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清洲橋

清洲橋_夜景1
清洲橋_夜景 1(2015年1月14日追加)

隅田川大橋から撮りました。 ちょっと、イルミネーションというかライティングというかチープな印象を受けました。一方、スカイツリーの姿が奥に 浮かび上がっているのは良かったと思いました。
清洲橋_夜景2
清洲橋_夜景 2(2015年1月14日追加)

隅田川の西岸には、東京メトロの水天宮駅や人形町駅が有って徒歩5から10分程度で、この美しい夜景を鑑賞できるのですから、有り難いですよね。 隅田川大橋を西岸から東岸に渡ると、暗い街の雰囲気ですが、ちょっと頑張って歩けば門前仲町の粋な夜を楽しめるエリアに行けます。





清洲橋全景昭和初期には、「帝都の門」や「水路の帝都の門」といった見方が有って、第一橋梁が永代橋、第二橋梁が清洲橋ということで、対でデ ザイン、設計が考えられたようだ。
筋骨隆々とした男性美を想わせる永代橋に対して、清洲橋は、架橋当時から女性的な橋といわれていたそうだ。橋のデザインは、世界の美橋といわれたケルンの吊橋をモ デルにつくられた。当時の設計者は、このように対比的なデザインの橋を配置して帝都の入口を演出したのである。
確かに、永代橋の方が使われている鉄骨の量が清洲橋に比べ素人目にも多く重量感を感じるが、男性的とか女性的という性別イメージで橋を見るのは妥当なのか疑問を感 じる。吊り橋方式の橋が女性的というなら、新大橋や中央大橋もその線であろう。
昔は、水路、舟運、橋梁が、現代よりはるかに重要な物流手段、交通手段だったわけで、なるほど、「帝都の門」、都市の玄関だったのだろう。

参考図書;東京再発見(岩波新書) 伊東 孝 著(1993年5月20日 発行)


清洲橋上部
清洲橋と上流の新大橋の間で隅田川と小名木川が繋がっている。川どうしなので合流と書くべきところだろうと思うが、小名木川は一体流れている川なのだろう か?確か江戸時代に人が掘削して通した運河とのことだからだ。行徳で産出される塩を効率的に江戸に運ぶためだったそうだ。ここは芭蕉ゆかりの場所で、芭蕉庵が有っ た場所であり、奥の細道に旅立った起点でもある。芭蕉記 念館が近くにあり、また芭蕉庵史跡展望庭園には隅田川の方を向いた像が設置されている。もちろん、芭蕉の時代には清洲橋は存在しないのだが、俳句に詠まれている通 り、まことにもって美し景色 だったであろうことが想像できる。ましてや、隅田川の川面に月が映る夜はましてやであったであろう。

橋 は、それのみが存在するのではなく、両岸を繋ぎ双方の地域を、あるいは人々の生活を繋ぐのであるから、その度合いが強ければ強いほど存在価値が増すのであ る。この観点からすると、清澄庭園、清澄公園や深川江戸資料館など深川エリアと西側の浜町、水天宮および人形町など日本橋エリアを繋いでいる清洲橋は隅田 川にかかる橋梁群の主要メンバであろう。
これらの橋の生い立ちや所在する地域を知ることで江戸時代初期や古くは平安時代にタイムスリップすることができるのだろう。とりわけ、江戸の町人達の生活とそこで 生じる泣き笑いを生き生きと感じられることであろう。
そして、実際にこれらの橋を渡っていただき両岸の地域を訪ね歩いてみれば、さらに実感することができるのだと思う。


すっきりした、清洲橋上部。


吊り橋の支柱のクローズアップ。


照明のデザインは、架橋当時のままなのか。ほかの橋もそうだが、しゃれている。


橋桁が2つで、それぞれ2点で支えられているように見える。


清洲橋をモータボートが通過している。隅田川では、水上バスと屋形船がよく見られるが、レジャーボート が高速で走る姿もよく目にする。


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