本名=薄田淳介(すすきだ・じゅんすけ)  
明治10年5月19日—昭和20年10月9日   
享年68歳(至誠泣菫居士)  
岡山県倉敷市連島町連島1284 薄田家墓所 
 
  
                   
                    
                    詩人。岡山県生。旧制第一岡山中学校(現・岡山朝日高等学校)中退。明治32年処女詩集『暮笛集』を出版して詩人として知られ、雑誌『小天地』主幹となり、『明星』の客員ともなる。34年第二詩集『ゆく春』も好評を博した。島崎藤村去った後の詩壇一人者として名声を得た。『二十五弦』『白玉姫』『白羊宮』などがある。 
                     
   
                   
                                       
                     
                   
                   
                   
                  わがゆくかたは、月明りさし入るなべに、  
                    さはら木は腕だるげに伏し沈み、  
                    赤目柏はしのび音に葉ぞ泣きそぼち、  
                    石楠花は息づく深山、----『寂静』と、  
                    『沈黙』のあぐむ森ならじ。  
                  わがゆくかたは、野胡桃の実は笑みこぼれ、  
                    黄金なす柑子は枝にたわわなる  
                    新墾小野のあらき畑、草くだものの  
                    醸酒は小甕にかをる、----『休息』と、  
                    『うまし宴会』の場ならじ。  
                  わがゆくかたは、末枯の葦の葉ごしに、  
                    爛眼の入日の日ざしひたひたと、  
                    水錆の面にまたたくに見ぞ酔ひしれて、  
                    姥鷺はさしぐむ水沼、----『歎かひ』と、  
                    『追懐』のすむ郷ならじ。  
                  わがゆくかたは、八百合の潮ざゐどよむ  
                    遠つ海や、----あゝ、朝発き、水脈曳の  
                    神こそ立てれ、荒御魂、勇魚とる子が  
                    日黒みの広き肩して、いざ『慈悲』と、  
                    『努力』の帆をと呼びたまふ。  
                  (わがゆく海)  
                   
                   
                   
                    
                   「ああ 大和にしあらましかば、いま神無月、うは葉散り透く神無備の森の小径を」と歌った薄田泣菫は、島崎藤村、土井晩翠らが去ったあとの明治後期の詩壇を受け継ぎ、蒲原有明とともに象徴派詩人として泣菫・有明の一時代を築いた。大正に入ったころから『茶話』『艸木虫魚』など随筆の腕をふるうようになって詩作からは自ずと離れていった。 
                     大正6年に患ったパーキンソン氏病は徐々に悪化していき、晩年は妻に支えられて口述筆記に頼らざるを得なくなってしまった。 
                     敗戦後の昭和20年10月4日、意識不明になって疎開先の岡山県井原町から浅口郡大江連島村(現・倉敷市連島町)の生家に帰ってきたのだが、まもなくの9日午後7時、尿毒症により死去した。 
                   
                   
                   
                    
                   倉敷市連島町厄神社境内にある備前焼の陶板に焼き込まれた〈ああ 大和にしあらましかば〉の詩碑は、6枚の屏風型の御影石で建てられており、生家は一般に公開されて書簡や詩集、自筆の書などの資料を見ることができる。 
                     今は他家の所有となっている生家の裏山、中腹に見える小御堂の横道をのぼっていく。嵐か何かで、半ば横たわりかけた樫の木を背を丸めてくぐり抜けると、崩れ落ちた土塀を背にした薄田家一族の墓が並んでいる。 
                     「薄田泣菫君之墓/幽芳書」は、右側面に「友みなに離れて露けき吉備の野に君はさびしく一人去りしか」と新聞小説家として活躍した菊池幽芳の筆を刻み、風を遮り、陽をやり過ごし、苔むした霊土の上に寂黙として建っていた。 
                     
                     
                   
                   
                    
                    
                    
                    
                    
                    
                    
                      
                    
                    
                    
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