本名=石川 一(いしかわ・はじめ)
明治19年2月20日—明治45年4月13日
享年26歳(琢木居士)❖啄木忌
北海道函館市住吉町地先 立待岬共同墓地
歌人・詩人。岩手県生。旧制盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)中退。明治35年中学中退後上京、与謝野鉄幹らの新詩社に参加したが、病を得て帰郷、37年再度上京、翌年処女詩集『あこがれ』を刊行。40年から北海道放浪生活。41年3度目の上京、詩、短歌、評論などを発表した。『一握の砂』『悲しき玩具』『呼び子と口笛』などがある。

われは知る、テロリストの
かなしき心を------
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を-----
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。
はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。
(ココアのひと匙)
東京の桜は散り始めているが、ふるさと渋民村の桜はもう咲き始めたであろうか。思いもかけずさまよい続けたものだ。こんなつもりではなかった。なんとしても功成り名を遂げるはずだった。
——明治45年4月15日、土岐善麿の生家・浅草松清町の等光寺で、与謝野鉄幹のいう〈貴公子の如き寛濶をも、いたずらつ兒のやうな茶気をも、品の好い反抗心をも持つた〉琢木の葬儀が行われた。
3月に母が逝き、この13日朝9時30分、小石川久堅町(現・文京区小石川)の貧困と哀しみの家で、父一禎、妻節子、友人若山牧水に看取られ、肺結核に斃れた啄木には、何の光も見えなかっただろう。翌年5月には二人の愛児をのこし、節子も同じ病によって26歳の若さで逝くこととなる。
南に向かって立待岬に至るこの坂道は、函館市共同墓地を分断して岬の空に消えている。ぼんやりと眼下に広がるいまだ目覚めぬ函館の市街地、穏やかな晩夏の早朝、大森浜の防波堤に小波は時を刻み、数羽のカモメが舞っている。
金田一京助とともに啄木を支えた函館の人・宮崎郁雨によって建てられた琢木夫妻と24歳と19歳で亡くなった長女・次女、両親の眠る「琢木一族墓」は、坂道をのぼり詰めた場所で眺めている。途絶えてしまった琢木の血に悔恨を残して、たった4か月しか滞在しなかったにもかかわらず「死ぬ時は函館に行って死ぬ」と懐かしんだ街を。岬をめざす旅人を。
——〈いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ〉。
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