1800年―イタリア戦線



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(ナポレオンによる1800年冬季のグリゾン戦役に関する解説はこちら


・アルプス越え

 ロシア軍が春に同盟から手を引いたものの、イタリアではメラスのオーストリア軍は10万人の兵でマセナのフランス軍5万人に対抗していた。メラスは南仏へ侵入する前にジェノヴァ奪取を命じられ、それをイギリス海軍が支援することになった。オーストリア軍は4月上旬に進発。2万4000人のオーストリア兵が4月20日から(19日からの説もある)ジェノヴァを包囲した。1万8000人の部隊(1万2000人の説もある)とともに包囲されたマセナは5月11日と13日に包囲突破を試みるが失敗。スールトが負傷し捕虜になった。だが、食糧不足が深刻になった5月下旬にもマセナはジェノヴァを保持していた。

 一方、第一執政ボナパルトは6万人の予備軍の大半を率いてグラン=サン=ベルナール峠へ向かった。砲兵通過には困難な道で、寒さと雪と雪崩の危険にさらされながらフランス軍はアルプスを越えた。ランヌの前衛8000人は5月15日に数時間で峠を越え、オーストリア軍の前衛部隊を追い払った。彼らは5月19日にイヴレア北西のドラ=バルテア川沿いにあるバルド要塞へ退却。わずか400人の守備隊(200人の説もある)は20日に行われた攻撃に抵抗した。ランヌは要塞周辺の丘を越えて歩兵をさらに前進させ、24−25日の夜には6門の大砲を通過させるのにも成功した。フランス軍は4万人の歩兵と他のルートを通った兵2万6000人をロンバルディア平原へ送り込んだが、砲兵と騎兵はバルド要塞守備隊指揮官ベルンコプフ大佐が降伏した6月5日(2日の説もある)まで前進を食い止められた。ボナパルトはミラノを6月2日に占領。7日にはピアチェンツァも押さえ、4万人の兵でオーストリア軍の退路であるストラデッラを封じた。

・モンテベロ

 ボナパルトはメラスがパニックになって退却してくると予想していた。しかし、6月4日にジェノヴァが陥落したため彼の作戦計画は全面変更を余儀なくされた。ジェノヴァ包囲戦でのフランス軍の損害は4000人、オーストリア軍は6000人だった。フランス軍のうち8100人はジェノヴァを出てスーシェの部隊に合流するのを認められた。これによってオーストリア軍はジェノヴァ港経由の補給が可能となり、ボナパルトはオーストリア軍が集結する前に攻撃を仕掛ける必要に迫られた。

 メラスはフランス軍の連絡線を脅かすべくトリノへ向けて北方へ部隊を動かし、その後東に転じた。ボナパルトも7日から8日にかけてオーストリア軍主力を探索。西方ピアチェンツァに進んだミュラを支援するべく前進したランヌ配下の8000人(6000人の説もある)が、ジェノヴァから北上してきたオットのオーストリア軍1万8000人(1万7000人、1万1000人の説もある)とモンテベロ(カステッジョ)で接触した。9日朝にランヌはこの部隊に攻撃を開始。ヴィクトールの増援が到着するまでオーストリア軍を食い止めた。ヴィクトールは側面攻撃でオーストリア軍を奇襲し大きな損害を与え、オットはアレッサンドリアへ混乱しながら退却した。フランス軍は計1万2000人が参戦し、損害はフランス軍500人(600人、3000人の説もある)、オーストリア4000人(4300人の説もある)。メラスはこの敗北を受けて慎重に部隊をアレッサンドリアに集結させ、ボナパルトはそれを追った。

・マレンゴの戦い(1800年6月14日)

 メラスがジェノヴァへ退却する可能性を考えたボナパルトはドゼーを南方へ、ラポワプを北方へ送り出す。6月14日朝、メラスは素早い攻撃こそが必要だと判断しアレッサンドリアから部隊を出撃させた。ボルミダ河の渡河に時間を要したものの、この攻撃は奇襲になった。ヴィクトールの2個師団はランヌ軍団が増援として到着するまで1時間に渡って攻撃を支えた。増援によってフランス軍は1万5000人(うち騎兵600人、大砲15門)になったが、オーストリア軍は3万人(騎兵5000人、大砲100門)を擁していた。午前の中ごろには、オーストリア軍の本格的な攻勢を受けていることに気づいたボナパルトがドゼーとラポワプに戻ってくるよう命令を出した。しかし、中央は数で圧倒され、北翼からオットの部隊によって側面包囲されそうになったフランス軍の状況は絶望的だった。北方での反撃で中央の破断は免れたものの、午後中ごろにフランス全軍(今や2万3000人まで増えていた)は全面退却へ転じていた。この時点でメラスは軽傷を負い、追撃を参謀長ツァッハに任せて自らはアレッサンドリアへ退いた。ツァッハのゆっくりとした追撃によりボナパルトはサン=ジュリアーノ付近で部隊を再編することができた。午後5時ごろ、ドゼーが戦場に到着。夕方早くにボナパルトは反撃を開始した。使えるわずかな大砲でオーストリア軍の長く伸びた縦列を砲撃し、さらにケレルマンの騎兵400人による側面への突撃でオーストリア軍を壊走させた。フランス軍の追撃によりオーストリア軍は午後9時には戦場を去った。わずかにオットの北翼部隊だけが秩序ある後退をした。参加兵力はフランス軍2万8100人、オーストリア軍2万9100人の説もある。損害はフランス7000人(5600人の説もある)、オーストリア1万4000人(9400人の説もある)だった。メラスは翌15日、フランス軍に休戦を申し込んだ。同日夕方に調印されたアレッサンドリア合意により、オーストリア軍は守備隊も含めて北部イタリアから撤退。ウィーンの返事を待つ間の戦闘休止が約束された。

・休戦明け

 フランスとオーストリアの講和に向けた話し合いは不調に終わった。アルプスの南側ではマクドナルド率いるグリゾン軍1万5000人と、ミンチオ河沿いに展開するブリュヌのイタリア方面軍8万人が連携し、ティロル及びイタリアに展開するオーストリア軍と対峙していた。マクドナルドは1万2000人を率いて冬のシュプルーゲン峠を越え、ティロルへ侵攻。その前進を待ってブリュヌもミンチオ河に展開するベレガルデのオーストリア軍(7万人)への攻撃準備を整えた。

 ブリュヌは主力がモンツェンバーノで渡河をする間、敵を牽制するため右翼のデュポンがポッツォロで河を渡る計画を立てた。中央のスーシェが両部隊をつなぎ、かつヴァレッジョにあるオーストリア軍の橋頭堡を警戒する。計画では12月25日に渡河が行われる筈だったが、移動の困難などでモンツェンバーノの渡河は延期。結果、デュポンの右翼部隊が単独でミンチオ河を渡ることになった。ポッツォロに展開したデュポン麾下のワトラン、モンニエ両師団に対し、ベレガルデは大軍を差し向けて圧力をかけてきた。事態が危機的だと見たスーシェは独断でガザン師団をミンチオ対岸へと増援に送った。ポッツォロの村は6回に渡って奪い合いがなされるなど、激しい戦闘が続いた。フランス軍1万人に対してオーストリア軍は3万人に達していたが、戦闘は決着がつかなかった。

 翌26日、モンツェンバーノでブリュヌの主力部隊が渡河。オーストリア軍はミンチオ河の線を捨てて退却を強いられた。損害はフランス軍4000人、オーストリア8600人との説がある。


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