本名=伊藤桂一(いとう・けいいち)
大正6年8月23日—平成28年10月29日
享年99歳(浄誠院詞誉慈観桂徳居士)
滋賀県大津市馬場2丁目12-62 竜ヶ岡俳人墓地
小説家・詩人。三重県生。旧・世田谷中学校卒。習志野の騎兵連隊に入隊し、一兵卒として中国大陸に赴き七年近くを過ごす。戦後は戦争体験を生かした戦記物を多く書き、昭和37年『螢の河』で直木賞、59年『静かなノモンハン』で芸術選奨、吉川英治文学賞を受賞。ほかに『悲しき戦記』『遙かな戦場』詩集『ある年の念頭の所感』『竹の思想』などがある。

いちばんはじめにその眼を見た時、かすかな驚きが、次第に昂まりながら、やがて、言い難い恍惚に移っていったのを私は覚えている。それはふしぎな静かさを湛えた、透明な湖の肌を想わせた。なにかが此処に仕舞われている、誰も知らない美しい秘密のようなものが、と、まだ若く豊かだった私の抒情に愬えてくるものがしきりだったのだ。或いは私は、深い潤いを帯びたその眼のなかに、私がこの世でたったひとりだけを恋い得る、無限の憂愁と憧憬に満たされた、異性を見出していたのかもしれなかった。
その眼はいつでも純一に素直に、死ぬ間際にもちゃんと空や雲やあるかなしの草木を映したまま、無心にみひらかれていた。いささかも不満を愬えず、課された運命の道を、実に愚かなほどの従順さで生きて行くことの価値を、遠い北辺の一角にいて私はその眼から学んだ。そうしてそんなとき私は、私が人間の世界をやや離脱しかけ、ふと、その美しい眼のもつ意昧に近づきかけているのをしばしば感じることができたのであった。
(雲と植物の世界)
〈戦争や死についての批判などというものは、それらの危険を離れた安全な場にいる者だけの贅沢な思想だった。風土や環境の烈しさの中で息切れしている身にとっては、その風土や環境と、どのように調和し切るかだけが問題だった。ぼくは枯草のように、これ以上はどうにもならない究極の姿勢で、山肌に密着して生きることを念願するようになった。〉と述べた『静かなノモンハン』などの叙情あふれる戦記小説で知られる伊藤桂一は平成28年10月29日午前4時20分、老衰のため神戸市灘区の老人ホームで死去。お別れの会は12月6日、中谷孝雄のあとを次いで庵主となった無名庵がある大津市の義仲寺でおこなわれた。
〈そう深刻に考えず、かりに、死ねばその場の草木に魂を宿らせればよい、全ては運命である、運命を肯定し、死の時の来ない限り、一日ずつを明るく向日的に生きよう〉との死生観を自らに教えた伊藤桂一の分骨は、お別れの会がおこなわれた義仲寺至近の膳所駅南、国道一号線沿いにある松尾芭蕉の門人内藤丈草が晩年を過ごした仏幻庵の跡地、竜ヶ岡俳人墓地の夾竹桃の生垣を背にし、赤みを帯びてこぢんまりとした自然石の「桂一」墓に納まっている。自筆年譜に〈妻のほか係累一切ないので死後は無縁墓地となる〉と書いた伊藤家の菩提寺である大船・黙仙寺の墓は、もう無縁墓地となってしまっているのだろうか。
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