悲しき銀玉物語

〜1983年〜



銀玉とともに
私が通っていた学校の近くには多くのパチンコ店が並んでいた。ケチな店から太っ腹な店まで色々あったが、 それらの店を回っている内に私はパチンコの魅力に完全に執りつかれてしまった。 私が常連として選んだ店はその界隈で交換率が最も高い店である。欲のない時ややり方が良くわからない時 は得てして勝てるもので、私も例外ではなく、最初の頃は行けば勝てるというビギナーズ・ラックな日々が 続いたのである。来る日も来る日もパチンコ屋に入り浸り、学校に行く前に店に顔を出してそのまま閉店まで 居座る事もしばしば。今考えれば頭が狂ったとしか言いようのない日々だった。

当時のパチンコ台は一般台とデジタル機が半々ぐらいだった。いわゆる一般台は時代とともにいつの間にか 消えてなくなったが、当時は一般台がまだ主流で、羽根物の台などはどこの店にも沢山あった。私の記憶では 当時のデジタル機は主に4種類。 ルーキーZ、アイドル7、フィーバー7、それにブラボー7だった。今思えば名前に"7"がつく機種がやたらと 多かったように感じる。 パチンコを覚えたての頃はゼロタイガーなどの羽根物をやっていたが、時間をかけてコツコツやるのが だんだん面倒になり、一気にデジタル機に乗り換えた。そしてこれが地獄への水先案内だったのである。

羽根物をやってた頃は3千円ぐらいを限度にして、それ以上は突っ込まないように自制が効いた。しかしデジタル機 に転向してからは自制心が働かなくなり、万単位の負けは日常的になってしまった。こうなると金銭感覚は 完全に麻痺である。負ければとり返す為に金を突っ込み、勝てば勝ったで欲を出してまた突っ込む。 アルバイトで稼いだ金もほとんど銀玉化。まさに悪循環極まりない話である。

パチンコは危険である。特に規制前のパチンコは身を滅ぼす危険があった。そう言えば店で中年のサラリーマン に声を掛けられた事があった。その人はこう言っていた。「初めてパチンコをやって数万円儲けた。こんなに簡単に儲かる なら明日から仕事に行かない。どう、いっしょにお茶でも飲まない?」。冗談はヨシコさんである。この月虎、 例えどんなに腐っても男である。見ず知らずの中年サラリーマンとお茶を飲む筋合いはない。もちろんこれが女性なら 話しは別かもしれない。とにかくパチンコには悪魔が潜んでいる。これに取り付かれると簡単には逃れられないという 事を身をもって知った。私はニ度とその悪魔に近づいてはならない。あの中年サラリーマンはあれから相当痛い目に 遭ったに違いないだろう。

私の最後の学生生活の多くの時間はパチンコに飲まれてしまった。そう、銀玉とともに。 しかし私はぎりぎりの所で足を洗った。仲間の中にどうしても足が洗えず、かといってパチプロにもなれず、 金を使い果たしてアパートも追い出され、私の部屋に一時的に転がり込んできたヤツがいた。 そして最後は学校も辞めてしまってどこかに消えてしまった。

彼はあれからどうなったのか。
ニカウ君。



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