Vartovからの便り
昔日のグルントヴィとともに

清水 満

歌の集い
Vartovでの歌の集い
話しているのがTrine
2002年2月22日の便り

2002年2月26日の便り

2002年3月5日の便り

2002年3月7日の便り

2002年3月12日の便り

2002年3月15日の便り

Vartov便り番外編

2002年2月28日

G君へ

 コペンハーゲンでの滞在にすっかりなじみ、デンマーク語もけっこう口をついて出てくるようになりました。デンマーク語はTeach Trainという小さな語学学校で、代表者のSusanneに個人指導で習っています。VartovのリーダーHansと知り合いで、その縁で彼女に習うことになりました。Vartovから歩いて25メートルくらいの近さで便利です。

 個人レッスンは授業料が高いので最初はグループレッスンを希望したら、日にちがあわないのと日本人はヨーロッパ諸国の人と比べて上達が遅いので個人レッスンにしろといわれ、有無をいわせずこうなった次第。それでもしぶると4割引きしてくれましたけどね^^)V。私がドイツ語を話せるため、ふつう日本人が苦労する時刻や数字の瞬時の読み方を楽にこなすのを見て、今はグループレッスンでもよかったなどといっています。それなら早くいってほしかった!という感じです。

 彼女はいい教科書がないので自分でつくりたいとか。ただし彼女は絵が描けないため、私の描いたイラストをふと見て「いっしょに教科書をつくりましょうか!」と提案してきたり、しようもない冗談などで適当に盛り上がっています。見た目がアメリカ人的な派手さでけっこう押しが強いので「あなたはタフな先生だ」と私がからかったりしてますが、それでもどこかに素朴さ、人の良さを感じさせ、やっぱりデンマークの人だな〜と一人合点しています。

 26日の火曜日午後には、「Fyraften Faellessang i Vatov(直訳すれば「終業時間の歌の集い」とでもいうのか。夕方4時半からあるのでこういう名がついているのでしょうか)」に参加してきました。これはグルントヴィ・アカデミー主催で、グルントヴィ・ムーブメントに協力的な各界の著名な人を呼び、その人が「ホイスコーレ・ソングブック」から歌を選んで音頭をとって、ちょっとしたトーキングを交えながら、みなで歌うものです。今回は女性建築家のTrine Nebleがゲストでした。月に二回程もよおされているようです。Kirkeligt Samfundのスタッフはお茶やケーキ、ワインやビールの準備をし、ホスト役もつとめます。

お茶の世話

ホスト役をするVartovスタッフのLese

 また翌日、私がグルントヴィ図書館で調べものをしていたら、コペンハーゲン近郊の国民教会の信徒グループがそこの牧師につれられてVartovとグルントヴィ図書館を訪問していました。案内のHansが「彼は日本から来たミツルで、Kirkeligt Samfundに来ていまグルントヴィやホイスコーレを研究しており、こうして日本の人もグルントヴィ・ムーブメントに関心を寄せている」などと紹介すると、みなの注目を集めてしまい、お年寄りが多かったせいか、「それは感心なことだ」とみなさんすっかり賞賛のまなざしで面映い心持ちでした。

 これ以外にも、デンマーク国内のみならず、ドイツ、オーストリアなどからもツアーの一行が訪問をするのを見ました。けっこうここを訪ねる人は多いようです。もちろんグルントヴィ協会のスタディツアーでも一度ここの訪問を入れましたが、協会関係者では埼玉の金子さんも自分たちのツアーで訪ねており、グルントヴィ図書館のゲストブックでお名前を拝見してうれしく思いました。

 とはいえお年寄りが多いのは前回の報告でも記した通りです。ただ、若者文化、都市文化が世界どこでも似たようなもので、アメリカ的商業文化の影響の色が濃いのに対し、外の繁華街とは全然違うデンマーク独自の文化の伝統に触れるのは何か不思議な感じで、おそらくふつうの日本人観光客、あるいはグルントヴィ・ムーブメントとほとんど出会うことのない日本人滞在者には多分できない貴重な経験でしょう。昨晩遊びにいったデンマーク人の若い友人Martinも「僕の知らない世界ですでに学校の歴史で学ぶようなことになっている」といってたくらいで、若い平均的なデンマーク人にも縁遠い世界のようです。

グルントヴィの像

Vartov内を歩くと階段の踊り場に
グルントヴィの像などがさりげなくおいてあり
夜などはちょっとコワイ(笑)。

 とはいえ、それなりに関心をもつ若い世代もいて、今日はオーフスのジャーナリズム学校(ジャーナリスト養成の専門学校で卒業生の多くは新聞記者や雑誌記者になる)の学生(といっても前は学校教員をしていた人)の取材を受けました。2年前も同じ学校のデンマーク人に日本で取材を受け、それはホイスコーレの機関紙Hoejskole Bladet 2001年10月12日号に記事となって載っています。そういえばこの記事は主として日本の教育問題について書いているので、協会関係者では主として藤森修一さんにスポットが当たっていましたよ!。

 今回の取材は、デンマーク人にはすっかり当たり前になって新鮮味が薄れたホイスコーレやグルントヴィ・ムーブメントの伝統を、日本人がなぜ注目しているのかを明らかにし、そのことでもう一度デンマーク人にとっても意義あるものとして見直させるのが狙いといってました。いわば外圧?利用というわけですね。この記事もHoejskole Bladetに載るそうで、この雑誌は広く読まれていますから、ホイスコーレ関係者のみならずグルントヴィ・ムーブメントに属する人はすべて読むことは間違いないようです。

Hoejskole Bladet

当会の記事が載っているHoejskole Bladet

 26日には他にもOveが私を訪問し、彼はブラジルから来たAnne-marieを私に紹介するために来たそうです。Anne-marieは昔IPC(インターナショナル・ホイスコーレ)で教員を一年したそうで、今はブラジルで国際NGO、World Social Forumのメンバーとして活躍しています。協会の有力メンバーのウィンドファームの中村さんのことも紹介しておきました。日本、ブラジル、デンマークを結んで国際的な協力関係を保ちましょうと確認しました。

 最後にVartovのスタッフを紹介したWebページがあるので、それを紹介しておきましょう。

http://www.vartov.dk/medarbejdere.htm

Vartov自体は

http://www.vartov.dk/

 Hansは実際よりも老けて写ってますね。一見無愛想ですが、実は心暖かい人で、みなは典型的ユラン出身者だからといってます。Kirstenは写真での雰囲気通りとても優しく気配りに富んだ人で、彼女と話すときが一番ほっとします。Henrikはとてもきさくな人で話しやすく、彼だけがユランに住んで週に二度くらい通っています。Leseも写真映りが悪くなってますね。彼女はあまり英語が話せないので、私のデンマーク語のいい練習相手になっています。

 みなさん家族的でほんとうにいい人たちです。グルントヴィ・ムーブメントの人たち、ホイスコーレ・ピープルはいつも出会う度にそうでした。G君もいつかこの地でそのことを知ってほしいと思います。
 では、また。