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榛名山ガラメキ温泉記 by温検12号 

第2章 上毛新聞

上毛新聞「地域アイ」から 2001年(平成13年)4月17日(火曜日)付10−11面(地域面)ガラメキ温泉(榛名・相馬山) 〜語り継がれる郷愁の湯治場〜

(1)はじめに

 榛名・相馬山の南東、人里離れた山中に秘湯「ガラメキ温泉」があった。かつては二軒の温泉旅館がやけどや皮膚病を治しにきた湯治客や、伊香保温泉からの散策客を相手に営業していたが、戦後、旧日本陸軍の相馬ヶ原演習場を米軍が接収し、山林も含めて演習場としたのに伴って旅館も立ち退かされた。その後、半世紀を経た今日、ガラメキ温泉は地元の人たちの間で郷愁を込めて語り継がれている。旅館「冨士見館」で、現在でいう女将(おかみ)を務めていた中村トシさん(92)=箕郷町矢原=の話を軸に、当時のガラメキ温泉の様子を調べてみた。(はるな支局 T.T)

 ここに一枚の石版印刷物がある。明治三、四十年(1900年代)のころ、温泉旅館が発行した絵図で「上州相馬山がらめき鑛(鉱)泉場真景」(伊香保町・木暮金太夫氏提供)と書かれている。絵図には「中村」と書いた旗のひるがえる「冨士見館」と「阿蘇山(あそやま)館」「扇屋」の名前が記され、露天風呂のような施設が描かれている。

 トシさんは、冨士見館三代目の当主、一(はじめ)さんのもとに嫁ぎ1946(昭和21)年、旅館が米軍の進駐に伴い、強制立ち退きを命じられるまで、同所で13年間暮らした。当時は冨士見館と阿蘇山館のほかに約1KM離れた堂平に山番の住む家があるだけで、扇屋はすでになかったという。

 写真(省略):往時のガラメキ温泉全景 (長野県軽井沢町・中島松樹氏所有の絵はがき)

(2)2軒の旅館が営業 〜ざこ寝状態で50人を収容〜

 「晴れた日は富士山が見えて、九月になると山頂に雪が見えた。旅館にはモミジやマユミの大木があり、季節になると燃えるようなヤマツツジが咲いていた」 冨士見館は、木造二階建ての母屋と平屋造りの離れがあった。母屋は八畳二間と六畳一間の二階を客部屋にあて、離れは六畳と八畳の二部屋があった。

 「何人収容と言うこともないが、相馬山(黒髪神社)に毎年お参りにくる人たちがいて、ざこ寝状態で50人くらい泊めたこともある」 泉質は炭酸塩類泉で、湯温は30度前後。湯治客が大半を占めていた。「やけどで髭(ひげ)をなくした人も、湯治して治ると髭が生えてきた。ガーゼにお湯を含ませて包帯をまく看護婦のようなサービスもしていました。」

 旅館の名物料理は、コイのあらいと山菜。ウドは旅館近くで栽培し、ワラビは山で採れたものを食膳にのせた。子供を学校へ送迎するのにあわせ、箕輪(箕郷)には毎日のように下りて買い物をした。帰りは真っ暗な山道を提灯(ちょうちん)をさげて、家路をたどった。 「旅館は、夏はにぎわったが(経営は)ぎりぎりで『さびれゆく山の温泉』なんて、新聞に書かれたこともあります。(私は)足は達者で山を歩かせたら、だれもかなわない。」

 旅館は国有地を借りて営業していた。1946年、米軍の進駐に伴い相馬ヶ原全域が演習場に指定され、ガラメキ温泉は「72時間以内に撤収せよ」(雨で48時間日延べ)と強制立ち退きを命じられた。「相馬村の人たちが、村中で手伝ってくれた。牛車を延べ百台も出して家財道具や家を解体した材木を運んでくれた。(丁寧に運んでくれて)ガラス一枚割れなかった」と、トシさんは今でも感謝している。

 写真:冨士見館の雑記帳「筆の志津久」。温泉客が短歌や俳句、スケッチ画などを書いている

(3)米軍進駐で立ち退き〜演習場では砲丸飛び交う〜

 朝鮮動乱のさなか、演習場の林野では砲丸がとびかい、そうした状況下でジラード事件が起きた。やがて米軍が撤退し、温泉復活をめざす陳情が行われたが成功せず、いつしか温泉は人びとの記憶から忘れられた。 ガラメキ温泉は、地図上にも記載されているが、現在では旅館跡の石垣と屋敷稲荷、ひっそりとわき出る源泉などを残すだけ。温泉は近くを流れる伏流水の沢水と混じり、雑木林の中を流れ下っている。

 写真(省略):わき出る源泉を溜めた直径80CMのヒューム管。長さ2.4Mの
管に石が投入され、深さ1.5Mになっている

(4)不動明王像持ち去られる

 この源泉近くに、石造りの不動明王像があったが、昨年の夏以降、何者かに持ち去られた。像は高さ70CMほどで脇侍(わきじ)を刻んだ立派なものだった。
 昨年7月16日、榛東村中央公民館の「ふるさと探訪」の一行が、現地を訪れた際には確認されているが、その後年末までの間に持ち去られ、地元の榛東村や箕郷町の関係者をがっかりさせている。

 不動明王像は「精神に不調をきたした人が、湯治にきて治り、信心していた不動明王の像を安置するお堂を建てて、同温泉に寄付した」といういわれを持っている。温泉客にも信迎されていたが、お堂が朽ちた後は、同所に置かれていた。トシさんは「不動明王像を家に降ろすよう勧める人もいたが、いわくのある不動様なので、あえて同所に置いていた」と話している。

(5)ガラメキ温泉の沿革と伝説

 同温泉は二世紀末の仲哀(ちゅうあい)天皇のころ発見されたと伝えられる。1499(明応8)年に文〈尸+生〉渭秀(ぶんせいいしゅう)※1という人が、温泉の湧出を見て「我楽しむの地なり」と、館を建てて住んでいたが、数年後に宗祗法師が上野(こうずけ=上州)を訪れた時に立ち寄り、薪(まき)場にあった木片で薬師如来像を刻んだとされる。永禄年間(1558−69)戦火によって建物は消失し、居住者も離散したが、1848(嘉永元)年箕輪の篤志家数人が再興。1880(明治13)年に鉱泉分析※2が行われ、営業許可も出て温泉地として開発された。ガラメキは「我楽目嬉」「賀羅芽木」「柄目木」「賀良目木」などの漢字書きもする。※3

※1…1499(明応8)年 文屋綱秀 命名 「湯の湧き出す窪」の意もあり 
※2…明治13年7月 群馬県衛生局試験:泉温34℃/含有成分:食塩、重曹、石膏、特に重炭酸マグネシウム多い
※3…国有地(大蔵省)であったあったが、後に榛東村に払い下げ/最近、国土地理院の地図よりガラメキ温泉を削除
※1・2…「いで湯行脚三千湯」美坂哲男著(山と渓谷社)99年7月1日刊 \1,785 32〜36ページ「30年来の夢がかなったガラメキ温泉」より


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