プッチーニ:『蝶々夫人』

第1章 初演失敗の真実

 
              Stage1904

1904年 ミラノ・スカラ座初演のための舞台美術スケッチ
(ミラノ、リコルディ歴史アーカイヴ)


 プッチーニの歌劇『蝶々夫人』は作曲家の全12作あるオペラの中でちょうど真ん中に位置する作品です。第1作目となる『妖精ヴィッリ』(1884年)から最後の『トゥーランドット』(1926年)の中の6番目(1904年)に位置する作品で、大喝采をもって迎えられた前作『トスカ』(1900年)でオペラ作曲家の位置を確立した直後に初演されたということになります。『蝶々夫人』の初演は、開演の2週間前に切符が全部売り切れるという状況下で1904年2月17日にイタリア人のクレオフォンテ・カンパニーニ指揮によってミラノのスカラ座で行なわれました。

 しかし、その初演はオペラ史上に残る惨憺たる失敗を喫したとされ、主役の「蝶々さん」を演じたソプラノ歌手ロジーナ・ストルキオは「拍手ひとつなく、舞台裏で泣き崩れた」とも伝えられています。この失敗の原因として、よく言われているのは、第2幕が休憩なしで90分近くも続き、観客は落ち着きを失い集中力が途切れたことや、プッチーニによる完成が遅れたためリハーサルに十分な時間が取れなかったこと、文化の異なる日本を題材にしているため観客が違和感を覚えたことなどが挙げられています。2月17日の夜に起こったこと、とりわけ野次についてはこんな有様だったされています。

 「第1幕、ヒロインが登場して最初のセリフを歌う場面では、『ラ・ボエーム』のアリア《わたしの名はミミ》とそっくりだといって、“そりゃボエームの台詞だよ!” という大声が上がった。
舞台裏からの隙間風でストルキオの着物の裾がふくらんでしまったとき、“蝶々さんは新重かい!” というヤジが飛んだ。
彼女が領事のところへ子供を連れて見せに行く段での哄笑と、“アンコール” という叫びが上がった。
幕間での夜明けのコーラスにティート・リコルディ演出による小鳥の鳴き声を入れたものの、野次馬たちの動物や小鳥の無分別な擬声の合唱が加わって引き起こされた大混乱。
これ以外の間はまったく無関心でしらけきって、最終幕が下りた後の口笛とブーイングの大嵐(『ジャコモ・プッチーニ、生涯と作品』ジュリアン・バッデン著 大平光雄訳 春秋社 2007年)。」

 また、リコルディ社は『ムジチェ・エ・ムジチスティ』誌3月号で次のように書いています。

 「うなり声、叫び声、うめき声、笑い声、くすくす笑い、そして観客をさらに興奮させるためのいつもの「bis」という短い掛け声。これらが、スカラ座の観客がジャコモ・プッチーニの新作に寄せた反応を要約したものです。…客席で繰り広げられた光景は、オペラの冒頭と全く同じように始まったため、舞台上と同様によく組織されているように見えました( New York City Opera Project: Madama Butterfly" by Chadwick Jenkins )。」

 動物や小鳥の鳴き声について、別の資料では、「最終場面で日の出の雰囲気を深めるために観客の中に数人のエキストラを配置してナイチンゲールの笛を鳴らすという演出でしたが、客席全体がさえずりを始め、さらに観客は他の動物の真似を始めて手に負えない状況になった( La Scala by Lorenzo Arruga 1975 Praeger Publishers )、と報告しています。


エドアルド・ソンツォーニョの妨害説
 プッチーニは「まさにリンチにあったようだった」と書いた手紙を銀行家のカミッロ・ボンディに送っていて、この客席での出来事を何者か(それが誰だったかは知らなかったが)によって仕組まれたものだと確信していました。その首謀者として有力視されているのは、音楽出版社のオーナー、エドアルド・ソンツォーニョとされています。ソンツォーニョはプッチーニの代理人を務めていたリコルディ社の競合相手であり、スカラ座の興行主も務めていた時はライバルであるリコルディ社が出版したオペラの上演を一切禁止していました。1903年2月、プッチーニは自動車事故で負傷し、その後の回復が遅れたことから『蝶々夫人』の初演が延期された際、ソンツォーニョは、その空白を埋めるために、ウンベルト・ジョルダーノの当時忘れ去られていたオペラ『シベリア』を上演し、その公演は成功を収めています(大衆受けはしないが批評家からは儀礼的な賛辞は得た)。ソンツォーニョは、そのビジネス手腕で知られており、自身の企画がプッチーニの新作によって影を薄くならないよう様々な手を打ったとし、音楽学校の学生らを集めて公演中に意図的にブーイングや野次を飛ばす群衆を組織し、プッチーニとリコルディの評判を落とそうと目論んだとされています。

 さらには、初日の惨敗に続く『蝶々夫人』の上演中止の後、新聞『イル・セコロ』に以下の記事が掲載されましたが、その新聞社のオーナーは他ならぬエドアルド・ソンツォーニョであったのです。

 《このオペラは…今シーズン中に作品を発表するよう強く求められ、病にも苦しんでいたにもかかわらず、彼は独創的なインスピレーションを見出すことができず、過去のオペラの旋律に頼り、さらには他の作曲家の旋律まで拝借した。彼のオペラは死んだのだ( Operatic Conspiracies – The Metropolitan Opera House )。》」
*このソンツォーニョの関与についてはジュリアン・バッデン著『ジャコモ・プッチーニ、生涯と作品』の中でも同様のことが書かれています( p.332-333 )。

 正しくは「病」ではなく自動車事故による「怪我」だと思われます。「他の作曲家の旋律」とは何かについては今のところわかっていません。それにしても、いつの時代にもメディアを使ってデマを流し、陰謀を働く輩はいるのですね。なおプッチーニは若い頃、ソンツォーニョの出版社が主催した1幕物オペラの作曲コンクールに『妖精ヴィッリ』で参加していますが(1882年)、あえなく落選しています。その後そのオペラは1884年に上演された後、出版社リコルディ社主ジュリオ・リコルディに注目され、作曲家として羽ばたくきっかけを得ています。両者の因縁はこの頃から始まっていたとも言えるかもしれません。


 しかし、これまでご紹介した初演失敗時における様々な報告に、『蝶々夫人』の音楽そのものや歌手たちの歌唱についての非難・批判が少ないことに気付きます。リハーサルは1月7日(本番の1ケ月と10日前)に始められ、歌手たちは誰もそのパート譜を家に持ち帰ることも許されず、それも印刷校正刷りの形でパートの断片を受け取ったという証言もありますが、そのため上演が危ぶまれる程の問題が生じたという話は今のところ見つかっていません。ウバルド・ガルディーニ著、中矢一義訳の『「蝶々夫人」のパリ版にいたる経過とその相対的価値についての一考察』には、初演のリハーサルの様子を次のように述べています。

 「プッチーニのほうは、『蝶々夫人』を “わが最高のオペラ” と称していたが、事実、かつてこれほど自信を持ちえた作品は存在していなかった。彼は、リハーサルに臨んでいた歌い手たち、オーケストラと合唱のメンバーたち、指揮者のみならず、裏方にいたる人々までが、この作品に聴き入り、涙を流す様子を目のあたりにして、毎日リハーサルを重ねるごとに、ますます自分の作品の価値を確信し、その初演の成功を疑わなかった(ウバルド・ガルディーニ著『「蝶々夫人」のパリ版にいたる経過とその相対的価値についての一考察』)。」

 さらに、プッチーニが初演の幕が下りる数時間前に主役のロジーナ・ストルキオに短い手紙を送っていて、そこにはこう書いてありました。

 「あなたの芸は本当にすばらしく、繊細で観客は皆それに酔い痴れざるを得なくなるものです。では、今夜また、心からの確信と敬意をこめて(『ジャコモ・プッチーニ、生涯と作品』ジュリアン・バッデン著 大平光雄訳 春秋社 2007年)。」

 以上様々な資料や証言からすると、「プッチーニによる完成が遅れたためリハーサルに十分な時間が取れなかった」ことを失敗の一因と挙げるには少々無理があると言えるでしょう。第2幕の長さについては確かに、プッチーニ自身この失敗後直ちに第2幕を2つの幕に分割する改訂に取り掛かっていますので、失敗要因のひとつであったと認識はされていたと考えられます。しかしこの長さをもって、「オペラ史上に残る惨憺たる失敗」の直接の原因とするにも無理があります。長い2幕の間、出ずっぱりの蝶々さんを演じたロジーナ・ストルキオが途中で声が出なくなったとか、観客が途中でトイレに立ったということで騒ぎが起きたという話は報告されていないからです。この長さに対する非難はこれまでの音楽的慣習に反すると批評家や他の作曲家といった専門家から起きたものだったのではないでしょうか。

 また失敗のもうひとつの原因として、東洋と西洋の文化の衝突からくる人種差別的、日本や新大陸アメリカをも含む異文化蔑視が舞台で演じられている点が挙げられています。10代の芸者蝶々さんと便宜上の結婚をしておきながら彼女を捨て去るアメリカ海軍中尉F.B.ピンカートンは初演版では「女たらしで、腹の底からアメリカを背負って立っていると自負している男」として描かれていて、さらには、日本人の使用人を蔑称で呼び、日本料理を嫌悪し、日本の習慣を嘲笑しています。そして、どこまでも臆病なことに、彼は最終的に結婚相手として選んだアメリカ人女性ケイトを使って蝶々さんを説得して子供を諦めさせようとしています。(2016年12月6日付 The New York Times)。

 こうした人種差別的、異文化蔑視に対して初演時の観客が嫌悪感を抱いたという見方は、現代の感覚からすれば当然のことですが、果たして当時ではどうだったのでしょうか。そういった拒否反応に関する記録は見つかっていないことから、当時この点に批判の矛先が向いたとは考えにくいのではないでしょうか。初演のわずか3ケ月後に、スカラ座から車で約1時間しか離れていないブレシアで上演されたときは、こうした描写は不問とされたどころか公演は大絶賛されています。人種差別的描写は初演後の改訂によって削られたとされていますが、実はこうした描写の多くはブレシア公演ではまだ残っていて、すべてが削除されたのは1907年のパリ公演の後だったということもわかっています(ジュリアン・バッデン著『ジャコモ・プッチーニ、生涯と作品』 p.336 )。つまり初演の時もブレシアでの再演の時も舞台では人種差別的、異文化蔑視という観点では大きな違いはなかったにもかかわらず後者では成功を収めたということになります。やはりこの説も失敗の理由のひとつに挙げるのは苦しいのではないでしょうか。
*この失敗を受けて『蝶々夫人』のローマ公演は直ちに取り消され、候補としてボローニャ、トリノが挙げられましたが、結局ブレシア( Brescia :ブレーシャとも表記されます)がティート・リコルディ(リコルディ社の責任者ジュリオ・リコルディの息子)によって選ばれました。大都市よりは小さな都市(ロンバルディア州では2番目の都市)で上演しようと慎重を期したのでしょう。

 以上、初演失敗の原因について考察をしましたが、プッチーニが生み出した『蝶々夫人』のオペラそのものに問題があったのではなく、音楽以外の要因、プッチーニに敵対する勢力による組織的な妨害行為によって『蝶々夫人』の初演というイベントが叩き潰されたと考えるのが妥当なのではないでしょうか。ジュリアン・バッデンは次のように当時の新聞記事を引用しています。

 「わずかに『イル・コッリエーレ・デッラ・セーラ』紙のジョヴァンニ・ポッツァと『イッルストラツィオーネ・イタリアーナ』紙のアキッレ・テデスキは、若干の手直し修正で短縮すればオペラの非難は晴れるだろうと予告した(『ジャコモ・プッチーニ、生涯と作品』ジュリアン・バッデン著 大平光雄訳 春秋社 2007年)。」

 プッチーニはこの失敗を受けて、自分が生きている間のスカラ座でのこの曲の上演を禁止し、楽譜商に卸されたヴォーカル・スコアも出版社に引き取らせました(一説によると上演前にすべて売り切れたとも言われています。)。そしてプッチーニは直ちにオペラの改訂に取りかかったのでした。なお、作曲家によって上演を禁止されたミラノ・スカラ座で『蝶々夫人』は、プッチーニの死のちょうど1年後の1925年11月29日、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮によって上演されています(蝶々さん:ロゼッタ・パンパニーニ)。

 なお一説によると、この初演失敗は2人の人物によって予見されていたとも言われています。ひとりは台本作家のジュゼッペ・ジャコーザ、もうひとりは指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニとのことです。ジョコーザは、その手紙のやりとりから初演直前にプッチーニが台本の変更を要求してきたことにかなり腹を立てていたらしいことがわかるので、腹いせに「失敗するに決まっている!」とでも言ったかもしれません。トスカニーニは次のような言葉を残しています。

 「それを読んで、私は心底驚かされました。音楽的な理由からではなく、そのオペラの異例な構成――極めて長い2つの幕から成り、第2幕の途中にはインテルメッツォ(間奏曲)が挟まれているという点――に衝撃を受けたからです。プッチーニ、イッリカ、ジャコーザといった演劇に通じた3人の男たちが、その構成の誤りと、それに伴う危険性に気づかなかったとは、にわかには信じがたいことでした(マイケル・ケイ著『私はもう前の私ではないわ!( non son più quella! )』 チャールズ・ローズクランス指揮のCDのブックレット 1996)。」

 少々出来過ぎのコメントに聴こえますが、いかがでしょうか。リハーサル中に歌手たちは誰もそのパート譜を家に持ち帰ることは許されなかったはずなのに何故ストルキオのところにあったのか、そもそもスコア(ヴォーカル・スコア)をストルキオが持っていたかも疑問ですし、それをトスカニーニが家に持って帰れたなんてことはありえないような気がします。初演失敗後に直ちに改訂を強く要請したり、いち早くブエノスアイレス公演を約束したりしつつ、自分に相談なくコトを進めたから言わんこっちゃないと言いたかったのかもしれませんし、初演の指揮をさせてもらえなかったことに根を持っていたのかもしれません。




*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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