1807年2月8日
アイラウ





ミュラの突撃


 フランス軍が多くの損害を出した吹雪のアイラウ。この戦いは一方でChandlerが「ナポレオン戦争の中で、アイラウの戦いほど疑問と不確実性に覆われている戦いは存在しない」(Chandler "Campaigns" p535)と述べたように、その詳細について意外と知られていない戦いでもある。
 その中で一般的に知られている経緯を1991年版Encyclopedia Britannicaに沿って描写すると、以下のようになる。まず2月8日の明け方にロシア軍の攻撃が行われ、それを撃退した後でフランス軍が攻勢に出る。

「そこでナポレオンは彼の中央部隊、オージュローの第7軍団に対し、教会から出撃してロシア軍の正面へ前進するよう命じ、オージュローの右翼にいるサン=ティレール師団にも攻撃に参加せよと命令した」
Encyclopedia Britannica "Eylau"


 このオージュローによる攻撃は吹雪のために道を失い、大失敗に終わる。危機に直面したナポレオンは戦線を立て直すためにさらに部隊を投じる。

「ナポレオンは全戦線にわたって騎兵を投入した。中央で突撃を率いたのはミュラとベシエールで、ロシアの騎兵は戦場から一掃された」
Encyclopedia Britannica "Eylau"


 騎兵突撃で時間を稼いだフランス軍の下に増援が訪れる。

「二波目の騎兵突撃は再び戦線を撃ち破り、最終的に撤収した時に疲れきった騎兵は深刻な損害を出してはいたものの、彼らは目的を達成した。オージュロー軍団と他の師団の残骸は再編され、親衛隊は最前列に布陣した。そして何より、ダヴー軍団の先頭部隊がセルパーレンを占拠した」
Encyclopedia Britannica "Eylau"


 フランス側の動きに注目するなら(1)オージュロー軍団の攻撃(2)ミュラの突撃(3)ダヴーの来援――という順番で事態が推移したことになる。これと同じ見解の持ち主は多い。

「今やダヴーは完全に布陣を終え、かくして午後1時、ナポレオンは彼を(その左翼のサン=ティレールと伴に)トルストイ[ロシア軍左翼指揮官]の無防備な側面を広く囲むように前進させた。(中略)午後を通じて南翼で盛んに戦いが行われ、ゆっくりとしかし確実にダヴーはロシア軍を後退させベンニヒゼンの戦線をヘアピンのように折り曲げた」
Chandler "Campaign" p545

「2月8日の朝、フランス軍の各軍団は皇帝の命令に従いあらゆる方面から急ぎ集まった。しかし、第3軍団が戦場に到着し、戦闘に参加したのは正午になってからだった」
Richard Phillipson Dunn-Pattison "Napoleon's Marshals" p141-142


 最近、1806−07年戦役について本を書いたChristopher Summervilleはこのあたりの経緯についてさらに詳細に記している。

「その間、ダヴーはバルテンシュタイン街道を経てアイラウへ着実に前進していた。しかし彼の先導師団――フリアン師団――はナポレオンの最右翼に近づいたところでロシア騎兵に迎撃された。数分内にオステルマン=トルストイの兵がフリアンの前衛部隊に襲い掛かり、第3軍団の前進を食い止め、強力なフランス軍の増援が切迫しているとベンニヒゼンに予め警告した。(中略)
 ダヴー軍団の展開が重要だと気づいたナポレオンは、フリアンへの圧力を取り去るため右翼で大規模な陽動を成すことを決意した。彼はオージュロー元帥を呼んだ」
Summerville "Napoleon's Polish Gamble" p78


 その後、Summervilleはオージュローの攻撃とミュラの突撃を描写した後でダヴーに話を戻している。

「その間、『鉄の元帥』は午後1時前後に遂に皇帝の右翼に姿を現した。皇帝は間をおかずに彼をオステルマン=トルストイの無防備な側面へ送り込み、セルパーレンとクライン=ザウスガルテンの村へ向かった」
Summerville "Napoleon's Polish Gamble" p84


 以上の一連の著作では、ダヴーの第3軍団が戦場に来援し、ロシア軍最右翼にあったセルパーレンの村を占領したのが正午から午後1時にかけての出来事だと説明している。オージュローの攻撃やミュラの突撃は午前中に行われているため、ダヴーの到着はその後という形だ。

 だが、世の中には異なる説を唱えている人も多い。そちらの見解に従うなら、一連の経緯は(1)ダヴー軍団のセルパーレン占領(2)オージュロー軍団の攻撃(3)ミュラの突撃――という順序で起きたことになる。例えば以下のような主張がそれだ。

「とうとうフリアン師団の前衛部隊3個連隊がセルパーレンの前に到着した。ダヴーが遂にやって来たのだ。フリアンはバゴヴート[ロシア軍将軍]をセルパーレンから排除し、彼らをクライン=ザウスガルテンへと追い払った」
George F. Nafziger "The Eylau-Friedland Campaign of 1806-7" p61

「ナポレオンは墓地にある監視所にいた。彼はロシア軍がダヴーの攻撃に対処するため部隊を南へシフトしているのを見た。決定的な時が到来し、ナポレオンは攻撃を命じた。サン=ティレール師団はダヴー軍団と連結するためセルパーレンへ行軍する。その間、[オージュロー軍団の]2個師団は密集隊形でロシア軍に襲い掛かる」
Nafziger "The Eylau-Friedland Campaign of 1806-7" p63


 Summervilleがオージュローの攻撃についてダヴーの前進と展開を助けるためだと説明しているのに対し、Nafzigerはダヴーの攻撃が始まりロシア軍が部隊を動かし始めたのを見てナポレオンが攻撃機の到来と判断したためだと解釈している。他にも同じ意見の研究者は大勢いる。

「午前9時頃、タチコフが風車の丘を奪おうと試み失敗した。ナポレオンはまだダヴーが到着していなかったため、この小さな成功に乗じるのを自制した。
 そのすぐ後、フリアンがバゴヴートをセルパーレンから追い出し、激しい逆襲を撃退して敵をクライン=ザウスガルテンまで追い払った。フリアンの軽量な師団砲兵を圧倒したロシア軍砲兵は、この後退を効果的に掩護した。
 午前10時頃になっていた。ダヴーの進展とスールトが蒙った大きな損害を考慮したナポレオンは素早い決着を求めることを決意した。オージュローが第4軍団(スールト)を通り抜け、敵の中央を攻撃することになった」
Esposito & Elting "Atlas" map73

「午前9時、ダヴーはフリアンをセルパーレンに投入し、勇敢な将軍はいつものように成功を収めた。フリアンがロシア軍をクライン=ザウスガルテンへ追い返したため、モラン師団は彼の左後方に布陣し、第2師団[フリアン]とナポレオンの右翼を形成しているサン=ティレール将軍の師団(第4軍団)を結ぶ位置に素早く移動した。ベンニヒゼンが予備の一部を投じて動きを止めようとしたにもかかわらずダヴーの攻撃は勢いを増した。ナポレオンは今やオージュローの第7軍団に前進を命じた」
John G. Gallaher "The Iron Marshal" p145

「午前9時
 ダヴーがアイラウに到着し、間を置くことなくセルパーレンとクライン=ザウスガルテンを占拠した。
ダヴー『フリアン師団が先導し、モラン師団とギュダン師団が続いた。この方面の戦いはすぐに猛烈なものになった』
 しかし、一次は圧倒されたロシア軍左翼は、再びダヴーを食い止めすぐに彼らを困難に陥れた。
 ナポレオンは部下を助けるためサン=ティレールとオージュローに前進を命じた。この時、北西の恐ろしい風と伴に突然の吹雪が生じ、視界は20歩以下にまで制限され、雪片がフランス軍歩兵の目に飛び込んで目的地を見失わせた」
Histoire du Consulat et du Premier Empire Robert Ouvrard "Bataille d'Eylau"


 なぜ意見が分かれるのか。まずはChandlerらの説の背景を探ってみる。すると浮かび上がるのが、アイラウの戦いについて最初に英語で紹介したRobert Wilsonの著作だ。彼は1810年に出版されたその本で、ロシア軍左翼に対する攻撃(オージュロー)と戦線を突破した敵騎兵(ミュラ)の撃退について触れた後で、以下のように述べている。

「敵の攻撃はかくして完全に挫かれ、勝利を確実にするためレストク将軍の到着という措置を取ることになった。彼の下から来た士官によって適切な時に現れると期待されていた将軍に対して、迅速に行軍するよう命令が送られた。その時、ロシア軍の左翼を迂回すべくフランス軍部隊が森から前進してくるのが観察された。そしてほとんどすぐに激しい砲撃がロシア軍に向けられ、彼らはセルパーレンを保持しようと試みたが、彼らの勇気と忍耐にもかかわらず、そこを放棄することを強いられた」
Robert Wilson "Campaigns in Poland 1806 and 1807" p104


 オージュローやミュラの攻撃が撃退された後になって初めてセルパーレンが落ちた。ロシア軍に同行していたWilsonはそのように指摘している。そしてこれはロシア側の公式記録とも一致している。

「我が軍の猛烈さと敵軍の損害を伴いながらあらゆる方面で撃退された敵は、その部隊の大半を集め、極めて密集した縦隊を組み、我々の左翼を迂回するためにそれを差し向けてきた。これほど優勢な敵に抵抗するのは不可能だと気づいたバゴヴート将軍はこの時まで彼が占領してきたセルパーレン村を燃やし、他の場所に陣を敷くため移動した」
Wilson "Campaigns in Poland 1806 and 1807" p241


 彼らの意見と歩調が合っているのが、フランス側の出した公報だ(『アイラウ 大陸軍公報(Markham版)』参照)。

「大陸軍公報 第58号
 プロイシッシュ=アイラウ、1807年2月9日
 (中略)翌日[8日]、最初のぼんやりとした陽光が差してくると同時に、ロシア軍は活発な砲撃と伴に攻撃を始めた。皇帝は敵が前日にとても頑強に守った教会に布陣した。彼はオージュロー元帥の軍団を前進させ、教会が建つ丘は彼の親衛隊に属する40門の大砲で丘を砲撃された。(中略)
 敵の背後に襲い掛かるため分遣されたものの、天候のため進軍を大いに邪魔されたダヴー元帥の軍団がようやく命令を実行できるようになり、勝利を決定づけた」
J. David Markham "Imperial Glory" p143


 ここでもオージュローらの攻撃が先になされ、ダヴーの到着とその攻撃は後から行われたことになっている。ロシア側とフランス側の両方の記録が一致しているのだから問題なし。やはりダヴーの攻撃はオージュローやミュラの攻撃の後に行われたのだ、と結論づけたいところだが、そうもいかない。まず問題なのが、上に紹介した公報が果たして正確か否か、である。
 1807年に出版された"Precis Des Travaux de la Grande Armée"という本がある。1806−07年戦役のうちアイラウの戦いまでの様々な一次史料を取りまとめた本のようで、その中には一連の大陸軍公報も掲載されている。そして、そこにあるアイラウの戦い関連の公報記録は、上に紹介したMarkhamの本に書かれているものとはかなり異なるのだ(『アイラウ 大陸軍公報(Gorsuch版)』参照)。例えばダヴーの名が最初に出てくる場面は以下のようになっている。

「同時にダヴー元帥の狙撃兵の銃声が聞こえ、彼らは敵軍の後方に到着した。オージュロー元帥の軍団は敵の注意をひきつけることで彼らが完全にダヴー元帥の軍団に対して向かうのを防ぐため、敵の方へ出て行った。(中略)」
Napoleon Series "Precis Des Travaux de la Grande Armée"


 Markhamの本ではミュラの騎兵突撃後にならないと登場しないダヴーが、ここではオージュローの前進前に早くも出てきている。もしMarkhamの本ではなく"Precis Des Travaux de la Grande Armee"に紹介されている公報の方が正しいのだとしたら、ダヴーの行動についてフランス側とロシア側の記録は一致しなくなってしまう。
 そして、"Precis Des Travaux de la Grande Armée"と同様な話を紹介している一次史料は他にもある。代表的なのはダヴーが書いた報告書だろう。

「夜明けになる前、軽騎兵とフリアン将軍の歩兵師団の先頭がセルパーレンの前面でコサックを見つけた。彼らは最初の銃撃で退却した。第2師団[フリアン]がセルパーレンのこちら側にある丘で戦い、第48(歩兵)連隊のいくつかの中隊がラコンブ中佐の指揮下でこの村を占拠した時、夜が明け始めた。第1師団[モラン]は第2師団の背後に布陣した」
Scott Bowden "Napoleon's Finest" p149


 これを支持するのがモランが記した以下の報告書。

「リカール将軍の旅団が3つの縦隊を組み、その間に軽砲兵を置くや否や、私はセルパーレン村前方に布陣し、この村を制圧できる高地の上に集まった敵の多数の戦列歩兵と増援の多くの砲兵を攻撃するよう命令を受けました。(中略)
 その間、オニエール将軍はあなたの命令に従い、予備として第51及び61連隊の縦隊をフリアン師団と我が第1旅団の間、セルパーレン村の背後に配置しました」
Souvenir du Maréchal Davout "Rapport du général Morand"


 セルパーレンに到着したモランがフリアンを支援すべくセルパーレン村の「前方」に布陣し、予備をその「背後」に置いたことが分かる。村自体は占領済みだったから、その前と後に部隊を置いたと考えても問題はないだろう。
 他にもオージュローの攻撃より前にダヴーが戦場に到着していることを指摘しているものがある。

「同時に教会の塔の上からダヴー軍団が前進しているのが見えると聞いて皇帝は喜んだ。ダヴーはモルヴィッテンを経由してきており、セルパーレンへ行軍してロシア軍左翼を追い払い、彼らをクライン=ザウスガルテンまで押し戻した。
 ベンニヒゼン元帥は左翼が敗れ大胆なダヴーによって背後が脅かされているのを見ると、彼を優勢な戦力で撃ち破ることを決意した。そこでナポレオンは敵の中央に対する陽動によってこの動きを妨げようと、作戦が困難であることを予想しながらもオージュローに攻撃を命じた」
Napoleonic Literature Marcellis de Marbot "The Memoirs of Baron de Marbot"


 さらに、ロシア側の記録でも、公式記録以外に目を向ければダヴーが早い時間に戦場へやって来ていたことを窺わせるものがある。例えばダヴィドフは回想録で以下のように記している。

「ハイルスベルク街道からバルテンシュタイン街道へ移動するよう命じられていたダヴー軍団の到着が近いと知らされたナポレオンは、彼の軍の中央に対し右側へ移動しダヴーと一体的に作戦をするよう命令した。軍が前進したところ激しい吹雪が打ち付け、数歩前方より遠くを見るのが不可能になった」
Denis Davidov "In the Service of the Tsar against Napoleon" p36-37


 ダヴーの到着時刻は明記していないが、ナポレオンによる前進命令がダヴーの到着を前提としたものであることが分かる。さらにエルモロフの回想録もある。

「フランス軍は我々の中央に対しいくつかの無益な攻撃を行い、そこに集められた60門の大砲により損害を受けた。我々の左翼に対する彼らの攻撃はより成功した。将軍ザッケン男爵の合理的な命令も、勇敢な少将オステルマン=トルストイ伯の抵抗もフランス軍を止めることはできなかった。左翼は後退し、その戦線はほとんど他の軍と直角を成すに至った。午前11時頃、深い雪があらゆるものをよく見えなくし、戦闘は15分ほど中断された。そして、フランス親衛胸甲騎兵の2個大隊が方角を失って我々の歩兵と騎兵の間に紛れ込み、そのほんの一部だけが逃げ延びた」
Alexey Yermolov "The Czar's General" p82


 エルモロフの証言だけではオージュローの攻撃とダヴーの攻撃の前後関係は不明だが、少なくともミュラの突撃より前にダヴーの攻撃が進展していたことが窺える。

 結局、どちらが正しいのだろうか。こちらのサイトには、プロイセン軍の報告、最近のロシア軍に関する文献、さらにフランス軍の元帥たちの報告を見る限りフリアンは夜明けにセルパーレンを落とした、という話が書いている。残念ながら論拠として挙げられているサイトが既に消滅しているため、どこまで正しいのか判断は難しい。
 一方で、ロシア軍左翼へ圧力がかかるようになったのは随分遅くなってからだとWilsonが感じたのも、また事実のようだ。会戦の翌日2月9日にWilsonがハッチンソンに宛てて書いた報告書の中で彼は、左翼に対するフランス軍の攻撃(オージュロー)、騎兵攻撃(ミュラ)を撃退したことについて述べた後に以下のように記している。

「しかしブオナパルテはロシア軍の宿営地に対する攻撃が屈辱的な失敗になったことに気づくと、大掛かりな迂回行動を行い、ロシア軍左翼の背後を脅かして新たな陣を敷くことを強いた」
Google Book "Life of general sir Robert Wilson, Volume II" p410


 報告書が書かれたのが会戦の翌日である以上、Wilsonがベンニヒゼンの公式報告を丸写ししたとは思えない。実際にセルパーレンで戦っていた部隊はともかく、ロシア軍司令部から見るとダヴーの攻撃は随分遅く始まったように思われたのだろう。その理由について以下のように説明する人もいる。

「夜明け直後、フリアンは彼の師団をセルパーレン近くの高地に布陣させた。バガヴートは彼の接近に伴ってその村から退避し、(フランス軍)第48連隊のいくつかの中隊がそこを占拠した。マリューラはフリアンの右翼に、モランは背後の第2線に布陣した。ここでギュダン師団の接近を待つためいくらかの遅れが生じたと見られる。というのもダヴーの攻撃は正午になるまで本格的にならなかったためだ」
Francis Loraine Petre "Napoleon's Campaign in Poland" p188-189


 以上、様々な課題があるが、最大の問題はMarkhamの翻訳した大陸軍公報と、"Precis Des Travaux de la Grande Armée"に載っている公報の間に存在する奇妙な不一致だろう。一体どちらが本来の公報だったのか、非常に気になる。

――大陸軍 その虚像と実像――