播州の空にはいつの時も青い輪郭を満たした正午の陽があった。
夢前川の支流にかかる橋の袂、三叉路の停留所を降り立つと山襞に囲まれた白く輝くちっぽけな故郷がひろがっている。記憶の風が運んだ一滴の空白の中に浮かび上がる水たまりの風景。まっすぐな道が振り返りもせず次の集落に消えようとしている。幼き日に透る学舎は正面の丘に還り、左に折れた細道は何十枚かの田圃に沿って意志を伝える。土塀のある一軒の家、小川の木橋、五月の木漏れ日、古びれた菩提寺、峠の池、石鳥居のある参道、現れては逃げ込む集落、哀しみ、愛おしみ、あるいは心のかたちのまま巡らされる挿話。佇み、そののち揺曳する回廊の感傷。やがては儀式がはじまり、儀式はおわる。
このごろ、しきりと故郷の夢を見ています。
両親も遠に亡く、訪れることもない故郷なのですが、信じることの確かさがそこには溢れていたように思います。頑なな希望であるのかも知れませんが、これを望郷というのでしょうか。
誰もが知っている室生犀星の「小景異情」の一節
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
この詩はいわゆる望郷の詩ではないのですが、これから目指すみやこへの熱き決意を込めた故郷との訣別、詠嘆の心が、帰るべき場所を求めて彷徨う無防備な魂に望郷の抒情を誘って愛誦されたのでしょう。
陸から飛びたち海面をすべり、空に向かって吹き越えてゆく風は一枚の帆を孕ませ、作家は数限りない「故郷」を描きます。訣別、愛惜、憎悪、慈悲、追憶、どれをとっても繋がるのは慕わしい自身の証でありましょう。
今回掲載した北園克衛も故郷を想います。
丘をのぼり
をかをくだり
冬枯れの野は
寂莫とつづいてゐた
朔風が
茨と石と
ぼくのゆくてを
吹いてゐた
ふる里は
山嶽のかなた
雪にみちて
はてしなく離れてゐた
わづかに
土の橋をすぎ
僕のおもひも蕭条としてゐた
ちひさく風にむかってゐた
北園の故郷は三重県度会郡四郷村大字朝熊四六番屋敷。
すべての魂は朝熊に還るといわれた聖地「朝熊山」の山麓、みやこを目指し、帰ることのなかった北園の生家に今、人影も無いといいます。
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