(YSGA編集版)アメリカ南北戦争日報

1864年


2月14日 メリディアン会戦
 (西部戦域:メリディアン戦役)
 シャーマンは鉄道の中心地であるメリディアンを奪い、状況が許せばさらに東進してアラバマ州まで進出し更にはメキシコ湾岸のモービルまで圧力を掛ける計画を建てていた。北軍の指揮官で 7,000の騎兵を率いていたW.スーイ・スミスはメンフィスからミシシッピー北部を南下し、メリディアンでヴィックスバーグを2月3日に進発していたシャーマン(☆☆☆2.2.2, 4-5-4)指揮する20,000と合流する計画であった。デービス大統領はこの地域の指揮官にレオニダス・ポーク(★★3.-1,2-3-3)を任じたが、彼は平静を失い、ついにはメリディアンを放棄し後退してしまった。このためシャーマンの前進を阻むものはS.D.リー(★★3.1,−)率いる騎兵の一隊のみだった。北軍は目的地のメリディアンを14日に占領し鉄道線の破壊に励んだが、スミスが合流しないために20日にメリディアンを放棄してヴィックスバーグへ戻った。

2月16日 南軍潜水艇、フーサトニック号を撃沈
 (東部戦域:チャールストン港)
 チャールストンにおいてディクソン海尉指揮する南軍の潜水艇ハンレイはスパートーピート(棒に付けた水雷)で北軍の蒸気スループ・フーサトニック号(1,240トン,13門装備)を攻撃して撃沈した。当日は海が穏やかだったため北軍の戦死者は5名のみだった。
 一方のハンレイは恐らくは爆発に巻き込まれたものとみられ全乗員とともに沈没してしまった。

2月20日 オルスティ会戦
 (東部戦域:フロリダ州)
 フロリダ州で南軍のジョセフ・フィネガンは5,200を率いて、北軍のトルーマン・セイモアが指揮する同数の侵攻軍を打ち破った。これは同州で戦われたほとんど唯一の大規模な会戦である。

2月22日 オコロナ会戦
 (西部戦域:メリディアン戦役)
 ミシシッピー州の北部で、フォレスト(★★2.2,1-6-5)は一握りの南軍部隊を率いて奮闘していた。北軍の指揮官で 7,000の騎兵を率いていたW.スーイ・スミスはメンフィスからミシシッピー北部に移動し、メリディアンでシャーマンと2月10日に合流する計画であった。しかしスミスが発ったのは11日であった。これに対する南軍はフォレスト率いるスミスの半分以下の騎兵しかなかったが、木が生い茂った沼地の真ん中に陣地を築き、そこにスミスを誘い込んで交戦し、退却させることに成功した。その後フォレストは追撃に移り、オコロナ近郊で北軍を捕捉して機動戦を一日中繰り広げて敵を打ちのめした。このためシャーマンはメリディアンからの東進を断念した。

2月28日 キルパトリックのリッチモンド襲撃
 (東部戦域)
 キルパトリック率いる 4,500の北軍騎兵がこの日リッチモンド襲撃を開始した。この作戦は3月2日に終了したが成果は得られなかった。
 しかし南部の新聞がこの作戦の目的の一つとして北軍によるデービス大統領暗殺計画を報じたために騒動が起こってしまった。


3月7日 バンクス遠征を開始
 (西部戦域:レッドリヴァー戦役)
 バンクス(☆☆☆3.-2.-2, 2-1-2) 率いるガルフ軍は当初17,000(フランクリン〈−, 4-3-3 〉指揮する第19軍団と第13軍団から抽出された2個師団)で編成されており、レッド河を遡上してテキサス州に攻め入ることを目標としていた。
 3月7日に遠征が開始されたものの激しい降雨と泥濘により主力の行軍開始は遅延してしまったが、南軍が放棄したアレキサンドリアで、ポーター(☆☆2-1)指揮する19隻の砲艦(ミシシッピー河の北軍艦隊の大部分)と合流し、またテネシー軍からスミス指揮する第16軍団他の増援を受けて27,000に増強された。

3月9日 グラント総司令官に就任
 3月8日、戦争が開始されてから始めてグラントはワシントンを訪れ、翌日に合衆国(北軍)陸軍の総司令官に任じられた。

3月21日 モネッツ・フェリー事件
 (西部戦域:レッドリヴァー戦役)
 バンクスの遠征軍に対峙していた西部ルイジアナ地域の南軍部隊は、テイラー(★★3.1,−)指揮する2個歩兵師団を主力とする 7,000に過ぎなかった。 しかもテイラーのは騎兵が不足していたので,彼は北軍の所在をつかむことすら困難であった。
 3月19日に300の騎兵が到着し、南軍の索敵能力は飛躍的に上昇したが、わずか2日後の21日夜に彼らは野営中に包囲されて降伏してしまった。そのため南軍は再び目と耳を失った状態に戻ってしまい、テイラーは後退せざるをえなかった。


4月8日 サビーヌ・クロスロード会戦
 (西部戦域:レッドリヴァー戦役)
 増援を受けて11,000に増強されたテイラーは北軍を迎え撃つことにし、サビーヌ・クロスロードに陣を構えた。テイラーは北軍の前衛を待ち受け、チャーチルの軍団が未だ前線に到着しなかったにもかかわらず16時に攻撃を仕掛けたが、最初に突撃した左翼のモートンの師団の攻撃は失敗しモートン自身も戦死した。しかし右翼のウォーカー師団の攻撃は北軍戦列を突破することに成功した。北軍の前衛の指揮官であるランソムは有効な打開策を打ち出せぬ間に負傷してしまい、北軍の第1線は崩壊してしまった。第2線も両翼を迂回されて持ちこたえられず、北軍の副司令官格であるフランクリンも負傷した。 しかし増援で駆けつけた第19軍団のエモリー師団が奮闘して三番目の戦列を堅持しこの日の戦闘は終わった。北軍の損害は2,200にのぼり、200以上の輸送馬車も捕獲されてしまった。
 南軍の損害は1,000に満たなかった。

4月9日 プリザント・ヒル会戦
 (西部戦域:レッドリヴァー戦役)
 テイラーは主導権を維持しようとし、9日も北軍を追撃した。南軍の攻撃計画は北軍左翼を迂回することであった。しかしチャーチル率いる迂回部隊は中途半端に転回してしまったため北軍の第1線を側面攻撃することには成功したものの、逆に増援で駆けつけたA.J.スミスの北軍に側面を衝かれてしまった。そのため北軍の前列は崩壊の寸前までいったところで南軍は後退せざるをえなかった。北軍の損害は 1,400で、南軍の損害は 1,700だった。
 しかし勝利を得たのにもかかわらず、南軍の強い抵抗に出くわしたバンクスは再編成のためレッド河のポーター艦隊の元まで後退することを決めてしまった。

4月9日 北軍フリゲイト艦ミネソタ号大破
 (東部戦域:バージニア沿岸)
 ニューポートニューズ近くで南軍の水雷艇スクイブが北軍大型蒸気フリゲイトのミネソタ号を夜間攻撃することに成功した。ミネソタ号の損傷は大きくしばらく戦列を離れざるをえなかった。

4月18日 南軍装甲艦アルベマール号、初陣を飾る
 (東部戦域:ノースカロライナ沿岸)
 1863年1月にノースカロライナ州ロアノーク河で起工されたアルベマール号(海峡の名をとって命名、長さ122フィート、幅45フィート、100ポンド砲(ライフル)2門)は、資材不足のため1864年4月1日にようやく進水したが、18日には早くもクーク艦長の指揮のもと機関の故障に悩みながらも出撃した。
 ロアノーク河々口のプリマスは既に北軍に占領されていたが、北軍もこの装甲艦の建造を妨害することは出来ず、一列の杭を河に打ち込むことが精一杯であった。18日に北軍は砲艦マイアミ号(8門装備)とサウスフィールド号(6門装備)を鉄鎖で結び、防材の付近で待ち構えていた。しかしアルベマールは上げ潮を利用して防材を乗り越え、サウスフィールド(前身はフェリーであった)の船体を衝角で3メートルほど切り裂いて撃沈した。残るマイアミは鎖に引き寄せられて計画通りに南軍装甲艦に接舷し100ポンド砲を打ち込んだが装甲は貫通できず、逆にその破片が当たり艦長のフリューゼルが戦死する始末であった。4月20日にプリマスは陥落し、南軍は 1,600の捕虜と25門の砲を獲得した。

4月15日 イーストポート号触雷
 (西部戦域:レッドリヴァー戦役)
 ポーターの遠征艦隊の中で最大の艦であるイーストポート号はその艦体の大きさのため、後方で交通線の哨戒にあたっていたが小型の機雷に触れてしまった。衝撃自体は軽微なものであったが、徐々に浸水が増加し、遂には着底してしまった。

4月19日 バンクス後退を開始
 (西部戦域:レッドリヴァー戦役)
 ただでさえバンクスは補給の問題に悩まされていたが、さらにレッド河の減水で艦隊の支援を得られなくなであろうことと、グラントからスミスの軍団をシャーマンの下に返還するよう指示されたことからバンクスは遠征の中止を決定した。途中の村落をことごとく破壊しながら北軍は後退を続け、南軍の追撃を逃れて辛くも退却することに成功した。

4月22日 南軍装甲艦ニューズ号、座礁する
 (東部戦域:ノースカロライナ沿岸)
 プリマスの占領で調子づいた南軍は引き続いて付近の北軍の最大の拠点であるニューベルンの攻略を計画し、アルベマール号と新たに竣工した装甲艦ニューズ号で共同攻撃を企てた(アルベマールはプリマスから大西洋に出て南下する一方、ニューズは艦名の由来となったニューズ河を下って上流と下流から挟撃する構えであった)。ニューズは4月22日に出撃したもののニューズ河は水位が減じており、半マイル下っただけで砂州に乗り上げてしまった。
 デービス大統領自ら離礁に全力を尽くすよう指示し、南軍水兵も懸命にあらゆる手段を講じたのだが悉く失敗に終わってしまい増水を待つしかなかった。

4月26日 イーストポート号の喪失
 (西部戦域:レッドリヴァー戦役)
 ポーターは南軍の狙撃兵に包囲されている中で、イーストポートを浮揚させることには成功したものの、結局は座礁のため自ら焼却処分せざるをえなかった。ポーターにとって災難はさらに続き、イーストポ−ト支援のため残しておいた砲艦3隻と輸送船2隻は後退途中で急造された南軍の砲台群から縄打ち刑の如く打ちのめされた。輸送船2隻は沈没し、砲艦3隻も手ひどく痛めつけられてしまった。
 バンクスが過早にグラン・エコールを放棄したのが損害を大きなものとしたのである。
 ようやくアレキサンドリアに戻ったポーターを更なる不運が待ち受けていた。砲艦が航行するのには7フィート(約2.1m)の水深が必要なのだが、アレキサンドリアの水深は僅か3フィート4インチしかなかったのである。そのため11隻の艦艇が閉じ込められてしまった。

4月30日 シェナンドゥ峡谷戦役の開幕
 (東部戦域:シェナンドウ戦役)
 ポトマック軍の攻勢に呼応して、北軍はシェナンドゥ峡谷でも攻勢を開始した。峡谷の北方からは、シーゲル(☆3.-2,2-1-2)率いる 8,000が鉄道の中継点であるスタゥントンを目指し、南方からはクロークがほぼ同じ戦力を率いてチャールストンからアレゲニー山脈を越えて峡谷への進入を試みようとしていた。まず4月30日に峡谷内の南軍の目を北に引きつける目的もあってシーゲルが南下を開始した。


5月1日 ポーター艦隊、ダム建設を開始
 (西部戦域:レッドリヴァー戦役)
 窮地に陥ったポーターを救ったのはフランクリンの軍団で従軍していたジョセフ・ベイリー中佐の発案であった。彼は林業に携わっていた経験を生かし、河にダムを作って水位を上げることを提案したのである。常識的には半年以上かかるとみられたが、彼は十分な人員と馬があれば10日で完成させられると保証した。バンクスもこれに同意し、ベイリーに3,000人と 400の馬車を提供し、艦隊が脱出する間はアレキサンドリアを堅持することにした。

5月2日 クローク、シェナンドゥ峡谷へ
 (東部戦域:シェナンドウ戦役)
 クロークは 6,000の歩兵を自身の指揮下に置き、ダブリンステーションとその近辺の鉄道の橋梁を目指した。その一方でアヴェレルに 2,000の騎兵を預け、塩と鉛の原産地(両方とも南軍には貴重品であった)を占拠すべくダブリンの西方に派遣した。

5月4日 ポトマック軍、南下を開始
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 ポトマック軍とノースヴァージニア軍は、ラピダン河を挟んで2、3マイル離れて冬営していたが、グラント(☆☆☆☆2.2.2, 5-5-4)はそのラピダン河を渡河してリー(★★★2.3.1, 4-5-5)の右翼を迂回し、南軍を塹壕からおびき出して野戦を挑むことを計画していた。これに対しリーは前年にチャンセラーズビルでフッカー(☆☆☆3.-1.0,2-5-4) を罠に掛けたことを念頭に、渡河の際には攻撃を行わずに北軍がウィルダネスを行軍中に側面を衝くことにした。
 ウィルダネスの密集した森林では大部隊の行軍は厳しい制約を受けるため北軍の数的優勢が相殺され、さらにその圧倒的な砲兵も一部しか有効に使えないからであった。
 グラントはバーンサイド(☆☆☆3.-1.-1, 3-3-3)の第9軍団を鉄道線の守備のため、後方のウォーレントンに置き、右手にはウォーレン(−,3-4-3)の第5軍団を、左手にハンコック(☆☆3.2, 3-5-3)の第2軍団を平行に前進させ、南軍の予想される右翼にはセジウィック(☆☆3.1, 4-4-3)の第6軍団を続行させた。
 そしてその後には師団ごとに色分けされ、旅団の番号が記された 4,000輌の補給馬車が続いていた。 しかしリーも北軍の進撃開始を察知しており、この日の正午には行軍を開始していた。

5月4日 南軍半潜水艇ダビッド再出撃
 (東部戦域:チャールストン港)
 トーム指揮するダヴィッド艇は北軍のメンフィスを襲撃したが、スパートーピードで2回攻撃したのにもかかわらず不発のため取り逃してしまった。
 ダヴィッド艇はその後、北軍の大型蒸気フリゲイトのワバッシュ号を攻撃したが荒天のため失敗に終わった。

5月5日 ウィルダネス会戦 第1日目
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 リーはA.P.ヒル(★★2.1, 3-4-4)と、ユ−エル(★★3.0, 3-4-3)の2個軍団を平行に西進させた。南軍は、最近テネシー州から戻ってきたばかりのロングストリート(★★3.2, 5-4-4)の軍団が到着するまで、全面的な交戦を避けようとしたが、右翼のユーエルの軍団が北軍に近づきすぎたために過早に戦闘が開始され約40,000の南軍に対して70,000以上の北軍と激突する羽目になった。しかし南軍はウィルダネスの地形に慣れており、そして北軍の兵力の優位は戦火で煙に満ちた森林では機動性を失わせるばかりであった。戦闘は南軍のユーエルの軍団と北軍のウォーレンの軍団の間で開始されたが、見通しのきかない戦場では方向感覚を失った部隊間で同士討ちが多発した。やがてヒルの軍団も戦闘に加わるようになると、チャンセラーズビルまで行軍していたハンコックの軍団も呼び戻された。戦闘は軍団や師団単位では統制することができず、旅団や連隊規模で各個に繰り広げられた。士官は隣接する部隊が前進しているのか、後退しているのかは目で確かめることができず、音で判断する他なかった。
 南への進軍を続けるのに必要な2つの交差点をめぐって戦闘は激化したが、夕刻には北軍がそこを占拠していた。リーは翌朝の戦闘に間に合うよう、ロングストリートに夜間行軍するよう命じた。

5月5日 ジェームス軍リッチモンド南東に上陸
 (東部戦域 ジェームス軍)
 バトラー(☆☆☆4.-2.-2, 2-1-2)指揮する北軍ジェームス軍は、ギルモアが軍団長を勤める第10軍団と、W.F.スミス(−,2-3-3) の第18軍団の2個軍団約36,000で構成されており,南軍の心臓部を目標としていた。しかしグラントは直接ピータースバーグに進撃できる地点へ上陸させるように指示したのだが、バトラーはこれを守らず、シティ・ポイントは1個師団を配したのみで主力は対岸のバミューダ・ハンドレッドに上陸させてしまった(バミューダ・ハンドレッドは2つの河に挟まれているため機動の余地が狭いという欠点があった)。
 この時、首都とピータースバーグの防御には、5,000の兵の他は急きょ動員された民兵しかおらず、しかも指揮官に任命されたボールガール(☆☆☆3.0.1, 4-3-4)はチャールストンから着任する途中であったのだが、バトラーは全力で攻撃することを怠たり決定的な好機を逃してしまった。

5月5日 シャーマン、チャタヌーガを進発
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 シャーマンの方面軍はトーマス(☆☆☆3.2.2,4-5-4)率いるカンバーランド軍(61,000強)、ジェームスB.マクファーソン(☆☆☆3.0.1,−)率いるテネシー軍(24,500)、ジョン・M.スコフィールド(☆☆3.1,−)率いるオハイオ軍(13,500)の3軍を擁していた。北軍の前面に南軍はJ.ジョンストン(★★★3.1.1, 3-4-3)の50,000が展開しており、後方ではミシシッピー河からアパラチア山脈に至る広大な地域は、モーガン(★★2.0,−)とナタニエル・B.フォレスト(★★2.2, 2-6-5)の騎兵が駆け回っており、北軍の後方連絡線を妨害していた。シャーマンの侵攻路にあたる地形はヴァージニアと異なり山岳と峡谷が縦横に走っており防御側の助けとなっていた。

5月5日 北軍艦隊、アルベマール号を攻撃
 (東部戦域:ノースカロライナ沿岸)
 アルベマール号と対峙する北軍艦隊は浅い水深のため装甲艦を投入することが出来ず、大量の砲艦をもって対抗することとした。4隻の大型砲艦と3隻の小型砲艦を擁するメランクトン・スミス大佐指揮の北軍艦隊は5日にプリマスを出撃したアルベマールの戦隊と遭遇した。戦闘はたちまち混戦となり、北軍砲艦ササッカスはアルベマールを衝角で攻撃した。その後、両艦は極至近距離で打ちあったが、ササッカスは半身不随となり下流に流されていった。 その後も激戦は続き、北軍はスパートーピード攻撃を試みたり果ては網をスクリューに絡ませようとまでしたがいずれも失敗に終わった。アルベマールの砲撃は手厳しく北軍砲艦ワイアラッシングも沈没寸前まで追い詰められた。日が暮れるにつれ戦闘は終了したが、アルベマールは煙突がほとんど破壊され、2門の砲のうち1門は使用不能となり作戦目標のニューベルンにたどり着くことは不可能となった。

5月6日 ウィルダネス会戦 第1日目
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 両軍とも夜明けに攻撃を開始することを予定していたが、成功を収めたのは北軍であった。ハンコックの軍団に対峙していた南軍のヒース(−,2-4-4)とウィルコックス(−,3-3-4)の師団は前日の戦闘で疲れ果てており、戦列は隙間も生じるほど乱れていた。北軍の攻撃により南軍は森の中を1マイル後退したが、カ−シャウ(−,3-5-4)の師団を先鋒とするロングストリートの軍団が到着しはじめ北軍の攻撃をくい止め、やがて攻勢発起点まで押し戻して主導権を南軍へと奪い取った。
 この時、ある南軍の旅団長が地図に記されていない未完成の鉄道の路盤が北軍の左翼を通っているのを知っていたため、彼はこれを利用して北軍の側翼を攻撃することを提案した。
 ロングストリートは4個旅団をこの攻撃に投じ、正午少し前に彼らは藪から飛び出し北軍ハンコックの軍団を左側面と後方から奇襲した。北軍第2軍団の左翼はこの攻撃で士気を失い、パニック寸前に追い込まれた。南軍にとり勝利は目前と思われ、ロングストリートは正面からの攻撃を自ら先導したが、この時に迂回部隊と同士討ちが起こりジェンキンス旅団長は戦死し、一緒にいたロングストリートも肩に銃弾を受けて重傷を負い、5ケ月間も戦列を離れることになった。このためロングストリートの軍団(後任の軍団長はアンダーソン〈−,3-4-4〉)は麻痺してしまい、攻勢も途絶えざるを得なかった。
 リーは戦線をきちんと整理し午後遅く攻撃を再開し、ヒルの軍団の支援を受けたロングストリートの軍団と、バーンサイドの軍団の支援を受けたハンコックの軍団との間で両軍共に突撃が繰り広げられた。
 この頃、南軍の左翼では旅団長の一人であるジョン・B.ゴードン(★3.1,3-4-3 )が北軍の右翼もまた暴露されているのを発見した。彼は上官に攻撃を提案し、遂にはリーにまで掛け合って承認を得て、夕刻に突撃を敢行し成功を収めた。この結果、北軍の側面を1マイル後退させて、二人の将軍を捕らえた。この会戦で北軍は両翼を手ひどく痛めつけられしまい、南軍の損害を少なくとも 7,000を上回る17,500の損害を出していた。

5月6日 北軍砲艦コモドア・ジョーンズ沈没
 (東部戦域:ジェームス軍)
 ドリューワーズ・ブラッフでバンクスの軍を支援していた砲艦コモドア ジョーンズは 900キロもの炸薬を持つ管制機雷の爆発をまともに受けて爆沈した(爆発の威力は大きく 542トンの船体が吹き上げられ、スクリューが空中で回っているのが眺められる程であった)。しかし機雷の管制所はすぐに発見され、残りの管制機雷は無力化された。

5月7日 グラント、前進を継続
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 以前のワシントン正面の指揮官だったならば、このような手ひどい損害を受けたならば手近な河の背後に逃げ込むであろうし、事実ポトマック軍のあらゆる階級の者は今回もこのパタ−ンの繰り返しになると予想していた。しかしグラントは、リンカーンに“何が起きようとも引き返すことはない”と請け負った通り退却するつもりはなかった。
 前線で小競り合いが起こっている間に補給馬車と予備砲兵は後方へ移動して兵士に後退が間近に迫っているとの印象を与えたが、グラントは夜にリーの右翼を迂回して12マイル南方にあるスポットシルバニアを占領しようとしていたのである。もしここの十字路を占領することに成功すれば、ポトマック軍は南軍よりもリッチモンドに近づくことになりリーに交戦か退却を強いることができるのである。
 日没後に北軍師団は一つまた一つと出発して南に転じた、兵士の士気は会戦の大損害にもかかわらず旺盛であった。ポトマック軍はヴァージニア州での戦役で開戦以来始めて最初の大規模な開戦の後で攻勢を維持したのである。

5月7日 シャーマン、南軍を迂回する
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 ジョンストンはデービス大統領から攻勢に出るよう求められていたが応じず、チャタヌーガから25マイル南のロッキーフェイス山地に南北に広く展開して北軍を待ち構えていた。シャーマンはこの堅陣に挑むことはせずにトーマスとスコフィールドで南軍を拘束させておき、その間に右翼のマクファーソンを大きく迂回させて南軍後方15マイルの鉄道の中継点であるレサカを攻略させようとした。しかしマクファーソンはレサカが南軍部隊により防備を固められていることを知ると後方に不安を覚え、峠まで戻って陣地を築いてしまった。その後、ジョンストンは11日にフッドの軍団を、そして翌日にはテネシー軍全体をレサカに退けた。シャーマンは南軍を殲滅する好機を逃したのである。

5月8日 南軍、スポットシルバニアを確保
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 ウォーレンの第5軍団を先頭にグラントの前進は続いたが、南軍騎兵が効果的に進撃を妨害したために、南軍は辛うじてスポットシルバニアの防御に間に合った。南軍の移動を妨たげるべく北軍騎兵も配置されていたのだが、命令の錯誤のため渡河点の封鎖が解除されてしまい、そこを独断で徹夜の強行軍を敢行したアンダーソンの軍団が踏破したのである。
 午後に北軍の2個軍団は攻撃を仕掛けたが、既に塹壕にこもった南軍の2個軍団の抵抗にあい撃退されてしまい、南部への道が遮断されていることを知った。翌、9日は目立った進展は見られずに塹壕の整備に力が注がれたが、北軍第6軍団長のセジウィックは前線視察中に侮っていた狙撃兵の銃弾を受けて戦死した。

5月9日 北軍騎兵、リッチモンド襲撃を開始
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 新たにポトマック軍の騎兵隊の司令官に就任したシェリダン(☆☆2-1, 3-4-5)は3個師団(メリット、グレッグ、ウィルソン)からなる12,000の騎兵を北ヴァージニア軍と後方との連絡線を断つべくリッチモンド周辺への襲撃に送りだした。

5月9日 クラウドマウンテン会戦
 (東部戦域:シェナンドゥ戦役)
 ダブリンを目指して東進していたクロークは目的地を目前にして 3,000の南軍が待ち構えているのに遭遇した。しかし南軍兵士は民兵や守備隊が主体であり、数に勝る北軍に圧倒されてしまい、指揮官のジェンキンスは負傷して捕虜となった。クロークは余勢をかってダブリンを占領し、翌日には目的の橋梁を破壊した。予定ではクロークはここから進撃を継続してスタゥントンでシーゲルと合流することになっていたが、彼は北上して峡谷から引き上げてしまった。後の報告書では南軍の通信局でグラントが敗走したという電文を見て、南軍の増援により背後を断たれるのを恐れて後退したと述べている。

5月9日 ポーター艦隊、脱出成功
 (西部戦域:レッドリヴァー戦役)
 作業開始から8日間という驚異的な速さでダムの水位は小型の艦艇を通過可能にするまで上昇した。この日は4隻がダムを通過するのに成功した。
 その後も脱出は順調に続けられ、13日には全ての艦艇がアレキサンドリアを後にした。遠征は失敗に終わり、北軍は 5,400の兵士と9隻の艦船、200の輸送馬車を失った。南軍の損害も 4,300に昇った。

5月10日 スポットシルバニア会戦 第1日
 (東部戦域 ウィルダネス戦役)
 グラントはハンコックの軍団に南軍左翼を迂回させようとしたが果たせず、正面攻撃を強行した。南軍が側面攻撃に気を取られて中央部が弱体化しているのを期待してであったが、リーは右翼から中央へ増援を回しており(南軍右翼に対峙していた北軍バーンサイドの軍団は好機が訪れた場合に攻撃するよう命令を受けていた。)弱点は見当たらず突撃は2回とも撃退されてしまった。しかし夕刻にはエモリー・アプトンという強烈な個性を持った一人の北軍大佐が自身の塹壕突破戦術を試し、4層の塹壕線を突破して1,000人に達するほどの捕虜を得た。
 ここでリッチモンドへの道が開けたかに思えたが、後続の部隊は到着せず、逆に南軍の反撃を受けて突撃部隊は4分の1の損害を受けて暗闇のなか退却せざるを得なかった。バーンサイドは結局、積極的な攻撃を仕掛けなかったが、麾下の師団長の一人が狙撃されて戦死した。

5月10日 クロケッツ・カーブ会戦
 (東部戦域:シェナンドゥ戦役)
 アヴェレルは塩の生産地のサルトヴィルを目指したが、そこにモーガンの司令部がおかれているのを知ると進路を鉛の産地であるワイズヴィルに転じた。しかしモーガンは先回りしており、ワイズヴィルの4マイル西方のクロケッツ・カーブで北軍騎兵を襲撃した。モーガンの騎兵は1,000ほどでしかなかったのだが、当惑した北軍は自軍が数的優勢を有していることを理解することすらできなかった。
 100余名の損害を受けた北軍は補給不足に加えて大雨にあう始末でクロークの後を追ってほうほうのていで峡谷を去っていった。

5月11日 イェロー・ターヴェン会戦
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 北軍騎兵の後方襲撃は20マイルに及ぶ鉄道や三週間分の糧食を含む多量の物資を破壊した。これに対しスチュアート(★★2.1, 2-5-5)は4,500しか手持ちの騎兵はなかったが、北軍騎兵を阻止するため南下し、ゴードンにシェリダンを追尾させる一方で自身はリッチモンドに北方6マイルにあるイェロー・ターヴェンに抵抗線を引いた。このときリッチモンドには地元の守備隊が 4,000いるだけで、ブラッグ(★★★3,-1,0,4-1-5)が要求した増援の3個旅団が到着するまでの時間が必要だったのだ。この日の午後4時に戦闘は開始され、乱戦の中でスチュアートは致命傷を受けてしまい、北軍騎兵を阻止することは適わなかった。シェリダンはリッチモンドに突入することなく脇を通り抜け、5月14日にジェームス軍と合流を果たした。

5月12日 スポットシルバニア会戦 第3日
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 アプトン(グラントにより直ちに准将へ昇格した)の戦果に感銘を受けて、グラントは軍団単位で同じ戦術を実行することを試みようとした。冷たい雨のなか、北軍の補給馬車が後方に移動したとの報告を受けたリーはグラントが再び迂回移動を計画しているものと考えて、これに対抗するために22門の砲をその形状から“ラバの蹄鉄(Mule Shoe)”と呼ばれる突出部の前線から引き抜いた。しかし翌12日の未明にハンコックの軍団が殺到したのは、まさにこの砲が取り去られた後の塹壕であった。この突撃で南軍のジョンソン(−,1-3-4)の師団が師団長ごと捕虜となり、戦線は二つに切り離されたかに見えた。ここで南軍はリーが自ら予備の師団を先導して反撃に乗り出し北軍を攻勢発起点まで追い返した。12日の戦いはハンコックの軍団だけに留まらず北軍の他の3個軍団も突出部を三方から攻撃し、雨の中で終日激戦を繰り広げた。通常、白兵戦は片方が士気を失って敗走し僅かな時間で決着がつくものだが、この日に限っては両軍共に一歩も退かなかったのである。深夜まで戦いは18時間も継続し、この激戦地は後に“スポットシルバニアの血まみれの鉤(Bloody Angle)”と呼ばれた。
 この会戦で北軍はまたもや18,000の損害を受けた。南軍は損害に関する公式記録は不明であるが、ウィルダネスからスポットシルバニアに至まで約18,000の損害を受けたものと思われる。しかしリーにとり、これにも増して手痛かったのは旅団長以上の指揮官のうち3分の1を失ったことであった。

5月12日 バトラー、進軍を開始
 (東部戦域:ジェームス軍)
 バトラーは地理的な制約からピータースバーグへの攻撃をあきらめて、リッチモンドに向かうことを余儀なくされた。しかし、ボールガールは15,000を率いて防御態勢を整えつつあった。

5月14日 レサカ会戦
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 3日間に渡ってシャーマン麾下の全軍はレサカに引かれた南軍陣地に探りをいれたが弱点を見いだすことはできず、両軍共に5,000程の損害を出しただけであった。そこで北軍は再び右翼のマクファ−ソンを南方に迂回させ、南軍の生命線である鉄道線を脅かすことにした。ジョンストンは巧みに交戦を避けて後退し、25マイル後方のカスビルに下がり、こうして北軍ははアトランタへの道程の半分を踏破した。南軍は後退途中で鉄道線を破壊していったが、北軍は即座に補修していったので補給が途絶えることはなかった。

5月15日 ニューマーケット会戦
 (東部戦域:シェナンドゥ戦役)
 シーゲルの前面に南軍は 1,500の騎兵しか配置されていなかったが、インボーデンに率いられた南軍騎兵は北軍の前進を妨害し、とりわけ5月11日には奇襲により北軍騎兵に464の損害を与えてさえいた。
 南軍は14日にのブレッキンリッジ(−,2-2-2)が2個旅団を率いて増援に駆けつけた。当初彼は防御を予定していたが、15日に北軍が渡河を試みているのを見ると攻撃を決意した。南軍は歩兵2個旅団を攻撃の主力とし、インボーデンの騎兵とヴァージニア軍事学校の生徒 247名を予備としていた。南軍の歩兵が前進すると、シーゲルは主力を半マイルほど後退させて、その右翼にある小さな丘に6門の砲を配置し、突撃する南軍に縦射を浴びせられるようにした。ブレッキンリッジはこの脅威に対し、騎兵と15歳から17歳の軍事学校の生徒にこの砲の奪取を命じた。軍事学校の生徒は20%の死傷者を出しながらも敢闘し、シーゲルが命令を母国語であるドイツ語で下したことから北軍の対応は遅れ、学生等による突撃は成功した。南軍の2個旅団が再び前進するとシーゲルは後退を決意し、北軍に 831の損害を受けて後退した(南軍の損害は 577であった)。グラントとハレックは、シーゲルは後退しか考えていないとみなしてリンカーンに彼の解任をうながした。

5月16日 ドリュウリーズ・ブラッフ会戦
 (東部戦域 ジェームス軍)
 ボールガールはリッチモンドの外郭陣地まで進撃してきたジェームス軍の脅威を取り除くべく攻勢に転じた。霧の中で早朝に開始された戦闘は混乱を極めたが、包囲を恐れたバトラーはバミューダ・ハンドレッドへ後退し、グラントが“瓶の中に閉じ込められコルクで栓を閉められたようだ”と評したように二度と攻勢にしようとはしなかった。ジェームス軍の損害は約 4,500であり、南軍の損害は 2,500であった。

5月18日 スポットシルバニアへ北軍最後の突撃
 (東部戦域 ウィルダネス戦役)
 ハンコックとライト(−,3-3-3)の軍団は、失地を回復するために南軍の突出部へ攻撃を行ったが、ユーエルの軍団( 6,000まで減少していた)の30門の砲火の前に小銃の射程内に入る前に撃退された。

5月19日 グラント、南下を決意
 (東部戦域 ウィルダネス戦役)
 グラントはポトマック軍の左翼の部隊に南方への行軍を再開するよう命令した。また彼は以後の補給源はフレデリックスバーグからラパハノック河のポートロイヤルに変更することにした。リーは北軍の移動再開を知ると、ユーエル(★★3.0, 3-4-3)の軍団で威力偵察を仕掛けた。ユーエルは北軍の右翼を迂回したが、ハンコックは2個師団でこれを阻止した。この攻撃で南軍は 1,000近い損害を出して撃退されたが、ウォーレンの軍団が退路を断つことに失敗したために壊滅は免れた。また北軍も最初に交戦した師団が実戦を経験するのが初めてだったために 1,500の損害を出してしまった。この為に北軍の移動は一日遅れてしまった。

5月19日 カスビル会戦
 (西部戦域 アトランタ戦役)
 追撃中の北軍が12マイルに散らばってばらばらに進軍しているのを見て、ジョンストンは反撃の好機と判断した。南軍を右翼に集中して、他の北軍から7マイル以上隔絶しているスコフィールド指揮下のオハイオ軍を撃破しようとしたのである。しかし皮肉なことに最も攻撃的であるはずのフッド(★★2.1, 1-5-1)が、側面に敵が進出してきたとの報告を受けて攻撃を中止してしまい(実際は単なる騎兵の分遣隊に過ぎなかったのだが)、南軍はまた防御態勢に戻ってしまった。結局南軍は10マイル後方のアラト−ナ峡谷に下がることとなった。

5月21日 ポトマック軍、進撃を再開
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 グラントはハンコックとウォーレンの軍団を南軍の右翼を迂回しながら南下させる一方で、ライトとバーンサイドの軍団をスポットシルバニアに留めておいた。グラントはポトマック軍が二分された好機に南軍が片方に攻撃を集中させないのを不思議に思ったが、リーは北ヴァージニア軍が攻勢に出る余力は既に無くなったと判断していたのである。代わりに彼は内線の利を生かし、北軍とリッチモンドの間に自身の軍を割り込ませるように機動させた。

5月23日 南軍ハノーバー・ジャンクション周辺に集結
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 アンダーソンの軍団が、またもや競争に打ち勝ち、ノースアナ河下流の2つの鉄道が合流する、ハノーバー・ジャンクションに南軍が防御拠点を築くことに成功した。ここでリーはリッチモンドからピケット(−,3-3-2)の師団を、そしてシェナンドゥ峡谷から2個旅団を増援で受け取り、ウィルダネス会戦とスポットシルバァニア会戦で失った損害のおよそ半分を回復させることができた。
 これに対し北軍は、新兵とワシントンの要塞砲隊から人員を抽出して、20,000人を補充したが、兵士の練度の差は明らかな上に、兵役期限が切れた者の除隊がまもなく始まるため、北軍の人的資源の優位はこの戦役では生かせなかった。さらに火力の上でもグラントは連絡線が延びるにつれて多数の砲を後方へ戻したため北軍が当初持っていた優位は失われてしまった。
 南軍の左翼では北軍ウォーレンの軍団がこの日の午後に浅瀬を渡り、A.P.ヒルの配下のウィルコックス(−,3-3-4)率いる師団と激烈ではあるが決着の着かない戦闘を繰り広げた。
 一方、南軍右翼ではハンコックの軍団が、南軍の分遣隊を追い払いノースアナ河の渡河点を確保した。

5月24日 グラント手詰まりに
 (東部戦域ウィルダネス戦役)
 南軍の布陣は、左からヒル、アンダーソン、ユーエルの順に各軍団を配置していたが、丁度ヒルとアンダーソンの境界線がノースアナ河の屈曲部と接する布陣となっていた。このため北軍の両翼を行き来するには河を二度渡らなければならず、予備を適時に投入することは困難であった。これに対しリーは内線の利を有しているのみならず、左翼は河に側面を保護されていたのである。北軍は中央のバーンサイドの軍団で南軍をノースアナ河から引き離そうとしたがマホーン(−,2-3-3)の師団の抵抗に逢い失敗した。

5月25日 ニューマーケット会戦1日目
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 シャーマンは、ジョンストンが待ち構えているアラトーナ峡谷に向かうことはせず、準備を整えると20日分の糧食を携えて鉄道線を離れて南軍左翼を迂回した。北軍の目標はジョンストンの後方から20マイル離れたダラスにある鉄道分岐点であった。しかし南軍の騎兵はぎりぎりでこの移動を察知し、北軍が到着する前に陣地を築くことができた。
 25日、フッカー(☆☆☆3.-1.0,2-5-4)指揮する北軍第20軍団は、南軍の抵抗は軽微なものと見て突進したが南軍ステワート(−,4-4-4)の師団の迎撃にあい、ほぼ一方的に 1,600の損害を出して撃退されてしまった。

5月27日 ニューマーケット会戦3日目
 (西部戦域 アトランタ戦役)
 26日は塹壕に籠もった両軍の間で一日中小競り合いが各地で活発に戦われた。翌日、北軍は中央にトーマスを置き、その左翼にスコフィールド、右翼にマクファーソンを配した。シャーマンはハワード(☆☆☆3.0.-1,3-3-3)の第4軍団に南軍の右翼へ突撃を命じたが、そこはテネシー軍の将軍のなかで最優秀の1人であるクレバーン(★3.2, 2-6-4)の師団が守っており、北軍は1,500 以上の損害を受けたが、南軍の損害は500 以下に過ぎなかった。攻撃の失敗を見たシャーマンは鉄道線を再び確保する事をもくろみマクファーソンを右翼から左翼へ移した。
 ジョンストンは北軍のこの浸透に抗しきれないと判断し、要衝のアラトーナ峡谷を放棄した。


6月2日 グラント、コールドハーバーへ
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 グラントは補給源をパムンキー河のホワイトハウスランディングへ移し、またもや南軍の右側面を迂回した。しかしこれ以上の迂回はチカホミニー河とジェームス河とに挟まれた機動の余地の無い場所に土地にポトマック軍を追い込む(62年のマクレランがそうであったように)ことになり、またリーにとっては迂回されたとしても整備されたリッチモンド防衛線に立てこもりさえすればよいだけのことであった。加えて北軍は7月に1ダースもの連隊が除隊を迎えることになるのだ。グラントはこれまでの消耗戦を続けるつもりはなかった。なにしろウィルダネス戦役が始まって以来の南軍の損害1に対して北軍2という損耗率はこの年の大統領選でリンカーンが戦争の継続を挙げて再選を目指すためには受け入れられるものではなかった。彼は北軍の数と火力の優位を生かすべく、南軍を平地での野戦に引き込むことを望んでいた。

6月3日 コールドハーバー会戦
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 グラントはノースヴァージニア軍が自身の軍と同様に疲れ果てていて空腹であることを知っていた。そして南軍の士気がぎりぎりの線まで落ち込んでおり、それとは逆に北軍の士気は昂揚していると信じていた。北軍は左翼にある3個軍団(ハンコック、ライト、スミス)を正面攻撃に投入し、右翼の2個軍団(ウォーレン、バーンサイド)はその方面の南軍の拘束と戦果拡大の為の予備とした。夜明けとともにジグザグに掘られた塹壕線に対する北軍の攻撃は開始され、ハンコックの軍団ではバーローの師団が南軍の第一線を突破することに成功した。しかし後続は無く、南軍の反撃で 2,500の損害を出し撃退されてしまった。グラントにとってさらに悪いことにはこの日、攻撃に成功した箇所はここだけであったことである。即ち他の場所では突撃は最初の塹壕線にたどり着く前にことごとく粉砕されてしまった。この日の午後早くグラントは敗北を認め攻撃を中止したが、北軍の損害は 7,000に昇ったのに対して南軍の損害は 1,500に満たなかった。

6月10日 ブライス・クロスロード会戦
 (西部戦域:ミシシッピー州)
 6月上旬に南軍のフォレストは 2,000の騎兵を率いて北軍のアトランタ進撃を妨害するためにナッシュビルとチャタヌーガ間の鉄道線を切断すべくテネシー州中央部に侵攻を開始するところであった。シャーマンはこれを予期してフォレストを捕捉殲滅する命令をスタージスに発し、騎兵と歩兵を合わせて 5,400を与えた。北軍は7月1日にメンフィスを発したが、フォレストはこの北軍の動きを知ると引き返しブライスクロスロードで迎え撃った。会戦では両軍とも増援を得ていたが、北軍が2倍近い数的優勢を維持していた。しかしフォレストは地の利を生かして大胆な機動を実行し北軍を包囲して潰走させた。北軍の損害は 2,400に昇り(その内 1,600が捕虜になった)砲の大部分と 250台の馬車を失ったが、南軍の損害は 500に過ぎなかった。

6月11日 トレヴィリアン・ステーション会戦
 (東部戦域)
 グラントは断固とした決意を持って進撃を再開し、ジェームス河を渡る準備として、再びリーの右翼を迂回した。また彼は南軍の目をジェームス河からそらすための陽動作戦としてシェリダンの騎兵を西方に派遣し、シェナンドウ峡谷をスタゥントンに向かわせた。シェリダンはそこで老将軍のデビット・ハンター(−,2-3-2)の部隊と合流を果たし、南東へ引き返しポトマック軍のもとへ急いだ。リーはこの脅威に対してハンプトン指揮する2個騎兵師団 5,000にシェリダンの後を追わせ、また別にハンターを引き止めておくためにアーリーの軍団を峡谷に向かわせた。両軍の騎兵はトレヴィリアン・ステーションで遭遇した。両軍共に損害率が20%を越すというこの戦争中で最も激しい騎兵戦闘の一つが戦われ、シェリダンはハンターとの合流を諦めた。

6月13日 北軍ジェームス河渡河
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 ウォーレンの第5軍団とウィルソンの騎兵があたかもリッチモンドを攻撃するがのように陽動している間に、ポトマック軍は、コールドハーバーからジェームス河へと南下した。スミスの第18軍団は海上移動で先行したが、主力は渡河を敢行することとなった。ハンコックの軍団はボートで対岸へ渡り、残りは工兵が 2,100フィートというこれまでで最大規模の舟橋を8時間で架橋するという偉業を成し遂げて翌14日には渡河を終えてしまった。

6月14日 ポーク将軍、壮絶死
 (西部戦域 アトランタ戦役)
 ニューマーケット会戦以後、ほぼ絶え間なく降る雨に悩まされながら北軍は少しずつながら鉄道線のある東に進んでいった。シャーマンはブレア率いる第17軍団の増援を受けて、後方の守備隊を差し引いても100,000の戦力を有していた。14日にジョンストン、ハーディ(★★3.1, 3-5-4)、ポーク(★★3.-1,2-3-3)の3人がパイン・マウンテンに集まっていたところ、突然に北軍の砲撃を受けた。ジョンストンとハーディは素早く稜線の背後に逃れたが、ポークだけは手を背中に組んで悠然と歩いていたところ3発目の砲丸が直撃し、木端微塵になってしまった。彼の後任にはステワートが就任し、ジョンストンは防衛線をケネソー・マウンテンに退けることにした。

6月15日 ピータースバーグ会戦
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 グラントはヴィックスバーグ戦役と同じ手法でリーが気付く前にリッチモンドの後方にあるピータースバーグを占領しようとした。ボールガールは主力をバミューダハンドレッドに展開していたため、その時に同市は寄せ集めの 2,500程で守備されていたに過ぎなかった。グラントはスミスの第18軍団(コールドハーバー会戦のためバトラーから借用していた)を占領のため先行させたが、南軍の塹壕線を見たスミスは先のコールド・ハーバーでの惨劇のためか外郭陣地を占領したのみで総攻撃をためらった。このためボールガールは15日の夜に2個師団を呼び戻し防御体制を整えることができた。16日にはポトマック軍の残りも到着し北軍は48,000で攻囲を進めたが突破は果たせなかった。

6月17日 南軍、ピータースバーグに集結
 (東部戦域:ウィルダネス戦役)
 北軍がジェームス河を渡河した後、リーは敵の行方を見失っていたが、ここで始めてグラントの意図を把握したのであった。この日も北軍はピータースバーグへの攻撃を続行したが統制がとれずにボールガールの右翼を突破する機会を失い、南軍を市の外郭へ押し込めたに留まった。
 翌18日にグラントは70,000をもって夜明けとともに突撃を開始したが、塹壕は空であり、次の塹壕線を攻撃する準備を整えた時には、リーの主力およそ40,000がそこで待ち構えていた。そしてコールドハーバーの恐怖は全ての北軍に浸透していたため軍団司令官の反応は鈍く、隣の同僚が突撃するのをじっと待つ有り様であり積極的な突進は結局起こらずじまいであった。この3日間で北軍は 8,150そして南軍は 4,750の損害を受けた。ウィルダネス会戦から7週間に渡る激烈な機動戦はここでひと区切りを迎えたのではあるが、この戦役で北軍の損害は65,000に昇った。この数字はそれ以前の3年間のポトマック軍の損害の3/5に相当する。

6月18日 ハンター、シェナンドゥ峡谷を撤退
 (東部戦域:シェナンドゥ戦役)
 アーリー(★★2.0, 2-4-3)は17日にシェナンドゥ峡谷に入るとリンチバーグ近郊で何回か北軍と小戦闘を交えていた。リーはこれを後方に対する最も深刻な脅威をみなし、10,000からなるアーリーの軍団を派遣した。南軍の到着に脅威を受けたハンターは弾薬が欠乏していたこともあってゲリラに脅かされることのないようアレゲニー山地を越えて後退した。このためワシントンへの街道であるシェナンドゥ峡谷はアーリーの前にがら空きで開放されてしまった。ハンターは戦争の残りの期間中をこの後退の決断を正当化することに費やしたが、すぐに彼は名声とともに指揮権をも失ってしまった。

6月19日 シェルブール沖海戦
 (大西洋:アラバマ号の最後)
 南軍の通商破壊艦アラバマ号は、ブラジル沖で、69隻目の商船を捕獲した後にヨーロッパに向かい、6月11日にフランス(この時点で最も南部に友好的なヨーロッパ国家)のシェルブールに寄港した。
 しかし同港にある唯一の乾ドックは国有でしかもこれを交戦国に使用させることを認めることができるのは皇帝だけであり、不幸にも彼はは休暇中で不在であった。アラバマの到着はすぐに連邦の公使の知るところとなり、ちょうどその時、オランダにいたキアサージを急行させた。アラバマ艦長のセメスは北軍の挑戦に応じ(終戦まで封鎖されることを恐れたため)19日に大勢の市民の歓声を受けて出撃した。戦闘は約1,650メートルの距離でアラバマが100ポンド砲を放ったことで始まり、その後2隻は接近しながら輪を描くように回頭しつつ砲撃を交わした。
 アラバマは健闘したものの折角キアサージの艦尾に命中した100ポンド砲弾が火薬の劣化のため炸裂せず(もし炸裂していれば海戦の結果に大きな影響を与えたであろう)、キアサージの火力の優位、鎖による船体防御、そして火薬の高品質が威力を発揮しつつあった。戦闘開始から65分後でアラバマは旗を下ろし、やがて沈み始めた。
 アラバマは26人が戦死し21人が負傷したが、キアサージの死傷は3人に過ぎなかった。

6月21日 鉄道線を巡る交戦
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲戦)
 ピータースバーグの攻略に失敗するとグラントはリーの右翼から後方に伸びている2つの鉄道線に目を付けた。南軍を補給源から孤立させるため、攻囲戦を漸進的に進めようとする前に、バーニィー(−,2-3-3、ハンコックは以前の傷が悪化したために療養中)とライトの2個軍団を派遣した。これに対しリーはA.P.ヒルを防御から引き抜き、迎撃にあてた。ヒルは北軍が森林によって隙間ができていたのに付け込み、ライトの3個師団を1個師団で押さえ込んでいる間にバーニーの軍団を2個師団で攻撃した。北軍は撃退され、1,700の損害を出してしまった。この2個軍団の迂回にはウィルソン指揮する騎兵の襲撃も組み合わされていた。彼らは目標の鉄道線の破壊には成功したものの、帰途に南軍騎兵の激しい追撃を受け戦死者と行方不明 1,500を出し、全ての輸送用馬車と砲を失ってしまった。

6月27日 ケネソーマウンテン会戦
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 南軍はケネソー・マウンテンに7マイルに渡る防衛線を引いたためシャーマンは敵兵力が薄く引き延ばされて配置されているものと見た。そして雨のために迂回が困難になったこともあり、彼は前年のミッショナリーリッジの正面攻撃成功の再現を夢見て南軍の陣地への突撃を敢行する事にした。
 北軍は26日にスコフィールドに命じて南軍左翼に陽動攻撃を仕掛け、27日にはローガン(☆☆3.1,−)の第15軍団でケネソーマウンテンの南端を守る南軍のステアートの軍団に攻撃を命じた。しかし突撃はほとんど成果を得ぬまま頓挫してしまい、正午までにシャーマンは攻撃を中止した。
 北軍の損害は3,000 に昇ったが、南軍の損害は、およそ750 に過ぎなかった。


7月2日 アーリー、ポトマック河を渡河
 (東部戦域:シェナンドゥ峡谷)
 アーリーは、かつてストーンウォール・ジャクソンの指揮下にあった第2軍団 13,000を率いてウインチェスターからポトマック河へと途中で出会った北軍の残余を駆逐しながら北上し、メリーランド州へ侵攻していった。

7月2日 ケネソーマウンテンの迂回
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 スコフィールドは依然として南軍左翼へ圧力を掛けつづけ、南軍の鉄道補給線を脅かしつづけていたが、正面攻撃を諦めたシャーマンは左翼のマクファーソンの軍団をを引き抜き、スコフィールドのさらに外側へ迂回させて南軍よりもアトランタに近いところまで進出させた。翌日ジョンストンはケネソーマウンテンを放棄しあらかじめ用意されていた次の塹壕線に退いた。

7月8日 チャタフーチ河渡河
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 シャーマンは、またもや南軍の陣地をやり過ごし、チャタフーチ河を電撃的に渡河してしまった。
 これに対してジョンストンは河沿いの陣地を放棄せざるを得ず、アトランタのすぐ北にあるピーチツリー・クリークに退き、反撃を準備した。

7月9日 モノカシー会戦
 (東部戦域 シェナンドゥ峡谷)
 アーリーはウォーレス(−,1-3-3)の即席で作られた 6,000の軍団を進撃路から追い払うと恐慌を起こしかけていたワシントンに向けて突進した。
 これに対してグラントはワシントンを防御するために、リッチモンド〜ピータースバーグ地域から、第6軍団を急派した。ウォーレスは 2,000近い損害を受けたものの、増援が間に合うのに必要な時間を稼ぐことができた。

7月11日 ワシントン郊外での戦闘
 (東部戦域 シェナンドゥ峡谷)
 アーリーは11日にはホワイトハウスから5マイルにあるフォート・ステーヴェンズに到着した。
 首都はグラントがウィルダネス戦役に部隊を注ぎ込んでいたため、民兵等の雑多な部隊しか守備についていなかった。しかし防御施設は堅固であり、そして12日には第6軍団が到着したため、南軍は撤退を決めた。ワシントンから発せられた間延びして矛盾だらけの命令で、統制のとれた追撃は妨げられ、アーリーは戦利品の貨幣等を、無事に峡谷を越えて持ち帰ることに成功した。

7月14日 トゥペロ会戦
 (西部戦域:ミシシッピー州)
 南軍のフォレストを無力化するため、A.J.スミスは、14,000を率いてテネシー州から南下した。
 フォレストは、S.D.リー(★★3.1,−)の増援を受けて、10,000の戦力を持つに至ると攻撃に転じたが、南軍の攻撃は協調を欠いた正面攻撃に終始した。
 翌15日も激戦は続いたがフォレストの攻撃は失敗し南軍の損害は 1,300以上に昇った。
 北軍の損害は 674であったが、スミスは追撃を行おうとせずにメンフィスへ引き上げてしまった。

7月17日 ジョセフ・ジョンストン解任
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 この日、南部連合のデービス大統領はテネシー軍のJ.ジョンストン将軍を、ジョージア州の奥深くまでシャーマンに侵攻を許した責任で司令官から解任し、後任にジョン・ベル・フッドを就任させた。
 これはデービスの軍事顧問で、数日前にテネシー軍を訪問したブラッグが、フッドを誰よりも適任と告げた為であった。リーは代わりにハーディーを推薦したのだが、ハーディーはジョンストンの留任を望んだために彼の抜擢は流れてしまった。
 強烈な敢闘精神をもつ直情的なフッドがテネシー軍の指揮官になった為、戦闘なしに南軍が下がることは考えられなくなったが、この人事によって南軍の士気が上がることはなかった。

7月20日 ピーチツリークリーク会戦
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 フッドは、北西から迫るトーマスの軍と北東から迂回してくる他の2つの軍とが、2マイル程の間隔を開けていることに目を着け、ここを衝いて北軍を二分しようとした。前任のジョンストンも同様にこの縫い目を攻撃する計画を温めており、テネシー軍の3個軍団全てをもって強襲を掛けるという彼の案をフッドに披露してからアトランタを去っていった(彼が再びテネシー軍を見るのは1865年2月であった)。フッドの反撃は概してジョンストンの作戦案と同じであったが、ただ一点だけ、以前彼が指揮していた軍団(後任はB.F.チータム〈−,4.5.5〉)をピーチツリー・クリークにではなく、ホィーラー(★2.1, 1-5-4)の騎兵を支援して、マクファーソンのテネシー軍の前進を遅らせる任に当たらせたことであった。しかし南軍の5個師団で北軍の7個師団を攻撃することは大穴狙いでしかなく、フッドの攻撃は失敗が運命づけられていた。
 13時に予定されていた攻撃は16時まで延期され、この時には既にトーマスの軍はピーチツリー・クリークを渡り終えてしまい高地沿いに陣形を整えていた。
 フッドは左翼にステワ−トの軍団を右翼にハーディーの軍団を配してトーマスを強襲したものの、北軍の砲火は途切れることがなく、南軍は4,800以上の損害を出して撃退された。北軍の損害は 1,780であった。

7月22日 バルド・ヒル会戦
 (西部戦域 アトランタ戦役)
 ピーチツリークリーク会戦に敗れたフッドは各軍団をアトランタの防御へと後退させたが、シャーマンの目にはこれはアトランタから撤退する動きと映ったため、彼はマクファーソンの軍に東南から南軍の後退を阻止できるように突出させ、トーマスとスコーフィールドには北と東からアトランタに迫るよう命じた。この動きを見てフッドは市の防御をステワートとジョージア州の民兵に任せると、マクファーソンのがら空きの側面を南方から衝くようにハーデイーの軍団を夜間に先行して出発させ、チータムの軍団とで北軍を挟撃しようとした。しかし2日前の会戦で疲れ切っていた南軍兵士の行軍は遅れて進まず、南軍の攻撃は6時間遅れで12時半に開始された。この間に北軍のマクファーソンは南軍の意図を見抜いており、ドッジの第16軍団を側面の防御にあてた。ハーディーの攻撃はこの第16軍団に集中し、一進一退の攻防が繰り広げられたが、ついに南軍クレバーンの師団が突破を果たして700の捕虜を得た。
 クレバーンの突進は別の北軍の砲列に阻まれたものの、16時にはチータムの軍団が攻撃に加わった。
 チータムはマクファーソンの右翼の北軍第15軍団(ローガン指揮)に襲いかかり一時は突破するかに見えたが、シャーマンが配置を指示した20門の砲兵に撃ちすくめられて頓挫してしまった。
 南軍の損害およそ 8,000に対して、北軍の損害は3,700に抑えられた。しかしテネシー軍の司令官であるマクファーソンは混戦の中で、従兵と2人で視察中にクレバーン師団の突破に巻き込まれ、南軍の兵士の一団と鉢合わせしてしまい降伏を迫られたが、馬頭を翻して逃げ出した瞬間、マクファーソンは背中に銃弾を浴びて即死、主を失った馬と従兵だけが司令部に辿り付いた。この戦いの直前に婚約者と結婚するため休暇を申請したマクファーソンに対し、それを繰り延べさせていたシャーマンは、戦死の報を受けて声を放って泣き崩れた。

7月23日 アーリー、侵攻を再開
 (東部戦域:シェナンドゥ峡谷)
 首都の防備が固いとみて峡谷を下ったアーリーは北軍を各個撃破すべく反転し、カーンスタウン及びウインチェスター付近でウエストヴァージニア軍のクロークを打ち破った。
(7月23〜24日)その後、南軍はチャンバーズバーグまで突進し、町が10万ドルを支払うことを拒否すると、ハンターによってヴァージニア陸軍大学が燃やされた事への報復として焼き払われた。

7月27日 騎兵襲撃の失敗
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 アトランタを囲んで陣地戦となったため北軍騎兵は暇を持て余すようになったが、シャーマンは南軍のフォレストのように騎兵を大集団で敵の後方へ襲撃させることを思いついた。4,700 の北軍騎兵はジョージア州南西部を荒らしまくり、鉄道線に打撃を与え 500もの輸送馬車を燃やす戦果を挙げた。しかし、小集団に別れていた北軍騎兵は集結した南軍騎兵に次々と捕捉されてしまい、この災難を逃れて帰還した者は1,600 に過ぎなかった。

7月28日 エズラ・チャーチ会戦
 (西部戦域 アトランタ戦役)
 シャーマンはマクファーソンの後任のテネシー軍の司令官にハワードを任じ、南軍が手薄にしていると思われるアトランタ市の西部の防備を探るよう命じた。ハワードはこの命令を受けると北軍の右翼から左翼へと転じ、アトランタとイーストポイント間の鉄道を切断した。ハワードは他の鉄道線も切断しようとする動きを見せたのでフッドはステワートとS.D.リー(チータムの後任)の2個軍団で北軍を迎え撃つことにした。12時半に馬蹄形に守備隊形をとったテネシー軍をリーの軍団が攻撃することで会戦は始まり、まもなくステワートの軍団もリーの左翼に進出し突撃を敢行したが、ステワートは戦死し南軍の攻撃は頓挫してしまった。3回に及んだ南軍の突撃は北軍の鉄道線切断を阻止したものの、ことごとく打ち破られてしまい軍の士気は急落してしまった。南軍の損害は5,000 に昇ったが、北軍はわずか600の犠牲しか被らなかったのである。南軍の部隊には前進の命令を躊躇するものも出始めて、落伍兵の割合も劇的に増加してしまった。ようやくジョンストン解任が間違いだったことを認めたデービス大統領に至っては“軍が完全に消滅してしまう前に攻撃を続行することを停止せよ”と電文をフッドに送る始末であった。

7月30日 クレーター会戦(坑道戦)
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲戦)
 戦前は鉱山技師だったヘンリー・プリザンツ大佐の指導のもと北軍は、ピータースバーグ防御陣地の中央部地下まで巧妙に坑道を堀進め、南軍陣地下で4トンの火薬を爆発させることに成功した。完全な奇襲となったこの地雷火で、大きなクレータ(縦170フィート、横60フィート、深さ30フィート)が生じ、そこを通ってバーンサイドの第9軍団が突撃を敢行した。
 この突撃の先導は軍団を構成する4個師団の内でウィルダネス会戦での消耗を被っていない唯一の師団である黒人師団が担う予定であったが、上層部の意向で攻勢発起の一時間前に変更されてしまった。
 このためバーンサイドは作戦に対する指揮統制が手に付かなくなり、突撃の先頭を受け持つ師団は麦わらを引くクジ引きで選ぶ始末であった。爆発で南軍の1個連隊と1個砲兵中隊が土砂の中に埋まってしまったが、突入したレドリーの師団は話にならない程のお粗末さで(師団長は突撃の間中、塹壕の背後で軍医から物乞いしたラム酒を飲んでいただけだった)、充分な指揮統制無しにクレーターに集まってしまった。後続の北軍師団も戦果を拡大することができず、奇襲から回復した南軍は、火砲や小銃火を集めて突破口を塞いでしまい、マホーンの師団が逆襲に転じると北軍の攻撃は頓挫してしまった。
 バーンサイドにとってはフレデリックスバーグに続く災いとなり北軍は 3,793を失った。対する南軍の損害は 1,182に過ぎなかった。  バーンサイドとレドリーはすぐ解任され、第9軍団の指揮はパーク(−,4-3-3)が引き継いだ。


8月5日 北軍、モービル湾に突入
 (西部戦域 海軍作戦)
 モービル湾を封鎖し続けていたファラガットは4隻の新型モニターの配属を受け、そしてシャーマンからも要請されたこともあって湾への突入を決意した。モニターの2隻は、マンハッタンとテカムセで2門の15インチのダールグレン滑腔砲を備えた航洋型であり、砲塔は10インチの装甲で覆われていた(テカムセはまだ調整が必要とさせたがファラガットは強引に作戦に参加させた)。また他の2隻はセントルイスで建造されたチカソーとウィネバゴで、2つの砲塔と4軸のスクリューを備えた河川用のモニターであり、4門の11インチ滑腔砲を備え砲塔は8インチの装甲で覆われていた。モービル湾は南北に60マイル、東西に30マイルの広さがあったが、外洋への出口は砂州で狭められていた。これに加えて南軍は水路に多数の機雷や防材をばらまいていたため安全な水路は限られており、しかもフォートモルガンを始めとする砲台がそれらをカバーしていた。5日朝に北軍は4隻の装甲艦を先頭にモービル湾に突入した。これに続くファラガットの主隊は14隻の木造艦からなり、7隻の大型艦がそれぞれ7隻の小型の船を砲撃から守るために非戦側に横付けされれいた。旗艦ハートフォードは2番艦となり、ファラガット自身は砲煙の中でも戦況を把握するためにメインマストに昇って指揮をとった。
 6時半過ぎに装甲艦の隊列の先頭を進んでいたテカムセは、初弾を発砲し、対するフォートモルガンは7時10分に半マイルの距離で北軍に反撃を開始した。やがて木造艦の隊列も応射を開始し、戦闘は勢いを増した。その内、南軍の装甲艦テネシー(かつてヴァージニアの艦長だったブキャナンが艦隊の司令官として指揮を執っていた)が姿を現すと、テカムセはそれ目掛けて突進したが、艦首付近で機雷の爆発が起こって突如轟沈してしまい、多くの乗員は脱出することができずに、93名が艦と運命を共にした。
 この惨劇を目にしてに機雷原に突入しつつあった北軍は浮足立ち始めたが、ファラガットは余りにも有名な科白、即ち“機雷が何だ、全速前進”と叫び脇にいた砲艦メタコメットにテカムセの乗員を救助するように命じると、旗艦ハトフォードは先導のブルックリンを追い越して機雷原の中を一直線にモービル湾の中へと突っ込んでいった。ハートフォードは南軍の戦隊から縦射を浴びせられたものの、機雷が爆発することはなく(乗員は機雷が艦底にぶつかる音を聞いたが不発だった)無事に突破を果たした。
 後続の艦隊もフォートモルガンに猛烈な砲撃を浴びせ、南軍の砲手に退避することを強いて順調に突破していったが、最後尾にオネイダとガレマは立ち直った砲台から痛打を浴びせられ、オネイダは右舷の缶で炸裂した砲弾で40名近い死傷者を出した。
 北軍艦隊が突進するにつれ南軍の砲艦は後退していったがファラガットは砲艦に退却していく砲艦の追撃を任せた(南軍の砲艦でこの日を生き延びることができたのは1隻のみであった)。強い雨が僅か数分で止むと、小康状態だった戦闘は再開され、北軍の大型木造フリゲートが数隻、大きな円を描きながらテネシーに接近していった。まずブルックリンがその艦首追撃砲で射撃を開始し、続いてモノガヒラが突進して南軍装甲艦を衝撃したがテネシーは受けた衝撃こそ大きかったものの船体に大きな損害は無く、モノガヒラに2発の命中弾を与えた。この隙にテネシーの左舷へ15インチ砲を装備するモニターのマンハッタンが近づいていき、その350ポンドの巨弾は始めて5インチの装甲を破ることに成功した。追い打ちをかけるようにラカウワナがテネシーに衝撃をしかけると横付けする型になって、その際ラカウワナの砲弾はテネシーの操舵室の薄い装甲を破って舵を故障させた。3度目の衝撃は旗艦のハートフォードが全速力で突進していったが8フィートの差で失敗してしまい、続いて片舷の全砲門でテネシーを斉射したものの全て跳ね返された。この時にはテネシーの周囲は多数の北軍艦艇が入り乱れていたが、15インチ砲を除けば装甲を貫通することはできず、艦首のラムによる衝撃も実質的な損害はほとんど与えていなかった。しかし、ようやくモニターの残りの2隻チカソーとウイネバゴが到着してテネシーを艦尾から縦射できる位置に着き、8門の11インチ砲を容赦無く浴びせ続けた。ここに至るとテネシーには射撃できる砲はもはや無く、フォートモルガンに逃れようとしたが低速では到底無理でありブキャナンは降伏を決意した。北軍の損害は大きく 315に昇ったが(その内戦死者は 145)、南軍の戦死者は艦艇については軽微で12名(他に負傷者は20名)に過ぎなかった。モービル市それ自体の占領は翌年まで持ち越されたが、モービル湾の制海権は北軍の手に握られた。

8月6日 南軍通商破壊艦タラハセー号出撃
 (東部戦域:海軍作戦)
 7月に就役したタラハセー号(500トン、3門の砲を装備)は15ノットの優速を生かして封鎖艦隊を振り切り、暗闇に紛れてウィルミントンを後にした。12日後、タラハセーは32隻を捕獲してからカナダのハリファックスに入港したが、そこでは母港に帰るのに最小限の石炭しか得ることができなかった。帰途に1隻をスコアに加えたタラハセーは砂州を高速で進むことで辛うじてウィルミントンに帰り着くことができた。11月1日にタラハセーはオラスティと改名されて再び通商破壊に出撃し3日間で6隻以上を捕獲した。オラスティはこの後、封鎖突破船に戻されてまたもやキャメロンと改名され、戦争の集結をイギリスで迎えることとなる。

8月7日 シェリダンのシェナンドゥ軍
 (東部戦域:シェナンドゥ峡谷)
 グラントは南軍がシェナンドゥ峡谷に居すわりつづける限り首都ワシントンの安全は確保できないことを認めワシントンの守備隊全てをハーパースフェリー近くに集結するよう命じ、指揮をシェリダンに任せアーリー率いる南軍の撃破を命じた。シェリダンはさっそく前進を開始し、10日には南軍をストラスバーグまで後退させた。

8月9日 アトランタ攻囲戦激化
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 南軍の抵抗が微弱になったので、シャーマンは本格的な攻囲戦に移った。チャタヌーガから2門の攻城砲を移送するなどして各種の砲を揃え、9日には一日だけで、アトランタ市に籠もる37,000の兵士と10,000の市民に対し 9,500発の砲弾が浴びせられた。

8月14日〜20日 ディープボトム会戦
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲)
 カーショーの師団とフィツ.リーの騎兵旅団がリッチモンドを離れてシェナンドゥ峡谷へ向かったのを確認すると、南軍の態勢を不安定なままにしておくためグラントはジェームス河北方のリッチモンド防衛戦に探りを入れた。彼はハンコックにバトラーの軍団と自身の軍団を与えて北進させたが、2日間に渡る威力偵察の成果はリッチモンドの防備は後備兵ではなくヴェテランが配されていることが分かっただけであった。北軍は南軍の約3倍の 3,000の損害を受けたが、グラントは南方からの攻撃の陽動のために20日までハンコックを留めておいた。

8月18日〜21日 グローブターヴェン会戦
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲)
 北方が行き詰まるとグラントはウォーレンをピータースバーグ市南方の鉄道線の切断に送りだした。(6月下旬と同じ目標である)南軍は当初はボールガールが寄せ集めの兵力で対抗していたが、後にA.P.ヒルがヒースとマホーンの2個師団を率いてに駆けつけて反攻に転じた。ウォーレンはグローブターヴェンで鉄道線の1つを切断するのに成功したが、南軍の攻撃は成果を収め、4日間の戦いでA.P.ヒルは1,600の損害でウォーレンの軍団の4分の1以上にあたる4,500の損害を与え前年のブリストーステーションの雪辱を果たした。グラントは今度はハンコックをピータースバーグ北方から転進させて更に5マイル南方のリームズステーションに向かわせた。

8月21日 フォレスト、メンフィス市を奇襲
 (西部戦域:ミシシッピー河)
 フォレストは21日の早朝、 6,000の北軍が守備するメンフィスを 2,000の騎兵で奇襲した。彼の目的は市に居る3人の将軍を捕虜にすることと、捕虜収容所を開放すること、そしてミシシッピー方面の北軍をメンフィスに引きつけることであった。夜明けとともに厚い霧をついて南軍騎兵は市街になだれ込んだみ、2時間後には 500名の捕虜と大量の補給物資を奪取して帰途についた。将軍達を捕らえることと捕虜を解放することには失敗したが、フォレストは30ほどの損害で北軍を牽制することに成功した。

8月24日 リームズステーション会戦
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲)
 23日にハンコックは目標であるリームズステーションに到着したが、翌日の正午頃には早くもA.P.ヒルの攻撃を受けるはめになった。南軍はヒースとウィルコックスの2個師団で正面から攻撃し北軍を拘束している間にハンプトンの騎兵を北軍左翼に迂回させて北軍第2軍団に 2,750の損害を与えて潰走させた。(南軍の損害は 720にであっった)ハンコック率いる歴戦の第2軍団は北軍の中でも最良の部隊と讃えられていたのだが、莫大な損害を召集兵で埋め合わせた現状では過日の輝きは失われていた。

8月31日 ジョーンズボロ会戦
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 攻囲戦の遅れに痺れを切らしたシャーマンはアトランタ周辺にスローカムの第20軍団を残すと残りの全軍に10日分の食糧を携帯させるとアトランタへ補給を送っている残りの鉄道線を破壊するために南へ向かった。
 30日までフッドはこの北軍の移動を気づかずにシャーマンが包囲を諦めたものと思っていたが、市の南方のウエストポイントで鉄道が破壊されたとの報告を受けるとハーディーに自身の軍団とリーの軍団の約24,000を派遣した。フッドはシャーマンが北軍の約半分を包囲に残しておいていると見てステワートの軍団と州民兵は手許に残しておいたのである。
 ハーディはジョーンズボロ近郊で河を背に馬蹄形に展開したハワードのテネシー軍17,000に遭遇し、北からリーの軍団でそして南からはクレバーンの軍団(ハーディーから指揮権を委譲)が挟撃することにした。攻撃は15時に開始されたが、南軍の惨敗に終わり、北軍の損害が 172だったのに対して南軍は2,200に昇った。


9月1日 南軍、アトランタを放棄
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 フッドは残りの北軍がジョーンズボロの北方からアトランタの南を衝くものとみてリーの軍団をアトランタに呼び戻した。そのためハーディーは、単独でシャーマンの軍全ての攻撃を受ける羽目になり、1日の朝には北軍の大部隊に蹂躪されてしまった。
 ハーディーはフッドにアトランタからの鉄道は全て切断されたことを報告するとともに、アトランタの放棄を進言した。フッドはこれを受けてその夜の内にテネシー軍を引き連れてにアトランタから脱出した。翌朝アトランタ前面に残っていたスローカムは、南軍が撤退したことを知ると市を占領した。

9月16日 ハンプトンの畜牛強奪
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲)
 南軍の3個騎兵旅団を率いてハンプトンは、ポトマック軍左翼を大きく迂回して後方の兵站施設を襲撃した。ハンプトンは僅かな損害で300以上の捕虜を捕らえ、そして2,500頭の肉牛を持ち帰って、食料不足に悩む南軍を喜ばせた。

9月19日 第三次ウインチェスター会戦
 (東部戦域:シェンナンドゥ峡谷)
 15日にグラントはシェリダンの司令部を訪れ作戦計画の打合せを行った(ワシントン経由で命令を発するとハレック以下から慎重案を取るよう圧力がかかる恐れがあった)。グラントが攻撃の意図を話す前にシェリダンは戦況を説明し、まさに彼が望む通りの攻撃案を提案した。会談終了後、アーリーの軍団から1個師団がリッチモンド方面に引き抜かれたことを知ったシェリダンは37,000の兵力をもって強襲することを決断した。アーリーは麾下の部隊の半分以上を北軍の鉄道修理を妨害するために北上させていたのだが、グラントがシェリダンの司令部を訪れたとの電信を入手すると北軍の攻勢に出ることを類推し防御態勢に移ることにした。シェリダンは南北に広く伸びていた南軍を二重包囲することを意図した。(主力を南方に展開し、北方−南軍の左翼−は騎兵で側面から拘束)当初、北軍の前進は道路の渋滞で部隊展開が遅れてしまい、この間に南軍は、素通りされたローデスとゴードンの2個師団を前線に投入し北軍先鋒の右翼の包囲を試みた。ローデス(−,2-4-4)は反撃を試みてまもなく戦死したものの南軍の抵抗は激しく、北軍の攻撃は行き詰まってしまった。しかし速射式のカービンを装備した北軍騎兵が奮戦して南軍左翼を迂回して突撃を敢行し多数を捕虜にし、この間にシェリダンは態勢を整えて全ての正面で攻撃を再開し、南軍を敗走させた。アーリーはウィンチェスターに留まろうとしたが果たせず12マイル南方のフィッシャーズヒルに後退した。勝利を得ながらも北軍の損害は5,018で、南軍の3,921よりも多数に昇った。

9月22日 フィッシャーズ・ヒル会戦
 (東部戦域:シェンナンドゥ峡谷)
 アーリーは北軍に正面攻撃を強制すべく、ストラスバーグから南に少し下がったフィッシャーズヒルに塹壕線を築き、防御を固めたが、シェリダンはこれに対し、息次ぐ暇を与えずに攻撃を続行した。
 北軍はライトとエモリーの2個軍団をもって正面から牽制攻撃を加えている間に、もう一つのクロークの軍団を山地を利用して南軍左翼へ迂回させた。南軍は左翼が圧倒されると潰走し、およそ 1,400の損害を出した(北軍の損害は 528)。

9月25日 デービス大統領、フッドと会談
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 デービス大統領はテネシー軍を訪れてフッドと会談し、北軍を迂回してシャーマンの後方に進出し北軍の補給線を断つという彼の案を承認した。
 その後デービスは、ナポレオンのロシア侵攻になぞらえて“フランス軍に対するコサック騎兵のように、南軍の兵士と騎兵は北軍を苦しめ、その将軍をナポレオンのごとくボディガードのみを引き連れて退却させることだろう”と激励したが、それを聞いたグラントからは“誰がこのモスクワ撤退のために雪を降らせられるのだ”と嘲笑される始末であった。

9月〜10月 北軍のフッド追撃
 (西部戦域:アトランタ戦役)
 北軍はアトランタ占領を成し遂げたものの、フッドの軍を壊滅させることは未達成であった。シャーマンはアトランタに補給基地を設けたが、これ以上の前進はナッシュビルからの400マイルの長さに及ぶ連絡線を防御する必要があることに気付いた。
 フォレストとフォイーラー指揮する南軍騎兵の大胆な襲撃が成果を収めたことに加えて、フッドがテネシー軍の残余を率いて北西へ進みチャタヌーガへと向かったので、北軍もアトランタに1個軍団を残してアラトーナ(10月5日)から、ベイレスヴィル(アラバマ州、10月22日)まで追撃を行ってフッドをアラバマ州へ追いやったが、南軍の撃滅は空振りに終わった。シャーマンはこれ以上掴みどころのない南軍の捕捉を試みることはグラントの意図する巨大なやっとこを無力化し、戦争の主導権を南軍側に取り返されることになるだろうという結論に達した。

9月29日〜30日 チャフィンズブラッフ会戦
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲)
 グラントは6月以降ほとんど手つかずでいたバトラーの2個軍団約20,000にジェームズ河沿いのリッチモンド外郭陣地への攻撃を命じた。オード(☆☆☆3.0.0,4-4-4)の軍団による第1次の攻撃は奇襲となって第一線の突破はなったが、続くバーネイの軍団の突撃は警戒態勢をとった南軍により撃退された。翌30日、リーはピータースバーグから2個師団を基幹とするアンダーソン指揮する軍団を派遣したが、3次に渡る南軍の攻撃はことごとく失敗に終わった。北軍は 3,327の損害と引換えにフォートハリソンを得たが南軍の損害は 2,000であった。

9月30日 ピーブレスファーム会戦
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲)
 ピータースバーグ北方での攻撃と同時にグラントは同市の南方でも積極的な行動に打って出た。それぞれ2個師団を有するウォーレンとパークの軍団がグローブターヴェンから西進したがピーブレスファームでア.P.ヒルの迎撃を受けその場で立ち止まらざるをえなかった。北軍の損害は 2,889に達したが南軍の損害は 900に過ぎなかった。北軍の進出に対応するため、リーはさらに西に向けて塹壕を延ばした。


10月8日 南軍通商破壊艦シェナンドゥ号出撃
 (海軍作戦)
 通商破壊艦への改装を終えた南軍シェナンドゥ号(1,160トン、32ポンド砲2門をはじめ8門の砲を装備:乗員の中には以前にアラバマに乗り組んでいたものもいた)は、8日にロンドンを出撃した。
 不足した乗員をあの手この手でかき集めながらシェナンドゥは順調に戦果を挙げ、大西洋からインド洋に入りついには太平洋まで進出した。
 リーがアポマトックスで降伏した時にはシェナンドゥはポナペ諸島に入港し、捕鯨船を狙ってオホーツク海を目指そうとしていた。

10月19日 シダー・クリーク会戦
 (東部戦域:シェンナンドゥ峡谷)
 南軍が北部へ侵攻する際にシェナンドゥ峡谷は良好な食料供給地となっていたので、アーリーを撃退したシェリダンは峡谷を下りながら、組織的にそこを敵味方の区別無く荒廃した焦土へと変えていった。側面の南軍ゲリラには大いに悩まされたが、彼らもしくは後方に食らいついてくるアーリーの軍団の両者とも何ら効果的な戦果を挙げることはできなかった。南軍は峡谷をあきらめきれずリーはアーリーに1個歩兵師団と騎兵旅団を派遣しこの区域の南軍は18,400まで回復した。シェリダンは軍をウィンチェスターの南方15マイルのシダークリークに駐屯させていたが、16日に今後の戦略策定するための会議に出席するためワシントンに出発した。アーリーは奇襲を決断し18日夜に密かに部隊を進発させ、日の出とともに北軍左翼の2個師団に襲いかかった。この攻撃は完全な成功を収めて左翼の北軍第7軍団は総崩れになり南軍は捕虜 1,300と砲18門を獲得した、シェリダンの代わりにライトが指揮するシェナンドゥ軍は浮足立って4マイル後退した。昼頃にはアーリーは勝利を確信し補給が欠乏しがちの南軍兵士は北軍駐屯地での略奪に夢中になっていたが、北軍の第6軍団と騎兵は敗走してはいなかった。そこにシェリダンが帰り(前日既にウィンチェスターまで戻っていた)、この戦争でもまれにみるほどのリーダーシップを発揮してパニックを収拾すると反撃に転じた。戦況はたちまち逆転し、南軍は攻勢発起点を越えて後退した。南軍最年少の少将であるラムサール師団長(−,3-5-3)は、後退をくい止めようと奮闘している際に銃弾を受け戦死した。北軍は朝に失った18門の砲を取り戻した他に23門を敵から奪った。南軍の損害は 2,910で北軍の 5,665に比べるとおよそ半分ではあったのだが、過去1ヵ月間で3回も潰走してしまっては倍の戦力を有するシェリダンを支えるだけの士気はもはや持ち合わせてはいなかった。

10月26日 南軍通商破壊艦チカマウガ号出撃
 (東部戦域:海軍作戦)
 通商破壊艦チカマウガ号(585トン、3門の砲を装備)は26日に3隻の北軍軍艦を振り切ってウィルミントン出撃し、西海岸を航海して7隻を捕獲した。しかし補給に訪れたバミューダで遅延から逃亡する者が出て人手不足で帰港することを余儀なくされた。

10月27日〜28日 ボイドトン・プランクロード会戦
 (東部戦域:ピータースバーグ攻囲)
 グラントは9月と同様にバトラーがリッチモンド付近で陽動する間にリーの右翼を攻撃する計画を実行に移したが、今回は主力を前回の2個軍団からハンコックを加えた3個軍団に増強した。27日にバトラーは北上し、パークが南軍の最右翼を攻撃している間に、ハンコックとウォーレンは南から大きく迂回を図った。ハンコックは予定通りに前進することができたが、ウォーレンは困難な地形のために進出が遅れてしまった。そしてハンコックは友軍の前進を待っている間に、A.P.ヒルの軍団とハンプトンの騎兵の攻撃を受け後退を強いられ、この方面の他の2個軍団も結局は撤退した。また北方のバトラーも傷が癒えたロングストリートによってたやすく撃退された。北軍の損害は 2,800以上に上ったが、南軍の損害はその約半分程度であった。冬になると積極的な行動は中断され、攻囲戦は砲兵の撃ち合いが主体になっていった。
 半ば包囲された南軍の軍人と市民がますます耐乏生活を強いられる一方で、攻囲側の塹壕の背後では21マイルにも達する軍事鉄道のネットが前線からシティポイントにあるグラントの巨大な補給基地を結び、北軍の快適な糧食と住居を支えていた。

10月27日 カッシング、アルベマール号を撃沈
 (西部戦域:海上作戦)
 64年の夏に依然として脅威を与えつづけていたアルベマール号に対して22歳のカッシング海尉は乗り込んで捕獲するなどの様々な作戦案を考えていたが、最終的に15メートル程の蒸気艇にスパートーピードを装着して強襲する案が採用されて実行に移された。10月の初旬に2隻の艇が用意されたが、目的地に向かう際に1隻が浸水して沈没してまった。27日の夜カッシングの水雷艇は護衛の兵士を乗せたカッターを曳航してロアノーク河河口から上流に向かい南軍の哨戒線をくぐり抜けて防材越しにアルベマールに突進し艦底付近でスパートーピードを爆発させることに成功した。100ポンドの火薬の爆発でアルベマールは沈没したが、水雷艇も爆発の衝撃とその直前のアルベマールの砲撃によって沈没してしまった。  水雷艇の乗員の内、2人は溺死し11人は捕虜となったがカッシングを含む2名が帰還することに成功した。


11月8日 リンカーン、再選される
 北部の有権者はリンカーンを支持する212名の選挙人を選び、マクレランは支持する選挙人を21人しか獲得できず、共和党の圧勝に終わった(ただし票数では220万票に対して180万票でそれほどの差はなかった)。リンカーンも一時は、再選の可能性は薄いものと考えていたのだが、モリソンによると和平運動に対する南部デービス大統領の率直さをもって(和平の仲介に対して独立以外の一切を拒否した)、民主党員はその厚顔無恥の敗北主義によって、またシャーマンは9月2日のアトランタ占領を占領することによってリンカーン選出を再考する陰謀を根底から覆した。

11月14日 フッド、テネシー州侵攻を開始
 (西部戦域:ナッシュビル戦役)
 フォレストの増援を受けたフッドは40,000の熟達した兵を率いて北方ナッシュヴィルへ向けて進軍した。フッドの計画はトーマスを打ち破りながらケンタッキーへ侵攻し、そこで20,000を徴兵し、その後はさらに東進して果てはヴァージニアを目指し、そこでリーと合流してグラントとシャーマンを順に撃破することまで夢想していた。トーマスはナッシュヴィルで直卒の歴戦の兵士を中核にして即席の軍を編成しており、時間を稼ぐためにスコーフィールドは、2個軍団に加えてウィルソンの騎兵師団(総計34,000)を有して南軍の前進を遅らせるよう命令を受けていた。11月26日にフッドは2個軍団とフォレストの騎兵を敵中深く突進させてトーマスとスコーフィールドの間に割って入り、北軍を二分しようと試みた。南軍は26日にコロンビアに到着したが、そこは既に後退したスコーフィールドによって固められていた。スコーフィールドの主目的はコロンビアにある軍の補給物資を満載した列車を護衛することであった。

11月15日〜12月8日 アトランタからの進軍
 (東部戦域:海への進軍)
 シャーマンはトーマスのカンバーランド軍60,000をナッシュヴィルとチャタヌーガへと戻し、その一方で自身は62,000のヴェテランを率いて連絡線は故意に廃止した上で、南軍をを無視してアトランタからサヴァナへと海に向かって進撃することで問題を解決しようとした。リンカーン、ハレックそしてグラントまでも当初はこの案に反対したが“ここで引き返せばこれまでの戦勝は無駄になってしまう”というシャーマンの説得が功を奏して裁可された。 北軍は 2,500台の輸送馬車と 600台の移動病院に補給物資(大半は弾薬)を積み込み、他のものは現地で挑発することにした。ほとんど抵抗を受けないで(11月22日に南軍の民兵が北軍後方の歩兵旅団を攻撃したが、彼らは北軍の10倍に当たる 600の損害を受けて撃退された)シャーマンは幅が50マイルもの焦土を300マイル彼方の海まで刻み込んでいった。
 彼はジョージア州中心部の作物や兵站物資を荒廃させることで、故意にそこを荒涼させようとしたが、非戦闘員は周到に保護された。北軍の進路上ではボールガールがハーディの助力を得てサヴァナとチャールストンで効果的な抵抗をするための効果的な抵抗方法を組織しようとしていた。

11月29日 スプリングフィールド会戦
 (西部戦域:ナッシュビル戦役)
 28日にフッドはS.D.リーの軍団でコロンビアの北軍正面に牽制攻撃を掛ける一方で、フォレストの騎兵と他の2個軍団を右翼から迂回させた。  しかし北軍騎兵によってこの動きは察知され、スコーフィールドは直ちにスタンレィ(-、3-5-5)指揮する第4軍団の2個師団を突進させて後方の十字路にあるスプリングヒルに向かわせた。フォレストの騎兵は29日午前にはスプリングフィールドに突入して守備隊と交戦していたのだが、スタンレィの軍団が到着すると十字路は北軍に確保された。南軍の攻撃は協調性を欠き、チータムの軍団は右翼に不安を感じて攻撃を見送ったため、北軍を駆逐することはできずフッドの作戦計画は破綻してしまった。

11月30日 フランクリン会戦
 (西部戦域:ナッシュビル戦役)
 29日の夜にスコーフィールドは彼の全軍をフランクリンにあるハーペス河の渡河点を防御する位置に退けて陣地を築いた。翌朝、フッドは配下の将軍そして前任のジョンストンさえも非難し、そしてほぼ同数で陣地に籠もり砲兵の強力な支援を受けた敵に対し正面からの突撃を命令した。軍団長らは抗議したがフッドは取り合わなかった。彼はゲインズミルやチカマウガで敵の戦線を突破した時のようにここでも首尾よくいくものと確信していたのだ。
 小春日和のなか南軍は突撃し、塹壕線の外側にいた2個旅団を潰走させて主抵抗線に肉薄し壮絶な白兵戦が各所で繰り広げられた。クレバーンとブラウンの2個師団が北軍の塹壕線内に突入することに成功したが、北軍の反撃もオプディッケの独断による突撃をはじめとして激烈であり、クレバーンは乗馬を2頭撃たれた後に徒歩で戦場の喧騒の中へ進んでいったが、この戦闘を生き延びた者で彼の行方を知る者はいなかった。この日は無風であったため戦場は砲煙が覆い続け、2マイル南の丘にいたフッドは戦闘の推移を把握することはできなかった。 夜になっても戦闘は激化し北軍はついに後退してフッドは勝利を主張することができたが、南軍の損害は北軍の3倍の 7,000という破滅的なものであった。さらに師団長から連隊長級の死傷者も多数に昇り、例えばステワートの軍団は9人の旅団長の内の5人を失う様であった。クレバーンもまた翌日に心臓を撃ち抜かれているのを発見され、彼に隣接して突撃したブラウン師団長も負傷した。


12月9日〜21日 シャーマン、サヴァナを占領
 (東部戦域:海への進軍)
 サヴァナはハーディが15,000で陣地にこもって防御していたが、シャーマンはそこから15マイル離れたフォートマクアリスターを河口から強襲した。(12月3日)北軍は艦隊により連絡線を設けると包囲を開始したが、補給が閉ざされたハーディは脱出してしまった。(12月21日)

12月15日 ナッシュビル会戦:第1日目
 (西部戦域:ナッシュビル戦役)
 フッドは12月2日からナッシュビルの防衛陣地の前で立ち止まっていた。ワシントンではトーマスが攻撃しないことに苛立っていたが、几帳面なトーマスは自軍の多くを占める徴募兵と新設されたウィルソンの騎兵軍団を訓練するのに時間が必要だったのである。
 グラントはついにトーマスの解任を決意したが、この知らせがナッシュビルに届く前に北軍の攻撃は開始された。すなわち15日に北軍は総攻撃を開始し、55,000の戦力を有するトーマス(実際に戦闘に参加したのは43,000)と38,OOOのフッドの間で激戦が繰り広げられた。戦闘はまずスティードマンの軍団が南軍右翼のチータムの軍団を牽制することで開始され、続いてトーマスは3個軍団とウィルソンの騎兵を南軍左翼に対して迂回させた。南軍はフォレストの騎兵をマルフリーズボロに派遣していたため、左翼のステワートの軍団の左側面は5つの堡塁を築いて塞いでいたが、霧のため迂回を行った北軍の進撃は遅れたものの午後にはこれらの堡塁の前面に進出し攻撃を開始した。迂回した北軍の中でもウィルソンの騎兵とスコーフィールドの軍団の攻撃は特に成功を収め南軍左翼のさらに背後まで前進を成し遂げた。南軍は左翼だけで 2,200(その内の半数が捕虜となった)の損害を出し、戦線の維持は不可能になった。

12月16日 ナッシュビル会戦:第2日目
 (西部戦域:ナッシュビル戦役)
 15日の夜にフッドは南軍を2マイル後退させて戦線を縮小した。16日もトーマスは前日に引き続き両翼包囲を意図し左右からの挟撃を仕掛けた。にわか造りながらも南軍の陣地は石壁や倒木をうまく利用し、側面を丘で保護された有効なものであった。そのため正面と東側面に向けて行われた攻撃はそれぞれ数百の損害を受けて瞬く間に撃退された。とりわけ最右翼に置かれていた2個旅団はフランクリン会戦で破滅的な突撃に加わっていなかったため戦力、士気ともに充実しておりしかし15時までウッドとスティードマンの2個軍団の数回に渡る突撃を支えていた。これに対し南軍の左翼では日没の一時間前までは陣を保持することができたが、トーマスのリーダーシップでA.J.スミス、スコーフィールドの両軍団とウィルソンの騎兵の攻撃がうまく調整されると、三方向から圧力を受けた南軍チータムの軍団は混乱し要地の丘陵を奪われると崩壊してしまった。(この時にジョンソン師団長は北軍に捕らえられた、この年に彼が捕虜となったのはスポットシルヴァニア会戦に続き2度目である)南軍の動揺は右翼から左翼へと連鎖的に広がっていき多くの者が武器を捨てて南へ敗走していった。北軍はこの2日間で 3,000の損害で多くの捕虜を捕らえフッドのテネシー軍を実質的に無力化することに成功した。この後、フォレストの騎兵はミシシッピー州に戻り、軍の残りはモービルの守備に着く者もいればカロライナへと退く者もいた。フッドは翌年の1月にテネシー軍の指揮を退任しテキサス州に赴き、そこで軍の再編を意図したが果たせず5月31日に北軍に降伏した。

12月23日 フォートフィッシャー第1次攻撃
 (東部戦域:海軍作戦)
 フッドの軍が瓦解した後、リーのノースヴァージニア軍が南軍に残された唯一のまとまった戦力になってしまった。そしてこの軍に補給を与えられうるのは南北のカロライナ州のみであった。これらの補給物資の多くは封鎖突破船によりもたらされたが、今やフォートフィッシャーにより防護されていたウィルミントン(ケープフィア河の河口より20マイル上流に位置する)だけが封鎖突破船の拠点として残っていた。このL字型の要塞は従来の石作り式とは異なり木材の骨組みに砂と土で盛りつけられていたが、ちょうど拳骨の勢いを枕が吸収するように砲弾の直撃や爆発を弱めることができた。
 チャールストンが北軍の手に帰し、装甲艦アルベマールも撃沈されたので、北部の関心はウィルミントンに集中し、デヴィット・ポーター指揮の下60隻に及ぶ南北戦争で最大の艦隊がバトラーの 6,500の陸軍兵士とともにフォートフィッシャーへ向かった。バトラーは老朽した船に215ポンドもの火薬を積んで、要塞近くの浅瀬で爆発させる計画を建て、23日夜に実行に移した。しかしこの爆発は効果がなく、翌朝の北軍艦隊による最大規模の砲撃でも要塞の47門の重砲の内で2、3門の砲が損害を受けたに過ぎなかった。続いてバトラーが歩兵を率いて上陸したが、要塞が健在でなおかつ地雷が敷設されているのを確認すると撤退してしまった。


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