我が家は大部分の空間を家具で間仕切るという居間構成になっており、さして広くはない空間をなんとか有効にと思いつくたび、年に数回となく模様替えをしています。特に私個人のベッドの位置にはこだわりがあって、ついこの間の模様替えではチャイニーズアンティークの寝台のように正面左右に天然木材のアジアン風パーティション、中央に置いた台座を一段踏んで上がる設計で通常より少し高くしてあり、それを東側の窓際にぴったりと設えつけているので、寝台で横になったまま顔を窓側に向けさえすれば労せずして外の景色が見えるようになっているのです。就寝前には窓外にまばたく燈火や意外に近く見えるスカイツリーの照明がマリンブルーから、桜色、黄色、紫、白、グリーン、刻一刻と色変わりするのを睡眠薬代わりにしています。目覚めのほんのひとときには薄明の空が白みがかった青から白に変わり、やがて明るい黄紅色になってゆくさまを眺めてはゆったりとした平穏な目覚めを楽しんでいます。  
                      
                     
                    まことに外の景色が見えない状態はすこぶる息苦しく、不安なもので、窓に掛けられたカーテンを私はどうしても好きになれません。窓は遮ることなく大きく開けておくべきだという想いが私の裡に芽生え始めたのはさほど昔のことではありません。せいぜいこの十年かそこいらのこと、たぶん人生の大方をあてどなく歩きまわりながら、ついには定かな居場所さえ見つけられなかった人間の戯言なのでしょう。音も光も消えてしまったかのような奥深い森の中に迷いこんだまま堂々巡りをしていた青年期からは、もうすでに半世紀を数えてしまいましたが、この年齢になって、何を見るでもなく唯ぼんやりと窓の外を眺めていると、長い間忘れてしまっていた来し方の記憶が水底から見上げた水面に漂う空のようにゆらゆらと瞼に甦ってくるのです。そしてまた空から水底へ、水底から空へと。  
                   開戦から二十年弱を経てベトナム戦争が終結した年の元日、暮れから十日ほど滞在していた旧中仙道の宿場奈良井の宿をぬけ出して、まだ明けやらぬ九十九折りの急坂を鳥居峠にある御嶽神社を目指して登っていったことがありました。菊池寛の名作「恩讐の彼方に」の舞台にもなった峠道には数日前に降った雪が相当に残っており、宿で借りた長靴も雪に足を取られて思うように歩くことができず難儀極まりない行程だったのですが、どうにかこうにか辿り着いた神社の軒下で一休みしていると、藪原宿の方から上ってきたと思われる老人から声をかけられたのです。  
                   「どちらから」  
                     「奈良井宿から」  
                     一言一言のやりとりの後、「年のはじめに峠で会った人と酒を酌み交わすのが楽しみで」と酒器を差し出されました。  
                     「いやぁ、私は下戸で」  
                     「これも何かの縁で、一口だけ」  
                     奈良井宿から登ってきた私と  
                     藪原宿から登ってきた老人と  
                     鳥居峠の一期一会でありました。  
                   しばらくとりとめもなく話したあと、藪原の伝統的工芸品であるお六櫛をつくっているというその老人は「それでは良いお年を」と言い残して峠を下りていかれたのですが、己の迷いの中に青白く浮かんで、つかの間に消えていった老人の後ろ姿が数十年を経た今となってもときおり思い出されてきます。  
                   酌み交わした酒の苦さも  
                     隣り合わせの生と死も  
                     二人だけの企みも  
                     あの小さな境内の鳥居の基盤に  
                     しっかりと刻んできたのだが……  
                   ああそれから  
                     いつかまた再会できたら  
                     きっと耳元でささやいてみよう  
                     「ところでお名前は」  
                   「どうも……いや、すっかり忘れてしまいました」  
                    
                   経年とともに体力は無論のこと、記憶力もかなりあやふやなものになってきましたが、不思議なことに、青年期の放浪や掃苔の旅によって出会ったさまざまな人々との出会いや会話は幾年たっても忘れることはなく、ふとしたきっかけで鮮明に甦ってくるのです。 
                     
                    「左川ちか」の取材でお世話になった北海道余市のTさん 
                     
                    「素木しづ」の取材でお世話になった中津市西光寺のご住職 
                     
                    「茨木のり子」の取材でお世話になった鶴岡市加茂浄禅寺のご住職 
                     
                    「長澤延子」の取材でお世話になった故新井淳一氏 
                     
                    「飯田蛇笏」の取材でお世話になった石和温泉駅前のタクシー運転手さん 
                     
                    京都法然院の取材でお世話になった女性墓守人 
                     
                    「芝不器男」「高橋新吉」の取材に四万十川沿いを宇和島まで丸一日つきあってくださった土佐中村のタクシー運転手さん 
                     
                    それぞれに印象深い方々ですが、御嶽神社の前で出会った老人や雪に埋もれた石碑群を思い浮かべるときはなぜかきまって「中城ふみ子」の墓の所在を帯広図書館に問い合わせたときに、館長からいただいた文面が胸に響いてくるのです。  
                      
                     〈北海道はまだまだ雪深こうございますので、簡単に墓所には赴けないと存じます。〉  
                    
                   もどかしいほど寂しくて  
                     長い長い迷路の中に  
                     音もなく流れるせせらぎの水面  
                     砕け散ったガラス片のような光の粒子の  
                     逆さまに映った空に  
                     夢のたとえの無意味な罪悪  
                     山椒の実ほどの辛さと痺れ  
                     かぞえるほどの眼差しの  
                     風を鳴らしつつ  
                     若葉を濡らしつつ  
                     想いを宿しつつ  
                     川辺の沈黙を破って一匹の水魚が跳ねた  
                     
                   
                    昨年は坂上弘、高橋三千綱、山本文緒、半藤一利などに加えて立花隆や瀬戸内寂聴の訃報を聞き、大いに衝撃を受けたものでしたが、今年に入っても2月1日に石原慎太郎が、2月5日に西村賢太が、2月27日に稲畑汀子が、2月28日に大谷羊太郎が、3月3日に西村京太郎が、3月7日に清水哲男が相次いで逝ってしまいました。それぞれに観念、あるいは覚悟の、もしくは不意打ちの最期であったかも知れませんが、この世の夢から目覚めさせてくれる潔さと少しばかりの悲劇を併せ持った一瞬のときを感じながら、ひやひやとした風にのって遠く、西の果ての山稜の彼方に。  
                   曇天の日にこそ瞑目すべし。  
  
                    
                    
                    
                    
                    
                    
                    
                    
                    
                    
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