Horsens 便り(2005年 2-3月版)
小さな村Boesの家屋
昔協会のツアーで訪ねたこともあります
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  3月6日の夜から、ユラン半島のホルセンス Horsens に来ています。ここには親友のクリスチャン(サミュエルセン)がいて、彼のところにやっかいになっています。

 7日には、キム・アルネ(Kim Arne Pedersen)に呼ばれて、オーフス大学の神学部にある「グルントヴィ研究センター」の講演会に出ました。このセンターはヴァートフと並ぶグルントヴィ研究の中心地で、共同でグルントヴィ研究を行っています。この2月から4月にかけての連続講演会もその一環で、内外の主立ったグルントヴィ研究者が公開講演を毎週月曜日にするものです。キム・アルネはこの研究センターの事務局長を務めていました。

手前がキム・アルネ

講演会の様子
かなりモダンな設備でした

 かたことのデンマーク語レベルなので、高度な講演を聴けるほどではないと、彼に誘われたときにしぶったのですが、研究センターの関係者に紹介したいから無理にでも来いといわれ、オーフス大にまでやってきました。ついでに、2月5日に協会の関東の集いで話したクリスチャン(グラニル・イェンセン)がオーフス大に3月初めから戻っていたので、彼に再会する機会にもなるということもありました。

 会場でキム・アルネに会い、何人か主要な人物を紹介してもらい、いっしょに聴講しました。残念ながら、キム・アルネに別の約束があり、グルントヴィ研究センターの図書館などの見学はまた後日ということになりました。

 その後、彼と別れ、クリスチャンと再会。大学を案内してくれたあと、彼のアパートに行き、彼のパートナーといっしょに夜にはディナーを食べました。楽しいひとときでした。

大学を案内するクリスチャン

 翌日の8日は、「フリースクール情報研究センター(Videns- og studiecenter for Fri Skole)」を尋ねます。研究員でフリースクール協会の国際委員長でもあるビルテ(Birte Fahnoe Lund)に来いといわれていたからです。ここに来て初めて、なぜヴァートフとここと二つに文書保管が分かれたのかがわかりました。前は統一の文書保管センターであった「グルントヴィ運動のためのアーカイブ」が、意見の相違により、フリースクール関係とホイスコーレ関係の二つに分かれ、後者がヴァートフに移り、前者がここに残ったというわけです。意見の相違の理由については「話すと相当長くなり、複雑な経緯がある」といって教えてくれませんでした。部外者にはわかりにくい背景があるようです。

 ここでビルテと研究員のペーターが、コルの学校の生徒の残したコルの講義の記録ノートや当時のコル自身使った出席簿など、貴重な資料を見せてくれました。彼らが出したコルの伝記と論文の英語版「Freedom in Thought and Action, Kold's Idea on teaching children」の翻訳権も私ならいつでも譲渡するという約束もしてくれました。とりあえず、デンマーク語のコルの講演録もこれに追加して可能であれば日本で刊行したいと考えています。

研究所にてBirte(左)とPeter

 ホルセンスに戻ると、クリスチャンが迎えに来て、彼の参加している聖歌隊の練習に行きます。バッハのカンカータ182番の練習を教会でしていました。

練習の模様

クリスチャン(左)とその家族

 クリスチャンはリュ・ホイスコーレの教員を長く務めたあと、今は故郷のホルセンスに戻り、カトリック系の私立学校(St. Ibs Skole)の教員をしています。10日には、彼の学校に呼ばれ、生徒たちと会い、授業の一部をさせられました。ここは2003年の9月にもキャンプに少し参加して、校長のダンなどとは面識があります。滞在の疲れも出てきた頃で、行く前はあまり気乗りがしなかったのですが、子どもたちの顔を見ると楽しくなり、子どもの笑顔の力を実感しました。

サンクト・イプス小中学校の子どもたち

 カトリック系の私立学校はグルントヴィ派の学校には入りませんが、フリースクール協会とともに私立学校法の適用を受けるので、グルントヴィ派のフリースクールとときには共闘もします。

 日本のカトリック学校ほど宗教教育に力は入れていないようです。というのも、グルントヴィはプロテスタントですが、彼の肖像画がこのカトリックの学校にありました。ただしそれはトイレなのです。クリスチャンが茶化して「カトリック学校だから、プロテスタントのグルントヴィをトイレに閉じこめているのか、とミツルが不思議に思っている」と校長のダンにいうと、「いや、そうじゃなくて、退職した教員の一人が、グルントヴィの大ファンで、ここの教員にグルントヴィのことを考えてもらいたく思い、トイレに彼の肖像画を張ったんだ。なぜって、この学校で孤独になって一番じっくり内省できるのは職員室のトイレだからね。だから彼はわれわれにとって一番重要な人物だからあそこにいるのであって、ないがしろにしているわけではないよ」といってました。なるほどと納得しました。

 11日にはクリスチャンとアスコウ・ホイスコーレに行きました。今年の8月22日からののスタディツアーの打ち合わせのためです。前半はここにお世話をしてもらうことが決まっています。前から誘いは受けており、また協会の会員の夏目孝茂さんもご自分のグルントヴィ社会教育館のツアーをここで行っていました。ただ以前は経済的な危機があったので遠慮してましたが、今は復活してかつての栄光を徐々にではありますが取り戻しつつあるようです。デンマークには名門校というような区別意識は日本ほどありませんが、それでもここはたしかにホイスコーレの歴史では一番の重要な役割をいろんな意味で果たしてきたのです。

アスコウ・ホイスコーレ

 校長のヘニングと教員のウラと会い、いろいろと打ち合わせ。その後ウラが学校を案内してくれました。今はエフタースクールも併設しています。協会では会員の砂川次郎さんが最近の夏のショートコースを訪れています。これを読んだみなさん、ぜひこのスタディツアーに参加して下さい。詳しくはまたこのサイトに案内が出ますので、それまでお待ち下さい。

 こちらに来る直前に福岡でミシェル・コルボのコンサート(マタイ受難曲)に行ったのですが、デンマークに来てもコンサートと縁があり、教会でのハイドンのコンサートなどにクリスチャンとともに行きました。また、自由教育大学より、教育実習生のヨハンを受け入れて自宅に三週間住まわせており、ときには3人で行動しました。このコンサートもそうです。ほかにも彼の弟(EU議会のデンマーク代表議員)といっしょに昼食をとったり、雪景色の中を歩いたり、落ち着いた日々を送りました。

ホルセンスの教会でのコンサート

リュの教会

 畏友のオヴェ・コースゴールにも3月1日に会い、大学であった後には、夕方から彼の家族(妻のクララと二人の娘)といっしょにレストランで楽しいひとときを過ごしました。娘のリアは新聞社の編集者で図書館の本を数十年にわたり盗んで古本屋に売っていたある男の伝記を書き、デンマークでのベストセラーになっていました。オヴェも、前に訪ねたときに原稿を見せてくれた大著『民族をめぐる闘い(Kampen om Folket)』が昨年4月に刊行され、販売状況もよく、高い評価を得ていることを教えてくれました。彼のもとに日本から二人の研究者が留学するのですが、そのこともよろしくと頼んでおきました。妻のクララも教員養成大学の教員で、長女のリーセも博物館の研究員で、みな第一線で忙しく活躍しています。なのにわざわざ家族を呼び寄せて歓迎をしてくれるというところに彼の気配りを感じ、とてもありがたく思えました。

 毎度のことながら、いろんな人たちに助けられ、外は寒くても暖かい思いで一杯です。遠いところに来てはいるのですが、まるで故郷に戻ったような気持ちになることもあります。14日にはドイツのエッセンに向かい、留学時代の友人と会います。私の旅もそろそろ終わりに近づいてきているようです。 

参考

2002年2月28日の便り

2002年3月5日の便り

2002年3月7日の便り

2002年3月12日の便り

2002年3月15日の便り

Vartov便り番外編

清水 満のデンマーク報告2(2003年9月)>