマクレランの軍が半島から撤退してポープと合流することを知った。南軍の55,000に対し合流後の北軍は計150,000に昇るであろう。リーは大胆な計画を立て、北軍が合流してしまう前にポープを撃滅することを決断し、ジャクソンに北に行軍し、それから東に転じてポープの軍を背後から衝くことを命じた。リーはロングストリートの軍団と共に後を追い、ジャクソンと合流後にマナサス近郊でポープを攻撃することにした。

8月25日〜26日 ジャクソン北上
 (東部戦域 ヴァージニア軍崩壊)
 ジャクソンは峡谷会戦時の活力を取り戻して真夏の2日間に54マイルも行軍しマナサスにあるポープの兵站集積所を占領し、物資を奪ってからそこを焼却した(8月27日)。その後にジャクソンは前年のブルラン会戦の戦場のすぐ西側で密かに防御体制を整えた。貧弱な北軍騎兵にこの動きを正確に察知する能力は無かったため、様々な場所からもたらされる南軍出現の知らせに、ヴァージニア軍の指揮能力は追いつけなくなってしまった。

 トーマス J.ジャクソンは1846年ウエストポイントを卒業し米墨戦争で砲兵として従軍、2年足らずの内に少佐に昇進する。51年にヴァージニア陸軍学校の教師になるが、教育には全く関心はなかった。第1次ブルラン会戦で断固とした防御戦闘を繰り広げてストーンウォールのあだ名を得、その後の峡谷戦役−シェナンドゥ峡谷−で大胆な作戦を敢行し名声を馳せた。ジャクソンは「新約聖書の通り生き、旧約聖書の通りに戦う」と述べられているほど信心深かったが、部下と争うことも多かった。

8月28日 ブルランでの前哨戦
 (東部戦域 ヴァージニア軍崩壊)
 ポ−プは自身から25マイル後方の兵站集積所が襲撃されたことに立腹し、侵入者を討ち取るべく北方に急行した。ついにジャクソンの位置を確認すると、(この時ジャクソンはロングストリートの前進から注意をそらすべくグロブトン近郊で慎重に北軍の師団を攻撃していた。)これを撃滅すべく軍を集中させた。

8月29日 第2次ブルラン会戦第1日
 (東部戦域 ヴァージニア軍崩壊)
 リーとロングストリート(★★3.2,5-4-4)がソルーフェア峡谷を通ってブルラン川方面に前進している一方、ポープは南軍の主力が接近していることを信じずにジャクソンに向かってほとんど一直線に攻撃を行った。ヴァージニア軍およびポトマック軍の一部は戦場に集結中であったが、ジャクソンは後退するものと信じていたポープは到着した部隊を片っ端から逐次投入で戦場に送り込んでしまった。32,000の北軍に対し22,000で対抗していたジャクソンの戦列は幾度か突破されそうになったが果敢な反撃で持ちこたえており、到着したロングストリートの軍団も右翼に展開して北軍を朝の線まで押し戻した。

8月30日 第2次ブルラン会戦第2日
 (東部戦域 ヴァージニア軍崩壊)
 おめでたいことにポープは前日、リーに自身の2倍の損害を与え打ち破ったものと思い込んでいたため、3個軍団に追撃を命じた。このためジャクソンは引き続き北軍の正面攻撃をまともに受けることになった。ジャクソンは遂に増援を求めたが、ロングストリートはリーからの部隊抽出の指示を無視し全師団をもってポープの薄い左側面へなだれ込んだ。その結果、北軍は東方に潰走し、包囲され、ブルラン河から叩き出された。南軍の損害は9,197、ポープの受けた損害は16,000以上であった。

 ジェームズ・ロングストリートは1842年にウエストポイントをほとんど最下位の成績で卒業し、米墨戦争ではメキシコ・シティー攻略作戦中に負傷した。彼は防御戦闘を好み、冷静、有能、柔軟で一流のポーカープレイヤーとの評も高かった。しかし短気な性格で怒り散らすことも多く、同じく短気なA.P.ヒルと決闘寸前までいったこともあった。戦後は保険業を営み、後に共和党員となり様々な連邦政府の役職を勤めたが、同僚や隣人には心底嫌われた。

8月31日〜9月1日 キャンティリー会戦
 (東部戦域 ヴァージニア軍崩壊)
 ポープをワシントンから遮断すべく追撃を続けていたジャクソンは後退を援護しようとする北軍の増援の駆逐を試みた。暴風雨で視界が遮られるなかで行われたジャクソンの突撃は阻止されたが、北軍を指揮したフィル・キーニーは白兵戦で命を落とした。リーは固く防備されたワシントンをこれ以上に圧迫するつもりはなかった。

9月4日〜9日 リー、第1次北部侵攻
 (東部戦域 メリーランド州侵攻)
 リーは55,000に増強され、シェナンドゥ峡谷を通して新たな後方連絡線を設け、リースバーグ近くでポトマック河を渡った。デービス大統領から承認された彼の計画は戦争の舞台を北部に移すとともに、侵攻の成功によってイギリスとフランスの南部同盟の承認、あわよくば援助までも得ようとするものであった。スチュアート指揮する騎兵隊の保護を受けてリーは軍をメリーランド州のフレドリックに集結させると(9月7日)、カトクティン山脈を背後の守りに用いて北方に進みペンシルバニア州に侵攻した。リーの9月9日の命令でロングストリートの軍団はハーガースタウンに向かって前進する一方で、ジャクソンは反転してポトマック河を渡河しハーパースフェリー占領を目指した。

9月7日 マクレラン、リーの追跡を開始
 (東部戦域 メリーランド州侵攻)
 リンカーンはヴァージニア軍を解体しワシントンに戻っていたマクレラン指揮するポトマック軍に部隊を吸収させた。(ポープは北西部の兵站組織の司令官に廻された)97,000の戦力でマクレランはワシントンを進発し、リーの追跡に入った。

9月12日 マクレラン、南軍の命令書を入手
 (東部戦域 メリーランド州侵攻)
 マクレランの前衛はフレドリックに達していたが、そこで9月6日に発せられたリーの命令書の写しを入手した。その中には4分された南軍の配置と目的地への移動が詳しく記されていた。リーの軍は25マイル以上も離れていたのに加え渡河不能なポトマック川で隔てられており、いわばマクレランの手中にあったわけだが、北軍はフレドリックからサウスマウンテンまで進むのに2日も要してしまった。

9月14日 サウスマウンテン会戦
 (東部戦域 メリーランド州侵攻)
 ターナー峡谷ではD.H.ヒルの師団が北軍フッカーの第1軍団とリノ(-,3-3-3、日没直前に戦死)の第11軍団の攻撃を受けた。猛攻を受けながらもD.H.ヒル(★2.1,4-3-3)の師団はロングストリートの到着まで耐え抜いた。一方、6マイル南方のクラプトン峡谷ではフランクリン(-,4-3-3)の第4軍団が南軍の3個旅団を打ち破ったが、その後の前進は遅くハーパースフェリー救援には間に合わなかった。北軍の進撃を援護部隊で遅滞させている間に、リーは急いでシャープスバーグに軍を集結させた。

9月14日〜15日 ハーパースフェリー会戦
 (東部戦域 メリーランド州侵攻)
 ジャクソンはハーパースフェリー周辺の高地を占領し、北軍守備隊に砲撃を浴びせた。少数の騎兵が脱出したものの、北軍はマクレランの所在が不明だったこともあって15日に降伏した。A.P.ヒルの師団を11,000人の捕虜の監視と物資の捕獲のために残留させて、ジャクソンはリーと合流するためにシャープスバーグに急行した。マクレランは15日には50,000以上の兵力をもってリーの20,000を打ち破ることができたであろうが、信じられぬことに16日にも攻撃を行わなかったので、今や45,000強にまで増強された南軍はポトマック川を背後に控えてアンティータムクリーク沿いに良く組織された防御態勢を整えていた。

9月17日 アンティータムクリーク
 (シャープスバーグ)会戦
 マクレラン(☆☆☆3.-1.0,5-1-2)は3個軍団をもってリーの左翼を席巻する一方、クリーク越えで攻撃を仕掛け右翼を釘付けにする計画を立て、2個以上の軍団を予備とした。北軍の3個軍団による鉄槌はばらばらに振り下ろされ、ジャクソン(★★2.-2,3-6-6)への攻撃は支離滅裂なものとなってしまった。先陣は最右翼のフッカー指揮する(☆☆3.1,2-5-4)第1軍団であり、これにマンスフィールド(-,4-3-3)の第12軍団が続いた。激戦は続き混乱のなかマンスフィールドは戦死し、フッカーも負傷した。両軍とも甚大な損害を出したが、南軍は辛うじて持ちこたえていた。北軍右翼の攻撃が終わってからエドウィン V.サマ−(-,3-4-4)の第5軍団が中央に突進したが、彼は師団をばらばらに投入してしまった。セジウイック(☆☆3.1,4-4-3)の師団が突破を果たすかに見えたが、ハーパースフェリーから駆けつけたマクロウズ(3-4-2)とウォーカー(2-4-4)の師団に側面を衝かれてしまった。正午にはリーの予備は全て出尽くしたが、北軍の攻撃も中断された。戦いの舞台は続いて南軍右翼のロングストリートの軍団に移っていった。北軍アンブロース・E.バーンサイド少将(☆☆3.-1,3-3-3)の軍団は、橋(クリークは浅瀬を渡ることができた)を奪取するために無分別な攻撃を3度繰り返した。奪取後2時間以上かけて軍団の再編成を終えるとシャープスバーグに向かって突撃したが、会戦の間中ずっとマクレランの手許には20,000以上が予備として放置されていた。バーンサイドの最後の努力もハーパースフェリーからA.P.ヒル(★2.2,3-4-4)の師団が到着し彼の左翼に突撃した時点で挫折して北軍はクリークを越えて押し戻され、戦争を通じて1日で最大の犠牲者を出した会戦は終了した。
 リーは50,000以下の戦力でマクレランの90,000(会戦に参加したのは70,000のみ)を押し留めた。北軍の損害は12,400、南軍は13,700であった。リーはその夜から翌日にかけて沈着に敵と対峙していたが、9月19日にポトマックを渡って悩み無しに撤退していった。戦術的にはアンティータムは南軍の勝利であったが、リーの侵攻は阻止されたので戦略的に見れば北軍の勝利に帰し、リンカーンはこれを奴隷解放宣言のきっかけとするのであった(9月23日)。

9月20日 マクレランの追撃、停滞する
 ポーターの第5軍団の一部がポトマック川を渡って南軍を攻撃した。当初は成果を挙げるかに見えたこの作戦もA.P.ヒルの師団による痛烈な反撃を受け、北軍は川を渡って後退した。

7月〜9月 守勢のグラント
 (西部戦域 ミシシッピー方面)
 グラント(☆☆☆2.2.2,5-5-4)は手持ちの乏しい戦力(45,000)をイリノイ州カイロまで続く長い後方連絡線に沿って分散して展開し、自身は25,000を率いてコリンスで南軍のプライス(★★3.0,3-4-3(兵17,000))とヴァン・ドーン(★★★2.-2.-1,3-3-3(兵15,000))が彼に対抗するために合流しようとするのを威嚇していた。

 ユリシーズ S.グラントは1843年にウエストポイントを真ん中ほどの成績で卒業、米墨戦争では乗り気ではなかったが目ざましい戦果を挙げた。しかし平時の西部駐屯は性に合わず、飲酒に浸って54年に辞職する。その後は様々な仕事を試みるが成功しなかった。戦争勃発とともに大佐に任命され、すぐに准将に昇進した。戦後はアンドリュージョンソン大統領の陸軍長官を務め、その後、二期に渡り大統領を務めた。しかしその任期中は汚職が横行し、彼の大統領としての評価は低い。

9月19日〜20日 イウカ会戦
 (西部戦域 ミシシッピー方面)
 プライスは15,000を率いてミシシッピー州北部のイウカを占領したが、グラントはこれを罠に掛ける好機と見てオード(☆☆3.0.0,4-4-4)の2個師団とローズクランス(☆☆☆3.-1.0,3-5-3)の2個師団で二重包囲を試みた。プライス率いる南軍は撃退したものの連絡の途絶から南軍の包囲撃滅は実現しなかった。プライスとヴァン・ドーンは合流を果たし後者が指揮をとってコリンスに向かった。


10月3日〜4日 コリンス会戦
 (西部戦域 ミシシッピー方面)
 2日間に渡る南軍の攻撃に対しローズクランスは押されてはいたもののコリンスの守備を果たした。グラントは再び二重包囲を試みるがローズクランスは果敢な追撃を行うことはできず失敗してしまった。ヴァン・ドーンは痛手を被ったものの脱出することができたのである。北軍の損害は交戦した23,000の内で2,520、南軍の損害は22,000の内で4,233であった。この会戦の結果、北軍はメンフィスとコリンスの両戦略的前哨拠点<を確保した。グラントは目下ヴィックスバーグへの進撃を計画し、グランド・ジャンクションに向かった。

10月8日 ペリーヴィル会戦
 (西部戦域 ケンタッキー方面)
 ケンタッキー州が南軍の手に落ちるのを傍観していたビューエルは多くの増援を受けるとともにワシントンから左遷の脅しを受けたのでついに重い腰を上げルイズビルから出撃した。ビューエルの前進は南軍ブラッグ配下のレオニダス・ポーク(★★3.-1,2-3-3)とウイリアム J.ハーディー(★★3.-1,3-5-4)が指揮する一支隊(約16,000)との戦闘を引きを起こした。シェリダン(☆2.1,3-4-5)率いる北軍師団が夜明けから果敢に突進し中央の要地を占領したが、南軍は敵対しているのはビュ−エルの軍の一部分にすぎないと思い込み2個師団で北軍左翼に逆襲をかけた。戦力比を考えると無謀としか思えないこの攻撃は不幸にも新兵で編成された師団に向かって突撃し、更に不幸なことには最初の斉射で北軍の師団長が戦死したこともあり、成功してしまった。士気喪失した北軍師団は左翼のもう一つの師団も巻き込んで潰走してしまった。北軍右翼、クリテンドン(-,2-3-4)の軍団の正面には南軍の姿は無かったがあろうことか前進を行わず、南軍はこの会戦を持ちこたえることができた。
 北軍の損害は4,200であり南軍は3,400であった。この後ブラッグは軍を集結し、そして不可解なことに向きを変えてカンバーランド峡谷を抜けてテネシー州に戻ってしまった。ビューエルも同じく怠慢により南軍の追撃に失敗した。

 ドン・カルロス・ビューエルは1841年にウエストポイントを卒業、セミノール戦争と米墨戦争に従軍し、その後は軍務局勤務となった。61年にオハイオ軍の指揮を任されたが、ペリーヴィル会戦後に有利な情勢に乗じて攻撃を行わずにいたため査問会議で責任を追及され10月に軍司令官を解任され、64年には軍を辞してしまった。


11月7日 マクレラン罷免 
 (東部戦域)
 マクレランはリンカーンからの有無を言わせぬ追撃命令が出るまでポトマック川を渡ってリーの後を追おうとはしなかった(10月5日)。その後、彼は用心深くカルペパーのロングストリートと峡谷のジャクソンの中間に位置するウォレントンまで前進した。催促されたにもかかわらず、これ以上は前進することはなかったため、リンカーンはマクレランを罷免し、ポトマック軍の指揮をバーンサイド(☆☆☆3.-1,3-3-3)に委ねた。

 アンブロース E.バーンサイドは、1847年にウェストポイントを卒業した後、短期間米墨戦争に従軍し、辞職して自分のデザインしたライフルを製造した。ピーターズバーグ包囲戦で大損失の責任を問われて辞職し、戦後は政界に入りロードアイランド州の州知事や上院議員を勤めた。

11月13日 グラントの前進
 (西部戦域 ミシシッピー方面)
 グラントはテネシー軍をテネシー州のグランドジャンクションに集結させ、ヴィックスバーグに向かって南下を開始し、現在この戦域の南軍全体を掌握しているジョン C.ペンバートン将軍を押し戻した。


11月〜12月 バーンサイドの作戦計画
 (東部戦域)
 バーンサイドはリッチモンド攻略の代案を計画していた。ラパハノック川(浅瀬を渡河可能)のフレデリックスバーグに向かって前進したものの、北東岸で渡河資材を待って1ヵ月も空費してしまった。リーは落ち着いて対岸に戦力を集中してフレデリックスバーグ(住民は避難を済ませていた)を見下ろす丘陵の山頂沿いに塹壕を構築し、ロングストリートは町のすぐ上で、ジャクソンはより南の右翼で待ち構えた。

11月〜12月 手詰まり
(西部戦域 −ケンタッキー方面)
 数週間に渡ってブラッグとローズクランスは作戦を行なわずにナッシュビルとマーフリースボロの間で睨み合っていたが、その一方、ワシントンもリッチモンドも優柔不断な将軍連中の尻を叩き続けていた。その間、南軍の騎兵部隊を率いるネイサン・ベドフォード・フォレストとジョン H.モルガンはローズクランスとグラントの双方を襲撃して苦悩させていた。

12月7日 プレイリー・グローブ会戦
 (ミシシッピー以西)
 南軍 T.C.ヒンドマン(★3.0,2-3-3)少将指揮する10,000の部隊が北軍のジェームス G.ブラント(☆3.0,-)とフランシスJ.ヘロンの両准将指揮する同規模の部隊に撃退され、アーカンサス州の北部は連邦政府側に残った。

12月13日 フレデリックスバーグ会戦
(東部戦域)
 バーンサイドは川を渡って対岸のフレデリックスバーグとその南方に二面攻撃を行った。北軍のフランクリン指揮する左翼縦隊の突撃はジョージ・ゴードン・ミード(☆3.1,4-5-4)の師団が戦列の継ぎ目を見つけ突進したものの後が続かず、結局ジャクソンに撃退されてしまった。フランクリンは麾下の半数も戦闘に投入せず、以後はバーンサイドのからの命令を受けても攻撃を再開しなかったため北軍は河岸に張りついているに過ぎず、夕刻になってもジャクソンの布陣は依然として損なわれていなかった。北方においても北軍の突撃は町の向こう側のメアリー高地から撃ち下ろされるロングストリート軍団の大砲と小銃の痛烈な射撃を受け、フレデリックスバーグの廃墟で頓挫した。14回にも及ぶ旅団単位で繰り返された南北戦争中で類を見ない勇敢かつ絶望的な突撃はこうして南軍の射撃の前に潰えてしまい、前線に沿って落ち葉の中に12,500以上の北軍兵士が横たわっていた。(ロングストリートの前面に6,000)南軍の損害は5,309であった。バーンサイドは翌日にかつて自身が率いていた第9軍団で再び無謀な突撃を行おうとしたが、配下の軍団長が思いとどまらせ、15日に川を渡って撤退した。バーンサイドは、敗走の責任を部下の責任として非難した。

12月14日 バンクスとバルターの交替
 (西部戦域 ミシシッピー戦役)
 ニューオリンズではナタニエル P.バンクスがバルター(☆☆☆4.-2.-2,2-1-2)に替わって司令官に就任し、ファラガット提督と協力してミシシッピー川を上りバトンルージュを脅かしていた。

12月20日 シャーマンの進撃
 (西部戦域 ヴィックスバーグ戦役)
 グラントはまたW.T.シャーマン(☆☆2.1,4-5-4)に40,000を与え、今やメンフィス方面の海軍部隊を指揮しているデビット D.ポーター少将の支援のもと、ヴィックスバーグに向けて川を下り強襲上陸作戦を企てた。しかしグラント自身の前進はフォレストの南軍騎兵によるテネシー州北西部一帯の襲撃とヴァン・ドーンによってミシシッピー州ホリースプリングにある補給集積所が奪われたことで苦しめられ、撤退を余儀なくされた。

 ウィリアム・ティカムセ・シャーマンは1840年にウエストポイントを卒業、米墨戦争では戦闘に参加せず、53年に軍を辞した。その後はサンフランシスコの銀行員を始めとして様々な事業に手を出すがどれ一つとして成功しなかった。59年にルイジアナ州にある陸軍学校の校長となるが、61年にルイジアナ州が連邦を離脱すると辞職して北軍に参加した。ジョージア州攻略後の無慈悲な焦土作戦は有名であるが、厳しい南部再建計画には反対であった。グラントの大統領就任とともに陸軍司令長官に就任し、グラントの引退まで勤めた。その後は政界入りを進める声も高かったが、頑に断った。

12月25日〜29日 チカソーブラッフ作戦
 (西部戦域 ヴィックスバーグ戦役)
 シャーマン将軍とポーター提督の遠征隊はヤズー川に入り、ヴィックスバーグ北方のチカソーブラッフに突撃を敢行したがペンバートンの熟練兵13,800により失敗に終わった、3日間の作戦の後に(12月27日〜29日)シャーマンは敗北を認め、ヤズー川河口に退いた。北軍の損害1,776に対し南軍の損害は207に過ぎなかった。また、この作戦の支援中に甲鉄艦カイロは触雷により沈没した(12月12日)。このように1862年の終わりにミシシッピー川のヴィックスバーグからバトンルージュまでは依然として南軍の支配下に置かれたままだった。

1862年12月31日〜 ストーンリバー会戦
 (マ−フリースボロの戦い)
 (西部戦域 ケンタッキー戦役)
 38,000を率いる南軍のブラッグと44,000を率いる北軍ローズクランスは行動を起こすように催促されて攻撃を行い、互いに相手の右翼の包囲を企画した。先手を取ったのは南軍で早朝に行われたブラッグの攻撃は目立った成功を収め2個師団を潰走させた。しかし、夜明けから南軍の攻撃を予期していたシェリダンの師団の抵抗は目ざましく、3人の旅団長が全て戦死するほどの激戦に耐えて北軍の崩壊をくい止めた。ブラッグは予備の使用にまごつき、且つ誤って正面突撃を敢行してしまったために戦果の拡大を台無しにしてしまい、ローズクランス(44,000)は中央のトーマス(☆☆3.2,3-5-4)率いる軍団により新しい防衛線を築き上げることができた。その夜は両軍共に戦場で露営し、翌日は有利な態勢を占めることに終始した。

1861年  1863年  1864年  1865年 

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