「エンタープライズ・カルチャー」視点から「創業」の機運を再評価する

社団法人中小企業研究センター編
『「創業」と「エンタープライズ・カルチャー」の研究』報告書(1996年刊)から




 いま、わが国では「開業率」の低下と中小企業部門の衰退傾向に直面して、「中小企業の創造的事業活動の支援に関する法律」制定をはじめ、「創業支援」がブームとなっています。こうしたとりくみは主に、資金面や技術面、情報面などの支援に向けられていますが、自ら事業をおこし、リスクとチャンスに挑戦する「主体」が生まれる、文化的・社会的機運が高まることなくして、「お膳立て」だけすすんでも、状況は大きく変わるものではありません。


 中小企業部門の活性化と新規開業支援の経験をすでに数多く積んできた欧米では、そうした意味から、enterprise culture という概念が広く用いられています。わが国の今日での「文化状況」を理解し、「多様性のなかの選択」の機会としての「起業家への道」が開かれるような機運と環境づくりの可能性を、「エンタープライズ・カルチャー」の実情とその変革の方向を通じて、探っていくことが必要ではないでしょうか。






社団法人中小企業研究センター編
『「創業」と「エンタープライズ・カルチャー」の研究』報告書




 研究委員<担当.三井逸友(駒澤大学)、福田敦(東京都商工指導所)、須藤均(中小企業研究センター -当時-)>



はじめに −−「エンタープライズ・カルチャー」の研究の意義とねらい





 我が国においては近年、長期不況と円高・海外生産化や市場変化、規制緩和などのもとで、中小企業の当面する困難への新たな対応が求められる一方、開業率の低下による中小企業部門全体の衰退の傾向に警鐘が鳴らされている。他方また、構造転換期の産業構造の再編成と、次代を担う新産業部門の創出、経済の活性化とイノベーション促進を展望して、新企業新事業活動の展開に熱い期待が寄せられ、創業支援、新事業支援やベンチャー企業育成策がさまざま展開されるようになっている。

 こうした動きのもとで、新企業新事業を担う企業家の性格と役割、企業家育成と支援策の可能性が活発に論じられ、厳しい経営環境下にも果敢に飛躍を期している企業家たちの特徴や経営展開の実態についても、詳しい調査研究などが多数見られるようになった。これは新たな動きとして大いに注目できるが、日本では研究面でも政策面でも従来は蓄積の乏しい分野であり、まだまだ焦点は定まっていない観もある。


 これに対し、70年代後半以来経済不振の克服と産業の競争力の強化、失業問題の解決に試行錯誤を重ねてきた欧米諸国、特に西ヨーロッパでは、中小企業部門の活性化を期し、創業促進策などを各分野で広く展開してきている。その中では、近年「エンタープライズ・カルチャー」(enterprise culture)という語が頻繁に登場しているのが特徴である。これは、いわゆる「企業の文化支援活動」という意味ではなく、また企業構成員の共有する価値観や行動といった意味での「企業文化」(コーポレイト・カルチャー)の概念とも異なっている。強いて言えば、企業家を広く生み出すような、社会のうちでの文化的な土壌と機運の醸成と、企業家に必要な知識やマインドの普及状況、さらには制度的枠組みの整備を指すものであり、「起業文化」、「文化としての企業経営」、「企業家的素養」とでも表現できる。この概念は、特に米国でよく用いられ、日本でもなじみの深い「企業家精神」(entrepreneurship)の語と共通するものをもちながら、さらに幅広い内容を含む表現であると言える。

 企業の活力を生み出すものは、経済的環境条件だけでもなければ、単純な意味での物的経営資源だけではない。人間の活動は優れて文化的であり、またその文化状況の影響を強く受けている。企業家の形成と企業家活動は、「文化」の視点からも注目できるのである。このような視点で、日本の中小企業とこれを担ってきた企業家たちを分析検討し、社会のもつ「起業文化」的機運と仕組みとのかかわりを考えることの意味は、今日きわめて大きいだろうが、そのような研究や議論はまだ数少ない。

こうした「起業文化」は、中小企業の大量開業が続いてきた戦後日本では元来相当に高く、広く存在していたと見ることもできる。しかし今日では、社会的経済的背景が大きく変化してくるなかで、起業と企業家への認識と期待が低下し、起業の機運と仕組みが効果を示さなくなり、中小企業の開業は減少し、エンタープライズ・カルチャーの存在が問いなおされる事態になってきているということができる。


 エンタープライズ・カルチャーの所在を求めるべき対象は、広義には社会全般の精神的文化的風土と生活様式、職業観や人間行動の構造と特徴であるとともに、これらに大きな影響を与えている教育やマスメディア、芸術作品、学術、さらに法制的仕組みや慣行などにあるだろう。また現存する大企業・中小企業も、それ自体が企業家を育てる文化的存在であり続けてきたと考えられる。こうした幅広い領域をエンタープライズ・カルチャーの視角でとらえていくのは決して容易ではないが、わが国では従来注目されなかった未知の観点であるだけに、新しい研究が待たれる分野である。

 本研究では、こうした非常に広範で学際的な分野を一挙に、総合的に検討解明しようとするものではない。あくまで現実の中小企業経営とこれを担っている企業家たちの姿を、経営的のみならず文化的側面からも解き明かし、「創業」とは何であるのか、何がそれをもたらし、また将来性ある企業経営を支えてきているのか、こうした実態を研究することに主なねらいがある。そこからまた、我が国でのエンタープライズ・カルチャーの特徴と位相、創業の文化的意味と背景、そしてそこに生じている文化的変化を明らかにして、「現代日本のエンタープライズ・カルチャー」のあらたな定着の可能性を考えることをめざしている。


 この報告書の第1章では、すでにあげた「エンタープライズ・カルチャー」という概念を、欧米の議論の文脈のなかから取りあげ、その意味するところをあらためて詳しく検討し、これを手がかりにしながら、今日「エンタープライズ・カルチャー」を一般的に論じるのに求められる視点と方法を新たに提起している。「文化」と人間のもつ価値観・行動様式・知識体系との関係が重要であり、「企業家の形成過程」のうちで、文化的ファクターがどのようにして個々の人々の意思決定と行動に影響し、反映されてくるのかを見るという視点が示される。企業家的能力と行動の主な構成要素となっているものは、「価値観」(フィロソフィー)、「ビジネスセンス」(事業感覚)、「ビジネススキル」(知識・方法)、「ビジネスタレント」(適応能力)である。


 第2章では、今回の事例調査の対象とした、20社の中小企業とそれらを担ってきた企業家の方々に対する詳しい面接調査をもとにして、創業の背景と意識、取り組みの過程を比較研究している。基本的な注目点は、企業家のライフヒストリーのうちでの、価値観と意思形成における文化的背景および、うえにあげたような企業家的能力獲得へのキャリア形成過程にある。この中で、文化的側面から、戦後日本の企業家形成のパターンにおける4つの類型、自営伝統型、修業独立型、夢追求型、自己実現型といった違いが明らかにされ、80年代以降、経済発展と社会変化のもとで類型の変遷が迫られているが、それが容易にすすまない事情が示される。そして、企業家的能力の文化的核心が、ヒューマンリレーションとネットワーキングにあることが指摘され、こうした能力を獲得継承していく場と仕組みの重要性が強調されている。


     自動車メーカを作った男、光岡進氏とともに

 第3章では、企業家経営の形成以降の発展の軌跡を調査事例のうちからたどり、その特徴と可能性を検討している。起業をめぐる経済的・社会的・制度的状況と、その中で培われた企業家たちのフィロソフィーとマインド、経営能力、経営資源活用のあり方が示され、これにもとづき、企業経営が創業後に共通してたどる発展パターンとそのうちで遭遇する諸問題に対し、どのような形で解決と発展成長への筋道が導かれたのかを分析している。発展の決め手は広義の「情報処理能力」である。そのうえで、経営者、経営戦略、製品、マーケティング活動、経営管理、企業間関係の6つの要因の作用が、企業発展の各段階に応じてどのように発揮されているのかが指摘され、事例企業のそれぞれの特徴が整理されている。


 第4章では、2・3章の検討結果を受けて、今日の日本のエンタープライズ・カルチャーは重大な文化変動を経験してきたのであり、従来とも共通する普遍的要素をもちながらも、その位相と仕組みとが以前とは大きく異なり、そのため文化的側面での「断絶」状況を軽視できないことを指摘する。しかし新たな文化変動も展望できるのであり、人間性と主体性の復権、人間同士の出会いと自己確立、創造の過程で、多様性を基礎にした次代の「起業文化」が広がる展望のあること、そのきっかけとなるべき機会がさまざまあることをあげている。


 巻末には、事例調査の対象となった20社についての詳しいケーススタディが掲載されている。それぞれの企業は創業した時代や業種の特徴と違いを示しながらも、企業家的行動の生の経験と、数々の教訓を共通して提供している。起業には多くの困難と試練もあるが、きわめて人間的かつ個性的で、クリエーティヴでありまたエキサイティングであり、喜びと感動に満ちたプロセスであること、一つの文化的現象であることが事実のうちから明らかになってくる。まさしく「起業」は「文化」である。


 既に指摘したように、この調査報告書は創業の実態を研究する類書と同じような対象を扱い、共通する事実を報告しているが、独自の視角と観点から実態をとらえていることに特徴がある。もちろん、創業・企業経営と「文化」という切り口は、まだ我が国では十分議論されているものとはいえず、この報告書も試論と素描の域をこえるものとはいえない。政策的制度的なインプリケーションもあえて示してはいない。けれども、この報告書を手がかりとしてさまざまな議論や調査研究が活発におこり、創業支援と中小企業の活性化の新たな機運が導かれることを期待している。





*この報告書に関心のおありの方は、上記/中小企業研究センター(電話03-3567-4311、ファックス03-3562-0189、e-mail:chukiken@tpost1.netspace.or.jp)、または三井逸友へお問い合わせ下さい。


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