Vartov 便り(2005年 2-3月版)
コペンハーゲン、ガムレ・ストラン
運河には氷が張っています。
  2005年は日本だけでなくデンマークも寒いようで、前回この時期に来たときよりも冷え込みが厳しかったように思います。

 2月21日夕方より、グルントヴィ運動の中心地ヴァートフに研究滞在をしていますが、ここに来れば必ずデンマークのホイスコーレ運動、エフタースクール運動の中心人物に会うことになります。今回もいろいろな出会いがありました。

ヴァートフの中庭
向こう側の建物にキェルケゴール研究センターが入る

 もともとは、歴史的な建物でもあるし、グルントヴィ図書館を個人で自由に使う特権をもらってゆっくり滞在し、日本での世俗的なせわしない生活の垢を落とそうと考えていたのですが、結局はいろいろな誘いや出会いへの招待を受けて、日本並みに多忙な日々となりました。

グルントヴィ図書館も一階に引っ越し中。
作業をする司書のリセロッテ

 ヴァートフでの変化は、まず歴史資料室が置かれたことです。以前はノルネサーレン(Nornesalen)というホイスコーレ・フリスクール運動の研究所に、様々な文書は保存されていましたが、これは閉鎖され、同じ場所に、今は「フリースクール情報研究センター(Videns- og studiecenter for Fri Skole)」が設置され、そこと並んでヴァートフにもヴァートフ・アーカイブが置かれたわけです。両者ともホイスコーレやエフタースクール、フリースクールなどの過去のホイスコーレ運動の資料、各学校の文書などを保管し、歴史史料センターとして位置づけられています。図書館と並んで、これでグルントヴィ運動関係の文書、史料が網羅されることになります。新たに専門スタッフとして、モーテン・モーテンセンが加わり、日々史料の整理、補修などをしています。

ヴァートフ事務局長のハンス(左)とモーテン(右)

 また数日前から「セーレン・キェルケゴール研究センター(Soeren Kierkegaard Forskningscenteret)」がここに移転して、引っ越し作業を行っていました。モーテンが親切にも女性スタッフに私の案内をお願いしてくれて、部外者禁止のキェルケゴール自身の書き込みなどある所蔵書文庫や研究室などを見せてくれました。ここは1997年から新全集を刊行しており、注目を集めています。前はコペンハーゲン大学に付設する形でしたが、完全に独立の研究所になったようです。大学行政に振り回されなくてすむということなのでしょう。

 キェルケゴール研究者は日本にも多いので、これからヴァートフに日本人研究者が訪れることが増えるでしょう。今までは私くらいしか日本人は来なかった(一時的な見学者、ツーリストは別として)そうですが。オーフス大学のグルントヴィ研究センターの責任者キム・アルネによれば、キェルケゴールの新全集が完結すれば、グルントヴィ研究センター、グルントヴィ協会(本家デンマークの協会。正式名称は「1947年9月8日設立のグルントヴィ協会」「グルントヴィ研究」という論集を年一回発行し、様々な研究会、国際大会を開く)と協力して、グルントヴィの新しい著作集を編集するかもしれないとのことです。これでヴァートフには、グルントヴィとキェルケゴールの二つのセンターが同居することになり、いよいよデンマークの精神的中心地となってしまいます。

キェルケゴール研究センターの図書館(まだ準備中)

 ホイスコーレの最近の状況は、ホイスコーレ協会の副事務局長のトーアと話したときに教えてくれました。彼とは10年ぶりくらいの再会です。その頃はヴァレキレ・ホイスコーレの教員でした。

 ホイスコーレはかつて100校程度あったものが、今は80校程度に減っています。ホイスコーレ学生に出ていた奨学金がなくなり、コンピュータ学校などに優先的に回されたり、ホイスコーレに行けば大学進学時に有利になる制度が廃止されるなどの状況の変化もあり、経営難などで閉鎖に追い込まれるところが目立ったのです。とくに3年前に中道保守の今のラスムッセン内閣になってからが顕著でした。この危機の時代を迎えて、ホイスコーレは大討論会を昨年行うなど、議論を重ねて時代への対応を模索してきました。伝統派と改革派の対立もかなりありましたが、ようやくコンセンサスを得て、ホイスコーレ全体で時代への対応を始めました。

 それは、試験や資格付与をいっさいしないというグルントヴィの伝統を少し改め、ホイスコーレでの学びが、大学や専門学校での単位振替になるという制度を受け入れることから始まりました。伝統的なグルントヴィ派はこの資格付与、単位交換に反対をし続けましたが、実は過去にもホイスコーレが専門学校として試験や卒業資格を与えていた事実は多くあり、文字通り温故知新で変化を成し遂げたのです。これにはエフタースクールが、二十年ほど前に第10学年以外に第8,第9学年も設置し、完全に公教育の一環として位置づけられ、それ以後例を見ない大躍進を遂げたことも反映しています。

ホイスコーレ協会のあるホイスコーレ・フス

 エフタースクール協会の主要スタッフでかつてはホイスコーレ協会のスタッフであったオレ・ボルゴーは旧知の人ですが、彼に聞くと、「ホイスコーレはカリスマが多く、議論がまとまらない。エフタースクールの人間は実際的な人が多く、思想を振りかざすよりも実践を重んじるから、時代への対応は早いよ」とのこと。

 たしかに、ホイスコーレ出身者は、それこそ協会になじみの深いオヴェ・コースゴールを初めとして、デンマークを代表する知識人になっている人が多くいます。ヴァートフでは今毎週木曜日に連続講演会をしていますが、講師はニールス・ホイルンドで、元リュ・ホイスコーレの校長、その後テレビの論説委員などをして、言論界の重鎮になっています。かつてはデンマークではホイスコーレの校長は下手な大学教授よりも尊敬されたという伝統がありましたが、校長経験者が各界の言論リーダーになっていたり、研究員として一流の業績を挙げているのを見ても、この伝統の力を感じることがままあります。でも、それが逆に「船頭多くして船山に登る」的な状況を招いていたのかもしれません。

 ある程度時代の変化を受け入れて存続するのがホイスコーレの伝統ですから、この変化も生きた伝統の証かもしれません。トーアによれば、少子化で学生の数はたしかに減ったが、ホイスコーレに来る若者の世代の人数との比率でいえば、つねに7〜8パーセントで変化はほとんどないそうです。そういう意味では、いろいろと不利な状況の中で、数値的には維持しているのは、授業内容などの質は相当健闘しているからではないかとのこと。

 またグローバリズムの時代にあって、国際的な関係はますます重要になるので、アフリカ、バングラデシュ、バルト三国などを初めとして、国際協力、支援をますます重視していきたいと語っていました。日本との関係もますます充実したものにしたいということでした。グルントヴィ協会ももちろんその中の一つです。

 ホイスコーレ運動になりゆきで関係して、15年くらいたちますが、その間に出会ったホイスコーレ・ピープルはデンマークではみな重要な地位になり、日本では取るに足りない一介の市民にすぎない私が、デンマークでは新聞などで名を知られた人々と気安く話したり、歓迎してもらえたりします。これもデンマークのホイスコーレ運動の風通しのよさ(日本での肩書きの重さ、バックにしている組織の大きさだけで人を判断しない。もちろんデンマークでも肩書きがいいのに越したことはありませんが、必ずしもそれだけではないということ)であり、魅力の一つなのでしょう。

参考

2002年2月28日の便り

2002年3月5日の便り

2002年3月7日の便り

2002年3月12日の便り

2002年3月15日の便り

Vartov便り番外編

清水 満のデンマーク報告2>