本名=杉浦明平(すぎうら・みんぺい)
大正2年6月9日—平成13年3月14日
享年87歳(文光院釈明道)
愛知県田原市折立町西原畑 共同墓地
小説家・評論家。愛知県生。東京帝国大学卒。立原道造と旧制第一高等学校の短歌会で知り合い、共に同人誌『未成年』を発行。大学卒業後イタリア・ルネッサンスの研究に没頭。戦後、郷里渥美半島に定住。『小説渡辺華山』で毎日出版文化賞受賞。ほかに『ノリソダ騒動記』『養蜂記』『老いの一徹、草むしり』などがある。

ところで、わたしは、もし霊魂が永遠不滅なものだったら、死後、どこへいってしまうのだろう、と考えてみることがある。何兆光年かなたの新しい星にでも舞ってゆくのか、それとも地球
のまわりの空中にただよっているのだろうか。人間に魂があるなら犬や猫やのみや、ひょっとしたら草や木まで霊魂をもっていると考える方がよい。だが、そうなると、空中にはありとあらゆる種類の魂が、うようよただよって、おたがいに入りまじり、ごちゃごちゃになって、何か何だかわからなくなってこまっているだろう。
あるいは仏教でいうように、輪廻転生がおこなわれるとしたら、どうだろう。このわたしは、
何千年前に死んだだれかの生まれかわりかもしれない。そしてわたしは、何百年後にだれかに生まれかわるかもしれない、が、どちらにしても、そのことが意識されないかぎり、生まれかわりは、死滅とおなじく、だれにも何の意昧ももちえないのではないか。転生を信じて安心しえた昔の人は、幸福だったといえよう。
こんなことを考えながら、わたしは墓地のあいだを歩くのが好きだ。夏になるとやぶ蚊が多くてかゆいことをのぞけば、冷たい石がものをいわずに立っているのが、わたしを何よりも落ちつかせるようだ。これらの石の下には、わたしと愛憎をかわした人々が眠っている。わたしがどんなに呼びかけても返事をしない。だが石の下にはわたしの知らぬ死人はもっとたくさんいるだろう。その一人一人が愛したり憎んだりして、長い短いそれぞれの生涯を終えて、ここの土にもどったのだ。そしていずれ愛した人、憎んだ人が死ねば、もう、その人々の記憶も消えてしまう。
そうなれば霊魂がもし空中にただよっても、生きた子孫や非子孫と何のかかわりもなくなるにちがいない。そのときこの永久に安らかな眠りと消滅とがかれらをおとずれるだろう。わたしたちもみなそうなるのだ。
墓石のあいだでは、そう考えても、あまり心簿即成らないのは不思議だ。石の冷たく、堅い光が私に安心を与えるのだろうか。
(墓地での安心感—私との対話—)
夭折した詩人立原道造の遺稿を編纂して世に出したのは学生時代の友人、杉浦明平であった。立原は24歳で亡くなったが、戦後、郷里に帰った杉浦明平は晴耕雨読をもっぱらとし、傍ら渥美半島を舞台とする優れた記録文学を発表していった。
80歳を過ぎてからは〈顧みれば、わたしの祖父母、父母、姉妹のうち、八十まで生きたものは一人もいない。といっても、これから二十年はもとより十年も生きられそうにない。いや、いつ死神が訪れても不思議ではない。じっさいこの二、三年のうちに体力、精神力とも、耄碌したか、自分でも分かっていて、余命いくばくもないなあと思っている。〉と語っていた。
平成13年3月14日午後6時23分、脳梗塞のため死去するまで、その鋭い口舌が衰えることはなかった。
高速夜行バスの終点から、伊良湖岬に向かう一番バスに乗り継いで田原街道すじの折立という集落に降り立ったのは、半島の朝がようやくに明けた頃であった。明平の住居に近い正念寺という菩提寺の山門をくぐり、草むしりをはじめようとしていた女性に墓の在処を尋ねる。教えられたバイパス沿いの共同墓地、赤い前垂れをたらした六地蔵が並ぶお堂の先には「杉浦家」の墓がやたらと多い。「杉浦家墳墓」、側面に「文光院釋明道」俗名明平とあるのが目に入る。
バイパスを走るトラックがけたたましい警笛をならして過ぎ去ると〈若いころから過去をできるだけ早く忘却の淵の底に沈めることを旨として生きてきた〉作家の碑が朝焼けの空にはっきりと浮かび始めた。
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