MONOLOGUE その2






その1  はじめに


 大学ってなんのため?  


「大学に入りたい」ひとは増え続けてきました。おかげで、われわれ大学教師も失業せずに給料がもらえているわけですが、残念ながら、その大学での「教育」の実情は、お寒い限りであることを否定できません。ですから、当世「大学改革」が流行となり、私もささやかながらそうした試みにかかわってもいるのです。でも、その見通しはやはり不透明ですし、「改革」の成果が目に見えて現れているという実感もまだ乏しく、時にはむなしい努力なのかという思いもしてきます。

 日本の中学校などでは、「登校拒否」(いまは「不登校」と言うそうですが)が深刻な問題となり、文部省も大騒ぎをしています。ところが大学では、学生の大部分が「不登校」状態です。でも、それをだれも不思議とも思いません。大学にはいるまでは、塾だ予備校だとあれほど「勉強熱心」であったはずの学生諸君が、入ってしまえば、一ヶ月に一冊の本も読まない、講義などの内容に何の関心も示さない、それでも何とか卒業できるという、「奇跡」とも言える状態が広く「常識化」しています。まあそれも青春時代のご愛敬などと笑って済ませられないことは、いまや日本の大学は世界の笑いモノになっているという事実からだけでもわかります。以前、「日本経済の成功」に驚いた世界の人々は、この成功を支えてきた「日本の教育システム」に注目し、日本の大学を羨望の目をもって見てくれたことがありましたが、すぐに化けの皮がはがれてしまいました。

 正直に言えば、大学も社会の一部であり、またその社会がつくりあげた「教育システム」の持つさまざまなしくみのはらむ問題を逃れることはできません。何より、いまの日本の「教育システム」では、大学への進学を目標とした、「偏差値」と「受験」による選別のメカニズムが強力に作用し、大学はその本来の「使命」をまっとうしようにも、どうにも動きがとれないありさまになっています。大学で「何を学ぶか、何を得られるか」より、「どこの大学に入るか」が優先してしまっているのです。そして、「世間」、とりわけ、「日本の経済システムの根本改革」にご熱心なはずの財界のお歴々が君臨する「大手企業」を先頭に、「どこの大学を出たか」でひとを選別する、世にも不思議な慣行がいまも大手を振ってまかり通っているのですから、いったい大学だけの努力で何ができるんだと、天を仰ぎたくもなります。


 いま、「大学改革」に熱心に取り組んでいる関係者の多くは、そうした現実にいつもぶちあたりながらも、せめても「大学の本旨」を守り、なおまた、「改革」の成果が、この「偏差値教育システム」と「社会的なスクリーニングのメカニズム」のうちでも、それなりの効用を発揮してくるのを願うばかりとなっているのです。ありていに言えば、「うちの大学の評価があがり、偏差値があがって、<いい学生>がおおぜい集まり、<就職が順調にいく>」ことをホンネの目標とせざるをえなくなっているのです。「大学冬の時代に生き残れる」ということが至上命題となり、こうしたホンネはたやすく共感を得られるわけです。たしかに、日本の大学は、学生が来なくなれば直ちにつぶれてしまうのですから。

 でも、そうした願いもなかなか順調には実現しません。マスコミの「話題性」「インパクト」で売った大学も、熱しやすくさめやすい無責任なマスコミの関心が薄れたころには、実際の「成果」の乏しさにため息をついているばかりです。 そうした「テクニック」ばかりに走るのではなく、大まじめで、愚直なまでに、「教育とは」、「学問とは」、また「大学にはなにができるのか」と問い続け、ほんの一歩ずつの努力を積み重ねようとする以外に、多くの大学と大学教師には、現実にできることはあまりないのです。なにをやるにも、先立つものはおカネであり、制度や組織の壁であり、時間のなさです。


 私は大学教師の端くれとして、この16年間のささやかな経験の中から、少しでも「教育の使命」を回復することはできないものかと考えてきました。そして、それが「大学改革」の数々の困難のなかでの、カネもモノもヒトもない、徒手空拳ゆえの「残された選択」という消極的な話しだけでなく、もっと根本的でまた大切な意味もあるのではないかと思っています。言うならば、「大学教育の原点」をもう一度探ってみようということなのです。それは自分の教育実践のうちでたえず問われていることでもありますし、さしておカネもかけずに試みていけることでもあります。

 大げさに言うほどのことでもありませんし、何のオリジナリティも新味もない、あたりまえに過ぎることです。「そんなことにも気づかないほど、あんたはいい加減な教師だったのか」といった失笑を買うおそれもあります。それでも自分なりには、意味あることだと考え続けているのです。それに、私自身、ン十年前はその大学での「教育」に接してきた学生の一人であったのであり、しかもはなはだ出来の悪い学生であったのですから、検討の材料としては、実感も反省も十分すぎるほどあります。

 その辺を、これから順次、書いて参ります。それを多くの方々に読んでいただき、いろいろご批判などしていただけると、私にも励みになります。さまざまなご意見、体験談歓迎です。


  ○次の第一章は、「大学教育の原点はまず、読み、書き、話すことだ」です。

      (第一章へ)



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