この温泉分析表は、内務省東京衛生試験所で発行したものです。東京衛生試験所は現在の国立医薬品食品衛生研究所で、その前身は明治7年(1874年)に最初の国立試験機関として設立した東京司薬場です。その後、明治20年(1887年)に東京衛生試験所に改称されました。主に薬品や水質の検査を行っていました。
所長の田原博士は、フグの毒を研究して、はじめて卵巣からフグ毒を抽出してテトロドトキシンと命名した高名な化学者です。
温泉成分を解読する
温泉成分は見慣れている陽イオン、陰イオンではありません。化合物で表現されています。そもそも化合物の名前が今風ではありません。まず「炭酸亜酸化鉄」は教科書には出てきません。インターネットを使って炭酸と鉄が関係する化合物を探すと、重炭酸第一鉄
Fe(HCO3)2 が見つかりました。第二鉄もあるのですが水には溶けないもののようですので、「炭酸亜酸化鉄」は、重炭酸第一鉄であるという解釈にします。それから、
硫酸カルチウム、炭酸カルチウムは、もちろん硫酸カルシウム、炭酸カルシウムです。クロールカリウムは塩化カリウム、 珪酸はメタケイ酸、燐酸はリン酸です(これは分かりやすいですね)。
次に各成分の量です。普通は泉水1kg中の成分をmgで表記するのですが、明治の分析表は単位がありません。 「其毎千分中ニ含有スル各成分ノ分量、左ノ如シ。」とあるので、分量というのは重量でしょうから、泉水1kg(1000g)に各成分が何gあるかということでしょう。最初の炭酸亜酸化鉄「○、○弐四○」は、0.0240g/kg
すなわち 24.0mg/kg ということです。それでは明治の分析表の成分の解釈を表にします。
明治の表記 |
現代表記 |
成分量mg/kg |
炭酸亜酸化鉄 |
重炭酸第一鉄 Fe(HCO3)2 |
24.0 |
硫酸カルチウム |
硫酸カルシウム CaSO4 |
21.6 |
炭酸カルチウム |
炭酸カルシウム CaCO3 |
10.9 |
炭酸マグネシウム |
炭酸マグネシウム MgCO3 |
110.3 |
炭酸ナトリウム |
炭酸ナトリウム Na2CO3 |
0.5 |
クロールカリウム |
塩化カリウム KCl |
3.6 |
酸化アルミニウム |
酸化アルミニウム Al203 |
3.7 |
珪酸 |
メタケイ酸 H2SiO3 |
45.7 |
燐酸 |
リン酸 H3PO4 |
痕跡 |
遊離及半結合炭酸 |
遊離二酸化炭素(遊離炭酸) CO2 |
1145.1 |
イオンの量は
現代の分析表と比べるためには、イオンの重量にしなければなりません。最初の重炭酸第一鉄は次のように陽イオンと陰イオンに分かれます。
重炭酸第一鉄 Fe(HCO3)2 → 鉄(II)イオン
Fe2+ + 炭酸水素イオン 2(HCO3)-
イオンの重量を知るためには、イオンの重量比を計算しておく必要があります。高校の化学の時間を思い出して、分子量をまず計算します。詳しい計算は、イオン重量の計算方法のページで説明します。ここでは結果のみですが、鉄(II)イオン
Fe2+ の重量比は 38% 、炭酸水素イオン (HCO3)-
の重量比は 62% になります。重炭酸第一鉄 Fe(HCO3)2
の重量は24.0mgですから、鉄(II)イオン Fe2+ の重量は 9.18mg 、炭酸水素イオン (HCO3)-
の重量は 14.81mg になります。
このようにひとつひとつイオンに分けて成分重量を計算すると、以下のようになります。
陽イオン |
mg/kg |
陰イオン |
mg/kg |
ナトリウムイオン Na+ |
0.22 |
塩素イオン Cl- |
1.71 |
カリウムイオン K+ |
1.89 |
硫酸イオン SO42- |
15.24 |
マグネシウムイオン Mg2+ |
31.80 |
炭酸水素イオン HCO32- |
14.81 |
カルシウムイオン Ca2+ |
10.72 |
炭酸イオン CO32- |
85.32 |
アルミニウムイオン Al3+ |
2.22 |
|
|
鉄(II)イオン Fe2+ |
9.19 |
|
|
このほかにイオンにならない非解離成分として、メタケイ酸 H2SiO3、リン酸
H3PO4、遊離二酸化炭素CO2があります。これはそのまま計算の必要はありません。
現代の分析表と成分を比べる
以上を総合して、現代(平成11年(1998年))の分析表の成分値と比較すると、以下のようになります。
|
成分 |
現代 (mg/kg) |
明治 (mg/kg) |
陽イオン |
リチウムイオン Li+ |
痕跡 |
- |
ナトリウムイオン Na+ |
4.9 |
0.22 |
カリウムイオン K+ |
1.3 |
1.89 |
アンモニウムイオン NH4+ |
0.02 |
- |
マグネシウムイオン Mg2+ |
3.3 |
31.80 |
カルシウムイオン Ca2+ |
13.5 |
10.72 |
ストロンチウムイオン Sr2+ |
0.08 |
- |
バリウムイオン Ba2+ |
痕跡 |
- |
アルミニウムイオン Al3+ |
0.6 |
2.22 |
マンガンイオン Mn2+ |
0.2 |
- |
鉄(II)イオン Fe2+ |
3.3 |
9.19 |
陽イオン計 |
27.4 |
56.04 |
陰イオン |
フッ素イオン F- |
0.4 |
- |
塩素イオン Cl- |
2.1 |
1.71 |
硝酸イオン NO3- |
痕跡 |
- |
硫化水素イオン HS- |
0.02 |
- |
硫酸水素イオン HSO4- |
- |
- |
硫酸イオン SO42- |
17.3 |
15.24 |
リン酸二水素イオン H2PO4- |
痕跡 |
痕跡 |
炭酸水素イオン HCO32- |
56.8 |
14.81 |
炭酸イオン CO32- |
- |
85.32 |
陰イオン計 |
76.6 |
117.08 |
非解離成分 |
メタケイ酸 H2SiO3 |
48.8 |
45.7 |
メタホウ酸 HBO2 |
0.1 |
-
|
非解離成分計 |
48.9 |
45.7 |
残存ガス成分 |
遊離二酸化炭素(遊離炭酸) CO2 |
1094 |
1145.1 |
遊離硫化水素 H2S |
3.6 |
- |
残存ガス成分計 |
1098 |
1145.1 |
明治の分析表からイオンの量を推測して、現代の分析表と並べてみると、かなりよく一致します。現代の分析表の主だったイオンは、明治の分析表にもちゃんと現れています。現代の分析表にあるアンモニウムイオンやフッ素イオンなど量の少ない成分は、明治の分析表にはさすがに現れません。
主な成分でも、カリウムイオン、カルシウムイオン、鉄(II)イオン、塩素イオン、硫酸イオン、メタケイ酸、遊離二酸化炭素はほとんど同じ値です。けっこう違うのは、ナトリウムイオン、マグネシウムイオンです。(炭酸イオンは別の問題です。)これは、もしかすると明治時代と現代で稲子湯の泉質が変化したのかもしれません。
現代の分析表にはない炭酸イオンが明治の分析表にあるのは、単純計算のせいです。炭酸水素イオン、炭酸イオン、 炭酸は温泉水のpHによって相互に変化するものです(「温泉の科学」5-5-1を参照)。化合物から単純計算すると炭酸イオンとなりますが、実際には炭酸(H2CO3)や炭酸水素イオンになっているものと思います。計算上炭酸イオンとしているものが、本当は炭酸水素イオンだったとすると、明治の分析表は現代の分析表にかなり良く一致します。
そのほかの分析値を比べる
明治の分析表にある分析値について、イオンなどの成分量以外の要素についても、現代の分析表と比較してみます。もちろん、現代の分析表の方がより多くの分析値が書いてありますので、明治の分析表に対応する項目を拾い出しています。
項目
|
現代 |
明治 |
泉温 |
7.6℃(調査時の気温 10℃) |
冷鉱泉 |
知覚的試験 |
ほとんど無色澄明、炭酸味・鉄味・硫化水素臭を有す。 |
かすかに白濁し、かすかに刺激性鉱味を有す |
水素イオン濃度 |
pH 4.9 |
ほとんど中性 |
密度 |
1.0002 (20℃において) |
1.0005 (15℃において) |
蒸発残留物 |
123mg/kg (乾燥温度110℃) |
これを煮沸すれば気泡を発揚して分解し、ついに褐色の沈殿を生ず |
泉質 |
単純二酸化炭素・硫黄冷鉱泉(硫化水素型) (弱酸性低張性冷鉱泉) |
弱鋼鉄泉 |
明治の分析表の泉温は「冷鉱泉」とあるので、25℃未満です。当然ですが現代の分析表と矛盾しません。知覚的試験もほとんど同じです。水素イオン濃度は現代のpH4.9は弱酸性です。明治の「ほとんど中性」はだいたい合っています。密度は、明治の方がわずかに大きいですね。
明治の分析表の泉質は「弱鋼鉄泉」とありますが、これは炭酸泉の一種という意味です。当時の泉質分類は明治19年にに内務省編纂内務省衛生局で編纂した「日本鉱泉誌」に示されています。その中で炭酸泉の分類は、(1)単純炭酸泉、(2)
加爾基(カルキ)炭酸泉、(3) 亜児加里(アルカリ)性炭酸泉、(4) 食塩泉亜児加里(アルカリ)泉、(5) 含鉄炭酸泉(即チ鋼鉄泉)となっています。「鋼鉄泉」とは「含鉄炭酸泉」のことでした。
一方、現代の分析表の泉質は 「単純二酸化炭素・硫黄冷鉱泉(硫化水素型)」です。この意味は、「遊離二酸化炭素を1,000mg/kg以上含む」ということと、「硫化水素の形でイオウ(S)を2mg/kg以上含む」ということを表しています。明治の分析表の値を現代の泉質分類で見ても「単純二酸化炭素・硫黄冷鉱泉(硫化水素型)」になります。お湯の性質がほぼ変わらないので当然ですね。
最後に
明治40年(1902年)と平成11年(1998年)の長野県稲子湯の温泉分析表を比べてみました。 96年も昔であるのに分析結果はたいへん良く一致していると思います。現代の泉質分類方法に従って、明治の分析値から泉質を分類してもまったく同じ泉質になります。やはりこれは当時最高の分析機関であった東京衛生試験所がすばらしかったのでしょう。
明治40年の分析表がほかにも見つかったので、稲子湯の分析表と見比べてみてください。山梨県の積翠寺温泉の分析表です。こちらは、山梨県衛生検査所での検査結果ですが、成分の種類とおおよその量が示されているのみです。当時の分析技術は検査機関によって大きな格差があったようです。
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