栃木県の玩具
01. 九尾の狐(那須町)
02. 二荒山神社の黄鮒と豆太鼓(宇都宮市)
03. ふくべ細工(宇都宮市)
04. 大谷石細工(宇都宮市)
05. 天神(宇都宮市・佐野市)
06. 八朔人形(佐野市)
07. 箱庭玩具(佐野市)
08. 県南の諸玩(栃木市・足利市)
09. きびがら細工(鹿沼市)
10. 豆茶道具(今市市)
11. 三猿と眠猫(日光市)
12. 眠り猫の貯金玉(日光市)
01.九尾の狐(那須町)



東北地方から上京するのに、一昔前は内陸側を通る東北本線か海側を通る常磐線のいずれかで上野に到着した。関東地方の郷土玩具も、東北本線と常磐線に沿って南下しながら順に紹介していきたい。さて、福島と栃木の県境にある白河の関を越すと“九尾(きゅうび)の狐”の伝説で知られる那須野である。八百年ほど前のこと、ときの帝の寵愛を一身にあつめた“玉藻(たまも)の前”という美女、実はインドや中国で悪行をなした白面金毛、九本の尾をもつ狐の化身だったが、陰陽師(おんみょうじ)に見破られて遠く那須野へ飛び去った。勅命で退治された後は、その恨みから毒気を噴出して多くの生き物を殺す恐ろしい“殺生(せっしょう)石”に化したという。那須湯本温泉の町並みを通り抜けると、突き当たりに焼け爛れた地肌を晒した斜面が見え、今も硫化水素を発散するといわれる殺生石がある。写真は当地で売っている九尾の狐に因む郷土玩具だが、県内の烏山和紙で作られる張子人形(右、高さ8cm)のほかは、張子面、木彫りとも他県の産である。(H18.8.25

02.二荒山神社の黄鮒と豆太鼓(宇都宮市)



県都・宇都宮の中心部、二荒山神社は小高い丘に在ってよく目立つ。そこからの眺めは上々、市内全域を見渡すことができる。二荒山神社の縁起物に豆太鼓と黄鮒がある。“まめ(健康)”を祈願する豆太鼓は各地に見られるが、宇都宮の図柄は二重丸が描かれているだけのシンプルなものである。豆太鼓を振ると、糸で結ばれた二粒の大豆が太鼓を打ち、パランパランと乾いた音がしてなつかしい。一方、黄鮒には次のような謂れがある。むかし、天然痘の流行ったころ、ある人が川で釣った黄色の鮒を病人に食べさせたところたちまち病が治ったので、人々はこぞって門口に張子の黄鮒を吊り下げるようになったという。天然痘の厄払いは赤色というのが通例だが、黄色は当地のみであろう。豆太鼓の径7cm。(H18.8.27)

03. ふくべ細工(宇都宮市)



干瓢は、ふくべ(ユウガオの一種)の実の中身を細長く剥いて乾かしたもの。海苔巻の具など食材としての需要が多いが、砂糖漬けなどの菓子にも加工され宇都宮の名産品になっている。干瓢をとった後のカラを乾燥させ塗装して仕上げたものがふくべ細工で、炭入れ、花器、食器などが有名である。また、ふくべを材料に面や人形も作られている。瓢箪だるまの高さ10cm。(H18.9.14)

04. 大谷石細工(宇都宮市)



宇都宮市街から西に行くこと8キロ、次第に石塀、石造りの倉庫が目立ってくる。このあたりが大谷(おおや)地区である。凝灰岩である大谷石は露天掘りで容易に切り出せること、柔らかくて加工しやすいことから、宇都宮城の築城など古くより利用されていた。特に、関東大震災にも耐えた旧帝国ホテルが大谷石の建造物だったことで評判を呼び、建築材として全国的に人気をはくした(1)。また、ミニ石灯籠や蛙、亀、狸などの人形にも細工され、みやげ物として喜ばれている。石の里、大谷には採掘場の深い断崖絶壁、巨大な磨崖仏(平和観音)、平安初期の磨崖仏(千手観音)など見どころも多い。蛙の高さ6cm。(H18.9.30)

05. 天神(宇都宮市・佐野市)



栃木県内に菅原道真公のゆかりをたずねると、県南の佐野に次のような話が伝わっていた。百足(むかで)退治の伝説で知られる田原(俵)藤太、後の藤原秀郷は道真公と京の御所勤めのころより親しく交わる仲であった。時の警察長官として下野国に下った秀郷が平将門征伐を祈願して春日神を祭った旭丘は、朝日森天満宮となって今に至っているが、秀郷の後裔が無実の罪におとしいれられた際に、己の境遇に道真公を重ね合わせて大宰府天満宮に祈願したところ冤罪がはれたことから、この神恩に感謝して天満宮を勧請したのがその縁起だという。右は佐野土鈴の作者が手捻りで作る牛乗天神。ほかに赤天神土鈴などもある。左は宇都宮の下野土鈴の作者による土天神。高さ6cm。(H18.10.8)

06. 八朔人形(佐野市)



昔から、八朔(旧暦8月1日)に餅を配ったり贈り物をしたりして祝う風習が全国各地にあった。筆者の住む仙台近郊でも、八朔には農家は仕事を休み、餅をついて神棚に供え、祝儀の品として近所にも配る。忙しくなる秋の農作業を前に豊作を祈り、また、互いに季節の挨拶をし合うのである。また、福岡県では八朔に男児の生まれた家にわら馬を贈る習俗が今でも残っている。つまり、八朔の行事は贈答の習俗と稲作に関する習俗の二面を持っているわけだ。さて、佐野あたりでは、いつの頃からか八朔の日に女の子には京女郎、男の子には天神や馬乗り武者の人形を贈って祝う風習があって、大正初めの頃まで続いていたという。八朔人形は、佐野在の田沼で農家の副業として練り物(干支の犬06参照)で作られていたが、戦前までに廃絶した(2)。それを惜しんだ佐野土鈴の作者が、土人形で再現したものがこの京女郎と馬乗り武者(左2体)である。合わせて、同じ作者による風俗人形も紹介しておく。京女郎の高さ14cmH18.10.8)

07. 箱庭玩具(佐野市)



佐野土鈴の作者、相沢市太郎翁を訪ねて佐野駅に降りたのは12年前の冬で、雪のちらつくとても寒い日だった。「鉢の木」の佐野源左衛門が大切な鉢植えの梅、松、桜を焚き木にして北条時頼をもてなした日もかくやと思われたが、92歳になる翁の話は多岐にわたって実に面白く、道すがらの寒さもすっかり忘れた。若い頃は箱庭玩具(箱庭部品)を作っていたというので、それはどんなものかお聞きしたら、その辺にあるからといって実物を探してきてくれた。粘土で型抜きして硬く焼いたものに、ごく簡単な彩色がしてある。これらを好みで配して、ミニチュアの庭園や山水の景色を作るのである。八朔人形などを買い求めてお暇しようとしたら、「恙なく今日も一日無事カエル」と筆でしたためた短冊とともに、箱庭玩具を3個お土産に持たせてくれた。多謝。石灯篭の高さ5cm
H18.10.8)

08. 県南の諸玩(栃木市・足利市)



栃木県南部(両毛、都賀地方)は、幾度か歴史の表舞台に登場している。ここを父祖の地とする足利氏の活躍で室町時代の基礎は築かれたし、フランシスコ‐ザビエルが“坂東の大学”と呼んだ足利学校は室町・戦国時代の文化を代表するものといえよう。また、江戸時代から盛んであった織物、鋳物産業、足尾の銅、葛生の石灰は富国強兵の国策に大いに寄与し、明治期にかけて佐野や足利の商業資本の蓄積は目覚しいものであった。一方で、足尾銅山による渡良瀬川流域の汚染など負の歴史を背負った地域でもある。しかし、わが国初の公害といわれる足尾鉱毒事件に対し、反対運動の先頭に立った人物も佐野出身の田中正造であったから、この地は環境保護運動の輝かしい発祥の地ともいえる。
栃木市は宇都宮市に県庁が移される前の県都である。その中心を流れる巴波(うずま)川の水涸れを救った鯰の報恩譚に因んだのが手前の玩具。江戸時代、この地方が日照りで困っていたとき、ある農民が子鯰を助けて巴波川に放してやったところ、三日後に夕立が降って大いに助かったという。後列右は栃木市郊外にある太平(おおひら)山神社の火伏獅子。戦国時代、戦火を免れ神社で唯一焼け残ったという社宝の獅子がモデル。栃木市特産の下駄の落とし木(歯と歯の間の木片)を廃物利用して作られている。左は足利市にある足利尊氏の守り本尊、鑁阿(ばんな)寺大日尊の鬼鈴で、佐野土鈴の作者の手になるものである。鬼鈴の高さ6cm。(H18.10.19)

09. きびがら細工(鹿沼市)



栃木県も南の端まで来てしまったが、「日光を見ずして結構と言うことなかれ」というわけで、ちょっと後戻りしてみよう。足利→佐野→栃木→鹿沼→今市→日光と北上するルートは例幣使(れいへいし)街道と呼ばれ、京都から日光東照宮へ勅使が通った道である。近世、北関東唯一の東西交通路として繁栄した。日光東照宮の造営に全国各地から集まった宮大工や彫刻師、指物師、漆師などの職人達は、東照宮完成後も例幣使街道沿いの町々に留まってその技術を伝承し、現在の基幹産業の礎を築いた(1)。和家具や建具の町として知られる鹿沼も例外ではない。もう一つ、鹿沼の名産にほうきがある。座敷ぼうきにはいろいろ産地があって、長井(山形県)や、田舎館(青森県)産のように手間のこんだ美しいものもあるが、鹿沼ぼうきは装飾と実用を兼備した点で、身近な道具を美しくして持ちたいという民芸の心が表れている日本一のほうきである(3)。そのほうき職人が昭和37年に創案した十二支。ほうき草を赤茶色の丈夫な糸で編み、堅く締めて作り上げる。鼠の高さ5cm。(H18.10.28

10. 豆茶道具(今市市)



例幣使街道は、宇都宮から来た日光街道と今市で合流する。ここには北からの会津街道も加わり、今市は日光の表玄関として栄えた。今でも東照宮造営に携わった職人の伝統が活かされ、挽き物細工など木工業のほか、日光をひかえて観光みやげ品の製造もさかんである。写真の豆茶道具は日光茶道具と呼ばれ、ロクロ技術を持った職人が仕事の余技に作ったのが始まりとされる。茶碗、急須、茶釜などが精巧なミニチュアになっていて、これら一揃いが茶櫃(びつ)に収まるようになっている手の込んだもの。挽き物玩具というより工芸品と呼ぶにふさわしい。材料にはミズノキ、エンジュ、ケヤキ、サクラなどが使われている。豆茶道具は他にも群馬県総社、神奈川県箱根、大山など関東各地で作られているし、東北のこけし工人も作ることがあるが、いずれも日光茶道具に比べ小ぶりで、精巧さにおいてもかなわない。茶櫃の直径14cm。(H18.10.20

11. 三猿と眠猫(日光市)



今市から日光へ向かう街道には、樹齢350年を超える老杉の並木が残っている。この辺りの杉葉は今市の線香造りを興したほか、木材を利用した日光下駄や日光彫といった伝統産業を発展させた。今では下駄の台木にはホウやハンが、日光彫にはトチが使われているそうだ。さて、“東照宮の三彫刻”なるものがある。狩野探幽の下絵になるという象、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿、左甚五郎作と伝えられる眠猫がそれである。三つのうち、想像で描かれた象の耳や尾がおかしいのはやむを得ないことで、日光みやげにもなっていないようだ。一方、三猿と眠猫は木彫品や土人形、文鎮などになって、みやげ物屋の店先に多数並んでいる。左は木彫り風に作られた土製の三猿。中学校の修学旅行で買った、筆者にとって初めての収集品である。右は木彫りの眠猫。残念ながら、寝姿では動物本来の生き生きした動きや可愛らしさが活かされず、人形としてはつまらない。眠猫の高さ4cm。(H18.11.15

12. 眠り猫の貯金玉(日光市)



昔から日光は修学旅行生のメッカであるから、売られるみやげ物も“教育的”にならざるを得ない。そこで、学用品である文鎮や鉛筆立てと並んで、無駄遣いを戒める貯金箱が修学旅行みやげの定番となる。写真は眠猫を貯金箱(貯金玉)に仕立てたもの(高さ7cm)。底には紙で塞いだ穴があり、貯めたお金が取り出せるようになっている。流し込みの石膏製で、おそらく愛知県あたりで量産されたものだろう。眠猫は東照宮廻廊の潜(くぐり)門の軒に彫られており、この眠猫のおかげで日光には鼠の害がないといわれている。(H18.12.5

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