プッチーニ:歌劇『蝶々夫人』

売られた二人の花嫁

 
                           The-Bartered-Bride

 筆者にとって2026-2027年のオペラ・シーズンは、『蝶々夫人』と『フィデリオ』の2作品の演奏をすることになりました。まず始まった『蝶々夫人』のリハーサルでは、その冒頭の前奏曲のスピードとアッチェランドについていけずあたふたしていたのですが、その時気付いたのは、スメタナの歌劇『売られた花嫁』の序曲に似ている?でした。

 これに関して誰か指摘する人はいないかとネットで調べていたら、フェニーチェ劇場の2013-2014年シーズンに上演された『蝶々夫人』で配布されたパンフレットの中に、イタリア、パヴィーア大学の音楽学者ミケーレ・ジラルディ(Michele Girardi)氏の文章を見つけました。ジラルディによると、このことは既にオーストリア生まれの英国の音楽学者、指揮者、評論家で知られたモスコ・カーナー(1904年 – 1985年) がプッチーニの伝記の中でほとんどさりげなく触れていたとして、興味深い考察を展開していました。ジラルディはこう述べています。

 「これは文字通りの引用ではなく、技術的な側面と意味的な含意を組み合わせた音楽素材の再利用です。 (中略) (プッチーニは)親友アルトゥーロ・トスカニーニの指揮でこの作品を耳にした可能性があります。」

とした上で、『売られた花嫁』序曲の楽譜を使ってスメタナが採用したフーガを中心に解説し、さらに、『売られた花嫁』の主人公マジェンカと蝶々さんが共に「売られた花嫁」であること、両作品において親族に加え、仲人(前者はケツァル、後者はゴロー)が筋書きの展開に極めて重要な役割を果たしている共通点などを指摘しています(『売られた二人の花嫁』 " Due spose vendute " by Michele Girardi, La Fenice prima dell’Opera 2012-2013 )。


Smetana
                                            
スメタナ:『売られた花嫁』序曲

      Puccini

                         プッチーニ:『蝶々夫人』前奏曲(比較しやすいように移調してあります)


 近年海外では、プッチーニの作品に関する研究が多数刊行されているにも関わらず、日本ではほとんど紹介されていない、情報がアップデートされていないような気がします。とりわけ『蝶々夫人』は長崎を舞台としているだけに日本人にとっては身近な存在であり、これまで多くの日本人音楽関係者によって日本的な「正しい」舞台の追及がなされてきました。それはそれとして大いに結構なことではありますが、プッチーニの作曲過程、作品の上演過程について、近年解明されつつある成果はもっと演奏の最前線に携わる人々に伝えられるべきだと思います。残念ながら筆者にその力量も資格もありませんが、一オペラ・ファンとして気になったことなどをご紹介してみようと思います(ここでは、『蝶々夫人』のオペラに関する基本的な事項の説明は省略させていただきます。)。

 話しは脱線しますが、この類似はマーラーの交響曲第1番でも聴くことができます。第4楽章のコーダに入るところでヴィオラから弾かれる動機は、『売られた花嫁』の序曲からヒントを得たものと考えられるのです。音型が似ていることに加えて、聴き手をわくわくさせるの点で、共に優れた音楽造りを見せていると思われます。マーラーはこのオペラ、『売られた花嫁』を余程好んでいたようで、ハンブルクで4回、ウィーンで6回、メトロポリタン歌劇場で7回も全曲を指揮していて、ニューヨーク・フィルハーモニックでは序曲を3回も取り上げています。メトロポリタン歌劇場では、遅れてきた観客が序曲を聞き逃さないよう第1幕ではなく第2幕の導入部としてわざわざ演奏する程でした。あの気難しいマーラーがです。なお、その時の女主人公マジェンカはチェコ出身のソプラノ歌手エミー・デスティンが歌っていました(1909年2月19日、米国初演)。


Mahler

                       マーラー:交響曲第1番 第4楽章(ト音記号に変換し、移調もしてあります)


 チェコの作曲家スメタナが作曲した『売られた花嫁』は1866年5月30日にプラハで初演されています。その時、マーラーはまだ6歳で屋根裏でピアノをいじっていた頃だったのですが、その後指揮者になったマーラーは、1891年にハンブルク市立劇場の第一楽長に就任し、1893-1894年シーズンには『売られた花嫁』のハンブルク初演を指揮し、翌シーズンでも上演しています。なんと驚くなかれこの期間というのは、マーラーが自分の交響曲第1番に改訂を加えていた時期と重なっているのです。1893年に同じハンブルクで5楽章版を指揮し、ベルリンでようやく現在の形の4楽章版を1896年3月に初演しているのです。指揮者の仕事として『売られた花嫁』に取り組んでいるまっ最中に記念すべき交響曲第1番と悪銭苦闘していたことになります。もちろん、偶然の一致の可能性も大いにあるでしょうし、ちっとも似ていないという意見もあるでしょう。しかし、時間と場所が一致している状況で、関係を匂わすことが起きている時は、当事者が意図を持って歴史を動かしているかもしれないと考えてもいいのではないでしょうか。


マーラーは『蝶々夫人』を指揮した?
 マーラーがニューヨークにやってきたのは、『蝶々夫人』が初めてメトロポリタン歌劇場で上演されたほぼ1年後の1908年1月で、ドイツ物(とスメタナとチャイコフスキー)ばかりを指揮していました。実はマーラーは、1907年11月に『蝶々夫人』のウィーン初演を準備していながら、ウィーン宮廷歌劇場を辞したため、もう少しのところで指揮できなかったという事実があります。ということは、マーラーがメトでこのオペラを指揮する可能性はゼロではなかったということになります。なお、トスカニーニがメト・デビューを飾るのは1908年11月のことで(ヴェルディの『アイーダ』)、デビューの次の公演で早くも『蝶々夫人』を指揮し、以後ここを去る(1911年)まで58回もこのオペラの指揮をすることになります。トスカニーニはライバルだったマーラーに『蝶々夫人』は決して譲らなかったのでした。

 もし、マーラーがメトで『蝶々夫人』を振って大成功を収め、トスカニーニを蹴ちらし、病気治療のためにヨーロッパに戻らずにニューヨークで療養してあと5年生きながらえたら、何番まで交響曲を書いただろうかと想像するだけでも楽しいものです。もしそんなことが起きたら、マーラーはアルマを忘れてトスカニーニの代わって、蝶々さん歌いのジュラルディン・ファーラーとよろしくやっていたのかもしれません・・・いや、ファーラーは起用せずにエミー・ディティンに蝶々さんを歌わせていたかもしれません。(トスカニーニとジュラルディン・ファーラーとの情事は後ほど)。






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