アイラウ
大陸軍公報(Markham版)



 公報第58号
 プロイシッシュ=アイラウ、1807年2月9日

 アイラウの戦闘

 小さな町プロイシッシュ=アイラウから4分の1リーグ内のところに広がる平地の入り口を守るような高地がある。スールト元帥は第46及び第18歩兵連隊にそこを奪うよう命じた。守備に当たっていた3個連隊は屈服させられたが、同時にロシア軍の騎兵縦隊が第18連隊の左翼の端に突撃し、その大隊の一つを混乱させた。クライン師団の竜騎兵がこれに気づき、兵たちはアイラウの町中で交戦した。敵は教会と墓地にいくつかの連隊を布陣した。そこで彼らは頑強に抵抗し、双方にとって命がけの戦いが行われた後、午後10時にそこは奪取された。ルグラン師団は街の前面で、サン=ティレール師団はその右側で野営した。オージュロー元帥の軍団は左翼に置かれ、ダヴー元帥の軍団は前日にアイラウを迂回するために出発し、もし敵が陣地を変えなければその側面に襲い掛かることになっていた。ネイ元帥は敵の右翼を迂回するため移動中だった。このような布陣で夜が過ぎていった。

 アイラウ会戦

 翌日、最初のぼんやりとした陽光が差してくると同時に、ロシア軍は活発な砲撃と伴に攻撃を始めた。皇帝は敵が前日にとても頑強に守った教会に布陣した。彼はオージュロー元帥の軍団を前進させ、教会が建つ丘は彼の親衛隊に属する40門の大砲で丘を砲撃された。両軍は双方とも大砲の射程距離の半分以内にいた。砲声は恐ろしいものだった。いくらかの間砲撃が続いた後で、兵たちは何も決定的なことが起こらないまま多くの損害を蒙ることに我慢がならなくなった。互いに優位を得るべく双方でいくつかの機動が始まり、その間に激しい吹雪が到来し、結果として兵たちは2歩の距離からお互いを認識できなくなった。この薄闇の中でいくつかの軍団は方向を見失い、縦隊は左側へ進みすぎ、おぼつかなく漂流した。この状態は半時間続いた。天候が回復した時、騎兵部隊の先頭に立った[ベルク]大公[ミュラ]は、親衛隊の先頭に立ったベシエール元帥とサン=ティレール師団に支援され、前進し敵を攻撃した。この大胆な作戦は騎兵を栄光に包んだが、それは我々の[歩兵]縦隊が置かれた状況では必要なものになった。この作戦に対抗しようとした敵騎兵は完全に壊走した。殺戮は恐ろしいものだった。ロシア歩兵は第二線まで破られ、第三戦が森に支援されることでかろうじて抵抗した。親衛隊のいくつかの騎兵大隊は敵全軍を2回貫通した。
 輝かしい突撃は、森といくらかの困難な地形がなければ勝利をすぐに決定づけていただろう。ドープール将軍は負傷した。ダルマン将軍は攻撃中に栄光のうちに戦死した。戦場に倒れていた竜騎兵、胸甲騎兵及び親衛隊の死者100騎に対し、彼らの周囲には1000人以上の敵の死体が見つかった。
 敵の背後に襲い掛かるため分遣されたものの、天候のため進軍を大いに邪魔されたダヴー元帥の軍団がようやく命令を実行できるようになり、勝利を決定づけた。敵はこの将軍を撃退しようといくつかの無駄な試みをした後で退却し、戦場に負傷者と16門の大砲を置き去りにした。
 この戦闘による双方の死傷者は極めて多く、それは両軍が短い距離で12時間以上にわたって300門以上の大砲による継続的な砲撃が行われた限り、他にあり得ない結果だった。
 オージュロー元帥は戦闘で負傷した。デジャルダン、ウードレ、ロシュ将軍も負傷した。コルビノー将軍は戦死した。第63連隊のラクエ大佐と第43連隊のルマロワ大佐も戦死した。第11竜騎兵連隊のブーヴィエール大佐は負傷から生き残ることができなかった。皆、栄光のうちに死去した。我々の損害は正確に死者1900人と負傷者5700人で、重傷者1000人を含んでいる。しかし戦場の死者を数えると我々はロシア軍に7000人の損害を与えた。
 トルンへ向かい我々の左翼を迂回しようとする目的をもった敵の計画は完全に失敗に終わり、それを実行に移そうとした彼らの試みが非常に致命的であったことが立証された。彼らは1万2000人から1万5000人の捕虜と、ほぼ同数の死者及び行方不明者、45門の大砲と18旒の軍旗という犠牲を払った。
 ある大隊の鷲章旗は失われ、おそらく敵の手に落ちた。皇帝は、彼らが敵から軍旗を奪った後で、彼らにもう一つの鷲章旗を与えるつもりである。
 敵の企図を挫き、ヴィスワ河から百マイル遠くへ追い払ったのに伴い、軍は宿営地に戻り、再び冬営に入る。

 "Imperial Glory" p143-144

 Translated into English by J. David Markham




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