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「自由からの逃走」伊東 良 (著)(東洋出版 2016年1月)

→目次など

■「自由」はあるのか■

本が好き!の献本として読みました。あちらでネタバレしたくなかったので、詳しく書けなかったことをここに記したいと思います。

主人公は入社2年目の証券マンですが、政治経済学部の学生時代にフロムの『自由からの逃走』をテーマとする論文を書いて入賞するという経歴を持ち、フロムの言う「への自由」について考え続けています。

フロムはナチズムを研究し、大衆が無自覚のうちに自由を与えられたことがナチズムに傾倒していく原因であるとし、自由には「〜からの自由」と「〜への自由」があるとします。「〜への自由」とは「個人が個人的な自我を喪失することなく個人的な自我を確立していて、思考や感情や感覚などの表現ができるような状態を意味する」とされています。 また、フロムの『自由からの逃走』は、性格の仕組みやメカニズムそして心理的な要因と社会的な要因の交互作用とはなにかどんなものかについての広範囲の研究の一部となっています。(Wikipediaより)

この小説でも、主人公の周囲で発生する現在および過去の出来事を通じて、性格やメカニズム、心理的な要因と社会的な要因の交互作用が検討されていきます。

たとえば、学校でいじめに会いながら母親には本当のことを言えず友達と遊んでいると嘘をつく主人公は、人が他者を思って本心を隠す心理を描いているように見えます。主人公の思い出の中で唯一輝いていたと思える中学時代に出会った親分肌の同級生は、頼りになる一方で怖さも秘めた指導者を思わせます。 いじめグループの中心となっている別の同級生には、恐怖で人々を支配する独裁者を演じさせているようです。

会社の同僚たちも、それぞれに強さと弱さ、卑怯なところと温かみのあるところを持ち、人の性格は単純ではないことや、立場に応じて行動が変る様子が描かれているようです。

最も重要な役割を与えられているのは、主人公を取り巻く「〜への自由」を体現する人々です。恋人の優子は、合格するとは思えなかった新聞社の入社試験に合格します。 主人公が獲得した賞を同じく獲得した学生は起業して話題になります。親分肌をした中学時代の同級生は弁護士になろうと苦学を続けています。


こうした人物たちを登場させて著者は次のように結論を出しています。

僕はあの時、フロムのいった"……への自由"という言葉の意味が初めてわかったような気がした。何かに向かう自由。 なりたいものなら何にでもなれる。 そう信じなければ、人間に何ができるというのだろう。 僕はこの世を独り善がりにも汚れたものだと思い込んでいた。 僕が見ていたその汚れた世界には悪魔の手先が徘徊し、地獄にひきずりおろす隙をうかがっている。 僕は、この悪魔の手先たちの存在ばかりに拘泥し、結局、最も大切なことを見落としてしまっていたのだ。 なぜ世界がそんなに汚れているんだろう。 いやなぜ汚れた世界しか見ようとしないんだろう。 最初から世界は汚れてなんかいない。 ただ汚れた部分が存在するだけなのだ。 その部分に拘泥するあまり世界のすべてが汚れていると勘違いしていた。 そして、そのために信じるということを忘れてしまっていたのだ。 この世界の可能性を、自分自身の可能性を…… - 564-565ページ

果たして私たちには「自由」があるのでしょうか、私たちは世界の可能性を信じることができるのでしょうか。

この問いに答えを出すには、そもそも人間とはどのような存在なのかを確認する必要がありそうです。

人類史のなかの定住革命』を読むと、ヒトほどの大きさを持つ哺乳類は、定住すること自体に無理があるようです。 このように大きな哺乳類が定住している例はありません。環境負荷が大きすぎるのです。 「悪しきものの一切から逃れ去り、それらの蓄積を防ぐ生活のシステムである」遊動をやめたとき、人々は悪しきもの一切をため込むようになりました。 もしかすると、定住すること自体が根本的な問題なのかもしれません。

はだかの起原』、『ピダハン』、『インディアンは手で話す』を読むと、言葉を使うということ、間接情報によって判断を下すということ、抽象概念を積み上げることの危険性がわかります。 大規模化した私たちの社会は、間接情報ばかりに囲まれており、ほとんどの人は実態を知ることなく自分の態度を決めています。

このことの危険性は『偽情報退散!マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』を読むとさらにはっきりしてきます。 情報源から直接情報を得ることのできない世界では、情報を制御し、特定の基準に合う情報を大量に流すことによって人の考えを操ることが可能なのです。

人とサルの違いがわかる本 ―知力から体力,感情力,社会力まで全部比較しました』を読むと、資源を巡る競争の激しいところほど、個体間の優劣が顕著であることがわかります。 この延長線上にあって、人類は、農耕の開始、貯蓄技術、お金の発明、そして金融や法の仕組みによって、ほんの一握りの人々に他の大多数の運命を握られるところまで来てしましました。 このような状況の中で、「〜への自由」を求める人々が目指すことを許されるのは、マスコミ、司法、起業という、この支配構造を強化するために役立っている職業ばかりです。

マスコミは世界に大きな影響を与えているほんの一握りの人々が許容する情報だけを流し、間接情報を流し、誤った問題解決方法を提示して、現在の体制の維持に役立っています。

司法も平等性などなく、あくまでも人々を従わせるための仕組みにすぎません。被害者は一生を費やして闘っても、人生の最後に納得のいかない和解を勝ち取るくらいしか許されません。

企業の営利活動は、世界に大きな影響を与えている一握りの人々の懐を肥やす仕組みになっています。しかも企業が大きくなった暁には、マスコミの手を借りたバッシング報道や、司法の手を借りた訴訟の果てに買い叩かれ、企業は人の手に渡ります。

宗教もまた、本来の状況とは大きく様子を変えています。『人間が好き』では人は産まれる前のことを知らないように死んだ後のことはわからないといいます。 ブッシュマンたちは、人は砂に帰るだけだといいます。ピダハンは川の向こう岸に精霊の姿を目撃し、アボリジニーたちは精霊が私たちの住むところを定めたとし、ピグミーは男たちが吹く筒の音を精霊の声であるといいます。 コリン・ターンブルが感じたように、私たちは現世に住む精霊たちを感じながら生きる存在であるはずなのです。

こうして調べていくと、人類は崇高な存在に至ろうと進歩している存在などではなく、利己的な存在である本質を否定して苦しみを増している存在であると思えてきます。

たとえば、医療は人を幸せにするでしょうか。 あきらめるしかなかった出来事をあきらめられない出来事に変えているのではないでしょうか。 人は今日を楽しむ代わりに、健康を心配し、医療費を心配し、誰かのための医療費を支払い、看護や介護を押しつけられているだけではないでしょうか。 医療もまた、大きな金儲けの場所になってもいます。 誰が、この動きをきちんと否定できるでしょうか。 非人道的だ、冷酷だと指摘され、非科学的だ悲観主義者だと否定されるだけではないでしょうか。 それでも人はいつか死ぬことに変りはなく、若返ることがないことに変りはないのです。

こうして、人間が動物の一種でしかないとわかったとき世界は姿を変えます。 この姿を変えた世界で、私たちの目の前に現れてくるのが狩猟採集社会です。

動物たちと同様であり、本書に登場する人々とも同様であるエゴイスティックな人々によって構成される社会がうまく機能するためにはどうすればよいか。 「世界のすべてが汚れていると勘違いしていた」と逃げるのではなく事実として「世界のすべてが汚れている」と同時に「世界には救いもある」と認識したならどんな答えが導かれるか。 その答えは、私たちと同じホモサピエンスである人々がその歴史の九割以上で続けてきた狩猟採集社会であるはずなのです。

狩猟採集社会の特徴に平等社会であるという点があります。強制力を持つリーダーはおらず、食物は配分されます。希少な道具を一人が長期間使用保持し続けることも避けられます。 しかもそれは利他主義からではなく、利己主義者たちであるからこそであるというのです。

このような社会について知り、人類史を遡り、動物たちについて知り、人体や心について知っていくと、現代社会における多くの価値観が否定されていきます。

私たちは、知恵によって何一つ根本的に変えてはいないのです。 月に人を送り込もうが、遺伝子操作をしようが、人が動物であるという事実は決して変っておらず、生物界の法則に従って生きることしかできません。 貨幣に縛られた社会生活を送るために大量の自動車が行き交う道路は、人の生を豊かになどしておらず、自然の中を歩きながら暮らしていたときに得ていた厳しくも豊かな経験を奪ったにすぎません。 自らの手で獣を殺し、足で食べ物を探し、寒さに耐えて暮らしていた人々が体験によって得ていたこの世界に関する認識を、人工環境に生きる私たちが同じように得ることはできません。 常に将来のために今を犠牲にして生きることを要求されていることに気づいたとしても、このがんじがらめの世界から、日々を精いっぱい生きていた世界に戻るすべはありません。

こうして、根本を問うとき、「〜への自由」という言葉は実体のない空虚な言葉となります。 私たちは他の動物たちと同じように動物としてしか生きられない存在でありながら、「もっとよくしよう」という人々の行為が、人々をがんじがらめの中に閉じ込めていきました。

地面に穴をあけることさえ避けて生き、地球が作りあげる世界に抱かれて生きる狩猟採集社会の人々は、私たちと同じ生物としての苦しみを経験しながらも、 この世界を信じていさえすれば万事大丈夫だと考えることができます。

そんな暮らしを奪って、人を幸福にしない経済活動のために生きろと強制するのが文明であり、「〜への自由」などという空虚な言葉を生みだす母体なのです。 この文明が子どもたちを学校に閉じ込めていじめを生みます。本書に描かれた幼少時の主人公の姿は、機能不全を示す父母の関係が生み出したアダルトチルドレンのようです。 文化と子育ては反比例するという言葉は、文化が進むほどにこのような状況がひどくなることを意味しているのでしょう。

人が「こうありたい」と願う心が文明を生み、人を苦しめる。一種の諦念を持って日々を精いっぱい暮らす狩猟採集者たちは人間らしい生き方をしている。これが答えであると私には思えるのです。

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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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