ラドゥ・ルプー 没後1周年

     『ラドゥ・ルプーは語らない。
  ─ 沈黙のピアニストをたどる20の素描』 に寄せて

 
              Lupu 
ラドゥ・ルプー
 2022年4月17日、ルーマニア出身のピアニスト、ラドゥ・ルプーがスイスのローザンヌで亡くなりました。76歳、引退を宣言してからわずか3年のことでした。その訃報に驚くと同時にルプーの演奏に出会った時の記憶や、レコードで聴いたシューベルトのソナタの演奏があの独特の風貌と共に鮮やかに蘇ってきたのでした。

 ニュースには「長い闘病生活」、「複数の病気で療養中」などといった書き方をしていて、具体的な病名などについてはわかりません。海外の一部のサイトには long-term comorbidities ともあり、長期併存疾患と訳するのでしょうか。90歳を越えた高齢者にはよくある病名ですが、76歳という年齢ではあまり聞かないような気がします。病気によるキャンセルが多かったとはいえ、あまりに若すぎることに残念でなりませんでした。1年を経過してあらためてご冥福をお祈りいたします。

 その訃報を聞いてから約1年の間、折を見てルプーの遺した録音を聴いていたところ、『ラドゥ・ルプーは語らない。──沈黙のピアニストをたどる20の素描』(板垣千佳子編 アルテスパブリッシング 2021年11月19日発行、以下、『ルプーは語らない』と略します。)という本を見つけました。題名がいかにもルプーらしくて思わず本を手にしてみたら、ルプー本人の許可を得て生前に企画編集されたものであり、しかも書店に並んだのがルプーの亡くなる前だったことに気付き興味を持ちました。まず親友たち20人の証言と寄稿が並べられていて、その後に編集者と評論家の文章が続き、巻末にはルプーのディスコグラフィと来日公演の演目が掲載されているというルプーのファンにとっては嬉しい構成となっています。取材は主としてオンラインだったというのがいかにも今風なところでもあります。

                                     Lupu
       『ラドゥ・ルプーは語らない。──沈黙のピアニストをたどる20の素描』
 ルプーはデビュー以来数多くのレコード録音を遺していますが、納得がいかないとリリースを許さず、次第に録音そのものも行なわなくなりました。最初の録音は1970年で最後の録音が1981年と、わずか11年間しか録音期間がなく、2019年の引退までの38年もの間録音をしなかったことになります。しかし、その間9回も来日して演奏会を開いているくらいですから当然世界各地で演奏活動は続けていたことになります。なお、9回とは余程日本が気に入っていたようですが、『ルプーは語らない』では、「日本に行ったとき、時差ボケが一週間続き、日本にいる間じゅう時差ボケは一向に改善されなかった。(p.72)」と書かれています。演奏に時差ボケの影響は出なかったのでしょうか。

 また、放送録音も頑なに拒んでいたことでも知られています。『ルプーは語らない』では、「放送録音はできませんでした。録音をかたくなに拒むのは、ラドゥとクリスチャン・ツィメルマン、この二人ですね。(p46)」と書かれています。しかし、YouTube には放送録音がいくつかアップされていますから徹底的に拒否していたわけではないようです。1981年オルデンスザールでのマレー・ペライアとの連弾のコンサートの放送録音をFM放送からエアチェックしたテープが手元にあり、独奏のコンサートではないもののよく聴いたものでした。Ateş TANIN 氏のウエブサイトには、所有されているルプーのライブ音源のリストが掲載されています。その数は結構ありまして、例えばベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番だけでも7種類のライブ録音のテープがリスト・アップされています。
RADU LUPU Recorded Concerts & Recitals Compiled by Ateş TANIN

 とりわけインタビューが嫌いだったことで知られていたルプーですが、『ルプーは語らない』には「自分には何も言うことがない。音楽について聞かれても、何か語れるとしたら、自分の音楽を通してだけだ。(p.53)」というルプーの友人の証言が紹介されています。まさに正論ですね。言葉や文章で表現できないことを音楽というかたちで人に伝えることによって芸術が生まれ、それを楽器で再表現するのが演奏家になるのですから、ルプーのこの発言は決して独奏的なものではなく、ごく当たり前のことを言っているのにすぎません。

 芸能人が俳句を捻ってランク付けをする番組が人気を博していて面白いのでよく観ています。しかし、俳句が紹介されると間髪を入れずに司会者が「この句はどういう意味ですか?」と作者に尋ねるシーンが必ずあっていつもそこで違和感を覚えています。五・七・五という限られた字数の中に森羅万象をどう詠み込むかが俳句の俳句たる所以であるのに、饒舌をもってその説明を作者本人にさせるなんて、俳句そのものを否定しているようなものです。俳句は一種のなぞなぞであり、その答えを考えようとしているのに問題を出す人がいきなり種を明かしてどうなの、と言いたいところでもあります。確かにその方が視聴者にわかりやすいこともあるでしょう。時にはその作品とかけ離れた解説が本人の口から出てきて、却ってそこが面白かったりもするので番組的にはいいのかもしれません。しかし川柳ならともかく、俳句を取り上げる以上もう少し配慮があってもいいのではないかと思っています。

 言葉で表現できない何かがあって、楽器を通して人々の耳からその心へ届けられるのが音楽であり、演奏家は作曲家が音符のかたちで託した音楽を再創造して伝達するというメッセンジャーの役を担っています。そこでもやはり言葉を使わずにできるだけ作曲家の意図に沿った再現を行なうことが求められるのは言うまでもありません。インタビューを通じて演奏家本人の解説や説明を求める風潮が、音楽業界にも浸透しているのは事実です。むしろそのインタビューという行為が、楽器の演奏と同等なくらいに演奏家と聴衆をつなぐ架け橋になっていることも確かです。演奏家がどんなバックグラウンドを持っていてどんな嗜好や傾向を持っているかを知ることで演奏を聴く手助けになるかもしれません。

 若い演奏家のCDのブックレットには、その演奏家自身による文章が掲載されていることが最近増えてきました。その曲が書かれた背景や成り立ちを自分で調べ、それを演奏する際に役立てようとする姿には感心させられます。音楽学者や音楽評論家顔負けの立派な解説に出会うこともあり、さらにそれが聴く人の一助になるわけですからたいしたものです。そういう演奏家の真摯な姿勢や曲に対する取り組み方を知ると、その演奏を聴くときの聴き方も変わってくることもあるでしょう。

 筆者も若い頃は、演奏会のチケットやレコードを買うお金がないために、図書館で音楽関係の書籍を借りて読んだり、本屋で音楽雑誌の立ち読みをしたりと、音楽を耳からではなく活字から仕入れたものです。インターネットや YouTube もなかった時代ですから世界の片隅にいるすぐれた音楽家の演奏を聴かせるためには、何より人々にその存在を知ってもらう必要があります。もちろんコンクールで入賞したり、著名な演奏家からの推薦などを貰ったりすることも重要でしょう。しかし、こうした情報を音楽愛好家に伝えるのはやはりメディアであり、さらに多くの人々の興味を引くためには、演奏家本人が発する言葉をメディアが取り上げることが重要なことになるのです。

 近年では、インターネットを通してのソーシャルネットワーキングサービスがメディア以上に威力を発揮しています。あるピアニストは自らのオフィシャル・チャンネルを YouTube 上に立ち上げ、2023年4月現在68万人もの登録者を抱え、曲によっては1,000万回以上もの視聴回数を誇っています。そしてその映像に自らのコメントまでも添えることができるのです。音だけでなく、映像と演奏家のメッセージまでも同時に配信できる時代になっているのです。コロナの蔓延によって演奏会の環境が大きく変わったということもありますが、この風潮は今後も続くと考えられます。

 もはや「録音嫌い」とか「インタビュー嫌い」という言葉が賛辞として発せられた時代は遠い昔の話しとなっていて、そういうスタイルを貫くこと自体が意味を持たない時代になったとも言えます。文章や言葉を封印したところから生まれた音楽、言葉や文字が生まれる前から存在したかもしれない音楽の原初的なあり方に、正直に従った最後の演奏家のひとりがルプーだったと言えるのかもしれません。

 ルプーと対照的な存在と言えば、グレン・グールドのことが思い出されます。1964年を境にコンサート活動をやめて、レコード録音やラジオ、テレビなどの放送メディアだけに活動の場を絞ったことで大きな話題をさらったピアニストです。ルプーがカーネギーホール(1967年)、ロンドン(1969年)などでデビューを飾った時には、グールドは既にコンサートを行なっていなかったことになり、当時のピアニスト達にとっては自分の演奏活動のあり方について考えさせられる事件だったとも言えます。

 グールドの遺された映像を見て驚かされるのは、そのよく喋ること喋ること。グールドは頭の中にあることがあまりに多すぎて、ピアノで表現できないことを言葉で説明しているようにも見えます。そういえば、ピアノを弾きながら歌ってもいますね。なお、2010年に『グレン・グールドは語る』(グレン・グールド 及び ジョナサン・コット著 、 宮澤 淳一訳 筑摩書房)が発刊されていますが、『ラドゥ・ルプーは語らない』はこのグールドの本の姉妹編と見なすことができるのかもしれません。
     Lupu   Lupu

「千人に一人のリリシスト」
 筆者が初めてルプーの演奏を聴いたのは、ルプーが初来日した1973年の秋、東京文化会館における渡邉暁雄が指揮した東京都交響楽団の演奏会で、曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番でした。今年は2023年ですから、ちょうど50年前ということになります。半世紀も前のことですから、演奏そのものは正直あまり憶えていませんが、プログラムの1曲目が邦人作曲家の新作の管弦楽作品だったこと、ルプーの演奏の前になんでこんな曲を聴かなければならないのか、ルプーが怒って帰っちゃったらどうしよう、とハラハラしながら聴いていたことはよく憶えています(誰の作品だったかは忘れましたが、作曲家の先生には申し訳ありません・・。)。

 ようやくその曲が終わって、ルプーが無事登場してきてホッとしたこと、写真通りの髭もじゃ顔で、思ったより大柄で山奥から出てきた野蛮人みたいで、「千人に一人のリリシスト」という前宣伝と間のギャップを覚えたことは鮮明に憶えています。下手寄りの2階か3階席だったせいか、舞台に上がるルプーを上方から比較的近い距離で見られたのですが、ピアノに向かって座るルプーを斜め後ろから見ていた光景も記憶として残っています。
 
 演奏会に通い始めたのが前年の1972年の春でしたので、その翌年のこのルプーの演奏を聴くまでわずか5、6回しかコンサートの経験がなく、しかもピアノ協奏曲はチャイコフスキーとブラームスの1番しか実演で聴いていませんでした。他にと言えば、NHKのテレビ放送でブラームスの2番(エミール・ギレリス、1972年4月23日放送)、ベートーヴェンの5番(グレン・グールド、1972年8月10日放送)を観たくらいで、生で聴く最初の外国人演奏家としてルプーを聴くには今思えば若すぎたしもったいないことだったのかもしれません。

 そのベートーヴェン作曲ピアノ協奏曲第4番の冒頭のピアノの独奏は意外にも無造作に始まり、とは言ってもおそらく初めて聴く曲でしたし他との演奏の比較どころではなかったのですが、後方から見た限りでは打鍵そのものはダイナミックな動きをしていた記憶はあります。実演で邦人の演奏会しか見たことがなかったために、そのピアノに向かう姿勢や打鍵の力強さは印象に残ったのだと思います。その時見たルプーの風貌や演奏姿と「千人に一人のリリシスト」という触れ込みの間に、やはり大きなギャップを感じたのも確かでした。

 1969年ロンドンでのデビュー・リサイタルの翌年、1970年8月にはBBCプロムスにデビューを果たし、エド・デ・ワールト指揮BBC交響楽団とブラームスのピアノ協奏曲第1番ニ短調を演奏し、デイリー・テレグラフ紙がこれを報じて言った「千人に一人のリリシスト」という言葉がルプーの代名詞になったようです(『ルプーは語らない』p.190)。しかしこの「リリシスト」という表現は、ルプーのブラームスの協奏曲第1番の演奏について評したことであって、例えばシューベルトの演奏に対するものではなかったのではないでしょうか。初めて耳にするルプーという若いピアニストがどんなブラームスを演奏するのか固唾を呑んでいる中、その指から紡ぎ出される音の予想を超えたリリックさに驚いたからこの言葉が出てしまったと考えるべきでしょう。

 飛び抜けて立派な体躯の持ち主ではありませんが、エネルギー溢れるはずの若者がブラームスのピアノ協奏曲と格闘してバリバリ弾き倒すことを大方の聴衆は期待していたのではないでしょうか。その前の年である1969年に録音されて大きな話題となったスヴャトスラフ・リヒテルがロリン・マゼールの指揮で演奏したブラームスのピアノ協奏曲第2番が発売されたのがこのルプーのデビューの前後に当たることを思うと、或いはこのリヒテルの雄渾でスケールの大きな演奏とルプーの演奏を比較しようとした人がいたのかもしれません。1番と2番とをひとくくりにするのは無謀なことではありますが、ブラームスのピアノ曲に対する当時の一般的なイメージを覆す演奏であったことは、後に録音されたルプーのレコードを聴けば何となくわかるような気がします。
 
                                   Lupu
               ブラームスのピアノ協奏曲第1番ニ短調
    (エド・デ・ワールト指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 1974年11月録音)

 これは勝手な想像でしかないのですが、同時期にデビューしたマリア・ジョアン・ピリスのベートーヴェン(1970年ベートーヴェン生誕200周年記念コンクールで優勝)やモーツァルトのソナタや協奏曲の演奏に対して彼女を「リリシスト」とは言われなかったのは何故でしょうか。女性であることや華奢な彼女の容姿からして、むしろ「リリック」であることにかけては誰にも負けない演奏をしていたのは彼女の方だったはずなのに、そう呼ばれなかったのはその当たり前なフレーズを使ってもキャッチされないからではないでしょうか。つまり、デビュー当時髭は生やしていなかった(?)けれども、若い男性であるルプーのブラームスの演奏の意外性から付けられたのが「千人に一人のリリシスト」であったと考えるべきでしょう。
 
          Pires      Lupu
          マリア・ジョアン・ピリス と ラドゥ・ルプー(1970年代当時)
                      
◆ ピリス:ベートーヴェン生誕200周年記念コンクール優勝(1970年 ブリュッセル)
                       ◆ ルプー:リーズ国際ピアノ・コンクール優勝(1969年)

ブラームスのピアノ協奏曲第1番
 1974年に録音されたルプーのブラームスは、協奏曲のアルバムとしてはグリーグとシューマン、モーツァルトの12番/21番に次ぐ3枚目となります。前掲のAteş TANIN氏によるとこの曲の放送録音は少なくとも5種類あるそうで、ルプーとしてはお気に入りの曲だったと言えます。しかし、大方のピアニストは1番も2番も演奏し、録音も両方行なっていますが、ルプーは1番しか弾かなかったようです。この理由については『ルプーは語らない』に以下のように書かれています。

 (ブラームスのピアノ協奏曲第2番は)・・・コンサートで決して弾かなかった。最終楽章の右手で二重音で上昇するパッセージはとてつもなく難しい。ほとんどの人にとって弾くことは不可能です。彼は「この部分だけは弾けない」と言っていました。リストの弟子であるエミール・フォン・ザウアーがペータース版のために校訂したバージョンで弾いてみてはどうかと提案しました。この部分が簡略化されていますから。でも彼は合意しませんでした。・・・・(p.63)。

 この箇所は第4楽章の266小節と361小節のことと思われ、エミール・フォン・ザウアーの版では(*)が記され、欄外にその簡略例が書かれています。右手が7連符で上昇する重音のうち下の音5個を省略する、つまり指のポジションを変えた先の音だけを重音にすることでスムーズに弾けるようにしてあります。なお「 etc. 」とありますから、フィンガリングによって略し方は奏者に任せていると考えられます。
 
             Brahms
                 ブラームスの協奏曲第2番 第4楽章の266-267小節
          Brahsm
                    欄外に記載されている簡略譜(266小節)

 なお、スヴャトスラフ・リヒテルは2番しか録音が残っていないのですが、1番は何故ないのでしょうか。この点についてリヒテルの口からいつもの皮肉たっぷりの一言を聞いてみたいところではあります。

 ブラームスのピアノ協奏曲第1番で録音が残っている1950年代までのヴィルトゥーゾ達の演奏を聴いてみると、昨今のゆったりしたテンポの中で悠然としたスタイルでかつ美しく響かせる演奏とは大きく異なり、どこかオリンピックの床体操やフィギュアスケートなどでよく聴かれるG難度とか高難度ジャンプといった演技点を思わせるところがあります。

 古い録音には往年の巨匠たちがその名を連ねていまして、ヴラディーミル・ホロヴィッツ(アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 1935年)のせき立てるような序奏に煽られるかのように終始急ぎ足の歩を進める演奏や、同じホロヴィッツでも、激情にかられて爆発する箇所と綿々と歌うところを行ったり来たりする指揮者のやりたい放題に水を得た魚のようにノリノリで演奏する演奏もあります(ブルーノ・ワルター指揮 1936年)。ウィリアム・カペルの終始前のめりになった火が出るような演奏(1953年)も貧弱な録音ながら強烈な印象を聴き手の耳に残します。
      Horowitz   Horowitz   Kapell
           ヴラディーミル・ホロヴィッツ(アルトゥーロ・トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィルハーモニック 1935年)
           ヴラディーミル・ホロヴィッツ(ブルーノ・ワルター指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 1936年)
           ウィリアム・カペル   (ディミトリ・ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団 1953年)
 一方で、これぞドイツ音楽の真髄とばかり重厚で堂々としたスタイルの演奏も多くありました。ブラームスが22、23歳頃に着想を得たとされるこの曲を、作曲家の若い頃の作品、あるいはクララ・シューマンに対する青春の甘酸っぱい想いが込められた作品と見做す考えを粉砕するような演奏をしていたのは、ヴィルヘルム・バックハウス(1953年)、ヴィルヘルム・ケンプ(1957年)、アルトゥール・ルービンシュタイン(1954年)たちでした。
       Backhaus   Kempff   Rubinstein
            ヴィルヘルム・バックハウス(カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1953年)
            ヴィルヘルム・ケンプ(フランツ・コンヴィチュニー指揮シュターツカペレ・ドレスデン 1957年)
            アルトゥール・ルービンシュタイン(フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団 1954年)
 こうしたヴィルトォーゾ達のレコードを聴いていた人々は、1970年8月、ルプーがブラームスのピアノ協奏曲第1番をロンドンで初めて弾いたときは、耳が洗われるような衝撃を受けたのではないでしょうか。その4年後に録音されたルプーのレコード(エド・デ・ワールト指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 1974年11月録音)がそのときと同じかどうかはわかりませんが、ある程度は想像できそうです。当時筆者が聴いていたエミール・ギレリス(オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団1972年)やルドルフ・ゼルキン(ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団 1968年)らの格調高いブラームス演奏に慣れた耳には、正直物足りなさを覚えた記憶があります。LPで聴いたルプーの演奏には聴き手に緊張を求めたり、威嚇したりすることもなく、技巧をひけらかすヴィルトゥオーゾのかけらもないものでした。しかし、どの音符もしっかり捉えられていて、しかもそのひとつひとつが意味をもった響きで耳に入っていき、ブラームス音楽の真の美しさを垣間見せてくれる演奏であったのです。この曲が画一的なものではない、様々な解釈に耐えられる名曲であることを見事に証明しているとも言えるのではないでしょうか。


ルプーが弾くガーシュイン
 ルプーが弾くガーシュインのライブ録音をYouTubeで見つけて、そのまさかの曲目『ヘ調のピアノ協奏曲』と『ラプソディー・イン・ブルー』(1973年3月2日放送録音)に正直驚かされました。「千人に一人のリリシスト」として売り込んでいる若いピアニストに対して、レコード会社や音楽事務所としては相応しくない作曲家だったのかもしれません。米国の黒人指揮者ディーン・ディクソンがフランクフルト放送交響楽団を指揮したもので、1961年から数年間音楽監督だったディクソンがその亡くなる3年前に客演した時のソリストがルプーだったということになります。
Radu Lupu plays Gershwin Concerto in F and Rhapsody in Blue - 1973

 ディーン・ディクソンは、1941年に米国NBC交響楽団から黒人であることから指揮台に上がることを拒否されて活動の場をヨーロッパに求めたニューヨーク生まれの指揮者で、1950〜70年代にかけてLPレコードは相当数遺しているようです。ちなみに1941年といえばショスタコーヴィチの交響曲第7番の米国初演権をめぐって数多くの指揮者がバトルを繰り広げていた時期になり、その栄冠を勝ち得たのはトスカニーニで、演奏したオーケストラはそのNBC交響楽団でした( 『米国初演をめぐるバトル・ロイヤル』 参照)。

             Lupu       Dixon
                  ラドゥ・ルプーと指揮者ディーン・ディクソン
 1973年3月の録音ということは、ルプーの初来日(1973年10、11月)と同じ年ということになります。日本でのプログラムは、ベートーヴェン、バルトーク、シューベルトのリサイタルとベートーヴェンとモーツァルトの協奏曲でした。同じ頃にヨーロッパではガーシュインを弾いていたとは思いもよらないことで、1973年1月にグリーグ、同年6月にシューマンの協奏曲をレコーディング(共に指揮はアンドレ・プレヴィンでこれがルプーの初の協奏曲録音)を行なっていて、ガーシュインを演奏したのはその合間ということになります。

 その演奏はというと、さすがのディクソンをもってしてもガーシュインのノリをドイツのオーケストラに求めるのは無理だったのでしょうか、随所にリズムに乗り切れずにしかも分厚い響きで興がそがれるところが随所に散見される演奏となっています。その18年後の1991年に録音されたネヴィル・マリナー指揮シュトゥットガルト放送交響楽団のCDをよく聴きますが(独奏はセシル・ウーセ)、リズムの破綻はないもののやはりオーケストラが重くなってしまうのはやむを得ないところです。1970年代にヨーロッパのオーケストラがガーシュインの曲を演奏するのは稀だったと考えられますし、米国のオーケストラのようにはいかなかったことでしょう。

 一方、そのオーケストラを正確なリズムで引っ張るルプーの爽やかなピアノには驚かされます。ただ、どのフレーズも丁寧すぎるというか生真面目さが耳についてしまい、ジャズ・エイジと称される1920年代のアメリカの音楽からは遠く離れた印象を受けざるを得ません。弾いているピアノの楽器にもよると思いますが、ルプーの打鍵に特徴的な鍵盤を叩いた後の響きを包み込む余韻はシューマンやシューベルトでは効果的なのですが、ガーシュインにはあまり向いていないのでしょう。1960年(ハリウッド)と1971年(ロンドン)に録音されたアンドレ・プレヴィンのピアノと比べるとその打鍵の違いは明白で、鍵盤を軽やかに転がり、時には乾いた和音を突き刺すプレヴィンのジャズ・テイストに溢れる演奏には勝ち目はなさそうです。


フランクのヴァイオリン・ソナタ
 ルプーは1977年にチョン・キョンファとフランクのヴァイオリン・ソナタを録音しています。ルプーは1974年にシモン・ゴールドベルクと、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集を、さらに1978-79年にシューベルトのヴァイオリン作品集を録音していますから、フランクはちょうどそれらの間に録音されことになります。

 筆者が最初に聴いたこの曲の演奏は、ジノ・フランチェスカッティのヴァイオリンとロベール・カザドシュのピアノによるモノラルのLPレコードでした(1947年録音)。さらに、当時の音楽評論家がこぞって讃えていたジャック・ティボーのヴァイオリンとアルフレッド・コルトーのピアノの古い演奏(1929年)も聴かなければとLPを買い求めた記憶があります。そしてたぶんステレオ録音で聴いた最初の演奏がこのルプーとチョン・キョンファだったと思います。どの演奏も個性的で、その違いを楽しみながらこの名曲を聴いていたのでした。
     Lupu   Francescatti  Thibaud
               チョン・キョンファ(Vn) ラドゥ・ルプー(Pf) (1977年)
            ジノ・フランチェスカッティ(Vn) ロベール・カザドシュ(Pf) (1947年)
            ジャック・ティボー(Vn) アルフレッド・コルトー(Pf)  (1929年)

 ところが、『ルプーは語らない』によると、チョン・キョンファはなんとこう語っているのです。

 「ラドゥも私もその録音のできがまったく気に入らなくて、二人ともリリースすることを拒否しました。そして3年の時が流れ、ある日クリストファーがラドゥと私をスタジオに呼び出しました。クリストファーが真ん中に座って、再生ボタンを押すと、それは3年前のドビュッシーとフランクの録音でした。(『ルプーは語らない』p.40)」

 あれほど気に入って何度も聴いた演奏が、録音した3年後に発売を無事許可したとはいえ、当初は両者が気に入らなかったものだったことを知ってショックでした。演奏家というのは、曲を演奏する毎に進化していくのですから、録音というものはいわば過去の自分姿を見ることになり、決して好ましいものではないのかもしれません。録音嫌いという演奏家達の気持ちはそんなところにあるのでしょうか。なお、自分の録音は決して聴かないという人もいますが、そういう人からそのCDを買ってと言われも聴く気はしませんね。

 ここで思い出されるのは、録音のみを活動の場としたグレン・グールドの若いときの録音風景の映像です。テイクバックを聴きながら何箇所かで満足げな顔をしていて、そのフレーズの処理が思った通りに上手く弾けたことを意味していると思われます。ルプーとチョン・キョンファのふたりもこのようにテイクバックを聴いたのですが、リトライすることもなく録音は完成していながら発売を中止してしまったことになります。その時どの点を気に入らないとしたかのはわかりませんが、同じテープを聴いて3年後にはOKを出したというのは一体どういうことなのでしょうか。その後3年間演奏活動を続けたことで、この曲に対する考え方が変わったり、デュエットの在り方への理解が深まったりして、判断の基準が変化したことで自分たちの過去の演奏が許容範囲に入っていると判断したのかもしれません。ちなみに、グールドはこの録音の後イタリア協奏曲の再録をしていないようなので、この録音はよほど気に入っていたものと考えられます。この映像は YouTube で見ることができます。
                 Gould
               Glenn Gould - Italian Concerto (BWV 971) - Presto (1959)
     バッハ:イタリア協奏曲(1959年6月22-26日 ニューヨーク、コロムビア30番街スタジオ)
 
おわりに
 ルプーについて語る際、シモン・ゴールドベルクとのモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ、シューベルトのヴァイオリン作品集、バーバラ・ヘンドリックスとのシューベルトの歌曲、そしてルプーが終生愛したシューベルトのピアノ・ソナタについても触れなければならないのは十分承知しています。しかし、ルプーの思い出に浸り、CDを聴きながら幸せな気分で書き綴っていたところ、いつの間にか今年も暑い日がやってきてしまいました。電気料金の値上げも控えていることですので、ここは本丸を前にして撤退することにしましょう。
(2023年5月 完)
 
                  Sign

           すみだトリフォニーのバック・ステージにあったルプーのサイン


 



            ≪ 前のページ ≫    ≪目次に戻る≫      ≪ 次のページ ≫

Copyright (C) Libraria Musica. All rights reserved.