byやませみ

5 温泉の化学

まえがき

前の章では「温泉は地球のスープである」として、おもにスープの作り方(地球科学的成因)をご説明しました。この章では、スープの味の秘訣はどんな所にあるか、つまり温泉水の溶液化学についてお話しします。

化学というとなんだか難しそうだな、と敬遠されるかもしれませんが、「高校の化学の授業はうけたけどよく解らなかった」というような人を対象として書いていきますので、化学が苦手のかたにもきっと楽しんでいただけるものと思っています。実をいうと私もそうだったひとりで、この章を書くためにはだいぶ復習しなくてはなりませんでした。昔は嫌いだった勉強も、温泉のことをもっと知りたい、という目的があると結構おもしろいもんです。

なんだ筆者は「しろうと」か、頼りないなと思われた方は、本職の化学の先生が書かれた「温泉の化学」がHPで公開されているので、そちらも合わせてご覧下さい。たいへん解りやすくて楽しい解説がいっぱいです。
村松さんの「温泉の化学」in「かちかち温泉情報」


5-1 温泉に含まれるもの

温泉スープにはたくさんの成分が溶け込んでいます。これは化学用語では「水溶液」といい、水が「溶媒」、イオンなどの成分が「溶質」です。じつは温泉には厳密な意味では溶けていない「コロイド(湯ノ花)」や「ガス」もたくさん含まれていますが、これらは温泉分析表の成分数値には記録されていません。ガスは湧出時に抜け出したり、コロイドの多くは沈殿物として分析前に濾過されてしまうからです。

下表には、温泉に含まれていることが多く、「鉱泉分析法指針」の分析項目として対象にされている成分を列挙してみました。とてもたくさんあって、これを見ただけで頭が痛くなってきそうですが、恐れるにはたりません。温泉スープの味付けで重要なのは主なイオンの7種と、鉄イオン、アルミニウムイオン、イオウ成分くらいのものです。あとは微妙なスパイスといった役目をしていて、医療の関係やこだわり派の温泉マニアには重要視されています。この章では、こういった温泉グルメ向けの話題は一応ひかえて、初心者が上質の温泉スープを味わうにはどんなところに注目したらいいか、といったことをお話ししたいと思います。

注: 下表には水素イオン(H+)が入っていませんね。泉質分類では、たしか水素イオンが1mg/kg以上あるのを酸性泉としていたはずです。どうして分析項目にないんでしょう? じつは水素イオンの定量はなかなか難しいので、分析表ではpHの数値から水素イオン量を算出しているのです。水素イオン濃度が1mg/kgっていうのは、概ねpH=3に相当します。詳しくはまた後でおはなしします。

表5-0-1 温泉の成分(「鉱泉分析法指針」の分析項目)

区分 成分名 化学式
おもな陽イオン ナトリウムイオン Na+
カリウムイオン K+
マグネシウムイオン Mg2+
カルシウムイオン Ca2+
おもな陰イオン *塩化物イオン(塩素イオン) Cl-
硫酸イオン SO42-
炭酸水素イオン HCO3-
微量陽イオン リチウムイオン Li+
アンモニウムイオン NH4+
ストロンチウムイオン Sr2+
バリウムイオン Ba2+
アルミニウムイオン Al3+
マンガンイオン Mn2+
鉄(II)イオン Fe2+
鉄(III)イオン Fe3+
銅イオン Cu2+
亜鉛イオン Zn2+
カドミウムイオン Cd2+
微量陰イオン フッ化物イオン F-
臭化物イオン Br-
ヨウ化物イオン I-
硫化物イオン HS-
チオ硫酸イオン S2O32-
炭酸イオン CO32-
リン酸イオン PO43-
ヒ酸イオン HAsO42-,AsO2-
メタ珪酸イオン HSiO3-
メタほう酸イオン HBO3-
総成分 総クロム Cr
総水銀 Hg
総ヒ素 As
全イオウ(総イオウ) S (HS- + S2O32- + H2S)
遊離成分 メタ珪酸 H2SiO3
メタほう酸 HBO3
遊離二酸化炭素 CO2
遊離硫化水素 H2S
腐植質または有機物 (COD) -
遊離鉱酸 -
放射性成分 ラドン Rn
ラジウム Ra


溶存成分量と蒸発残留物はどう違う?

分析表に書いてあるこれらはちょっと紛らわしいので、ここで触れておきましょう。溶存成分量というのは、25℃にした温泉水に溶けている成分の重量ということです、つまり、上表の分析項目の重量数値をぜんぶ合計したものです。

これにたいして、蒸発残留物というのは、温泉水を温度110℃以上で蒸発させ、あとに残った固形物の重量を実測してしめしています。温泉水には溶け込んでいる二酸化炭素や硫化水素などのガス成分や、臭素などの沸点の低い成分も含まれていますが、これらは蒸発してとんでいってしまいますので、固形物には残りません。

蒸発残留物=Na+ + K+ + Ca
2+ + Mg2+ + Cl- + SO42- + 0.492HCO3- + 0.796H2SiO3 + 微量成分

一般的には、溶存成分量と蒸発残留物の関係はおおむね上式のようになっています。つまり、蒸発残留物の数値(mg/kg)は、塩化物・硫酸塩・炭酸塩・珪酸塩の混合物の重量ということになります。

これが何の役に立つかというと。たとえばあなたが何処かで温泉っぽい地下水の湧出を見つけたときには、とりあえず水(1kg)を蒸発・乾燥させてみて、残った固形分の重量から温泉(塩類泉)かどうか試してみるってこともできます。また、温泉宿の浴槽からお湯をちょっと拝借してきて、蒸発残留物を測って分析表の数値と比べてみると、そのお風呂が加水かどうかなんて、ちょっと意地悪な実験をすることもできます。

入浴剤で温泉気分?

温泉にはたくさんの成分が溶けていますが、その量を実感するために、市販の入浴剤で温泉に匹敵する溶存成分量をつくるにはどれくらい必要かシミュレートしてみましょう。

私が自宅で愛用しているT社の「日本の名湯」シリーズの成分をみると、内容量は1袋約30gで、そのうち硫酸ナトリウム(NaSO
4)とか炭酸水素ナトリウム(NaHCO3)とかの溶解する成分は概ね20gくらいです。あとは濁り感をつけるための沈降性炭酸カルシウム(CaCO3)で、これは実際にはほとんど溶けないので、この勘定には入れないことにします。

さて、私ん家の浴槽は約300リットルですので、これで20gを割ってやりますと。
20g÷300リットル=20,000mg÷300L=66.66mg/L となります。
塩類泉の区分が1000mg/L以上でしたから、全く及びもつかない、ごく薄い単純温泉にすぎませんね、なーんだ。

では塩類泉の最低限の濃度にするには入浴剤が何袋いるのかというと、
1,000mg÷66.66mg=15袋(300g) となります。ずいぶんたくさん必要ですね。袋を破く手が疲れそうです。

実際の塩類泉の溶存成分量はもっとずっと多く、たとえば草津温泉では約4,000mg/Lですから入浴剤60袋(1800g)、濃い温泉として有名な有馬温泉では60,000mg/Lですから900袋(1,8000g)もドバドバ投入しなくては足りません。もちろん含まれる成分の内容はまったく違いますから単純に比較はできませんが、温泉がいかに大量の成分を溶かしこんでいるのか、あらためてちょっとびっくりです。

次項では、この「溶ける」ということについて追求してみましょう。


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