1800年冬季イタリア戦役―ナポレオンの解説



XI.―イタリア方面軍

 1800年11月の最中、フランスのイタリア方面軍を指揮するブリュヌ将軍は、ベレガルデ将軍に休戦の終結を通知し、それに応じて11月22日から戦闘状態が再開されることになった。オグリオ川の合流点までのキエザ川と、そこから前者の川がポー河に注ぐまでがフランス軍の戦線を形成していた。この軍は状態がよくとても数が多かった。予備軍とかつてのイタリア方面軍が一緒になって構成していた。この軍がロンバルディアの美しい平原に再び地歩を固めてから5ヶ月が経過した。彼らはフランスから到着した徴収兵と数多くのイタリア兵のそれぞれによってかなり増援されていた。モンスイ将軍が左翼を、スーシェが中央を、デュポンが右翼を、デルマが前衛部隊を、そしてミショーが予備を指揮していた。ダヴーは騎兵を、マルモンは砲兵を率いており、[牽引用の]よい馬匹を持つ200門の大砲と豊富な補給が蓄えられていた。これらの軍団はそれぞれ2個師団で構成されており、全体で歩兵10個師団と騎兵2個師団があった。前衛部隊の1個旅団は司令部に派出されており、司令部予備と呼ばれていた。かくして前衛部隊は3個旅団で構成されていた。

 ミオリス将軍はトスカナで指揮を執っていた。彼は麾下に5000から6000人を持ち、その大半はイタリア兵だった。スールトはピエモンテで指揮を執り、その6000から7000人の多くがイタリア兵だった。デュローロワはリグリアで、ラポワプはチサルピナで指揮を執っていた。指揮官のブリュヌは10万人近くを麾下に持ち、そのうち8万人以上は実際に戦場にいて合流していた。  マクドナルド麾下のグリゾン方面軍はエンガディーヌとヴァルテリーヌにいるいくつかのオーストリア軍団の関心を集めていた。従ってこの軍もイタリア方面軍の一部を構成していると考えられていた。この軍は後者[イタリア方面軍]の戦力を1万5000人増やしており、かくして全体でほとんど10万人が武装してミンチオとアディジェで軍務に就いていた。

 戦闘状態が再開された11月22日の時点でブリュヌ将軍は守勢にとどまった。彼はトスカナにいたデュポン将軍麾下の右翼を待っていた。24日に彼らはサッカでポー河を渡り、オグリオ川の背後に布陣してその前衛部隊をマルカリアに置いた。敵も同様に守勢にとどまった。活発に行動せよとの命令を受けていたにもかかわらず、ブリュヌは攻勢作戦を始めるのを躊躇った。

 オーストリア軍を指揮していたベレガルデ将軍は手ごわい将帥ではなかった。彼の命令はミンチオの戦線を守るものだった。オーストリア皇家はマントヴァと連絡するため、及び和平が締結された際にそこを境界線として維持する目的のため、その川を保持するのが重要だと考えていた。6万から7万人のオーストリア軍はポー河に左翼を拠っていた。その戦線はマントヴァによっても支援されており、さらに砲船を配置している湖にも守られていた。ペシェーラとガルダ湖が右翼の拠点となっており、多くの船団が湖の所有権を確保していた。ティロルには分遣隊があり、トナル山と、エンガディーヌ及びヴァルテリーヌの反対側にある出口の陣を占めていた。ペシェーラからマントヴァまで長さ20マイル、あるいは7リーグ近く延びているミンチオ川は、乾燥した天候の時はいくつかの場所で渡渉できるが、問題になっている季節ではどんな場所でも決して渡渉できなかった。さらにオーストリアの将軍は、通常この川から水をくみ出しているあらゆる運河を閉じていた。しかしこうした環境にもかかわらず、これは弱い防衛線だった。その幅は20トワーズ以上はなく、その両岸は互い違いに相互を見下ろしていた。モツェンバーノの地点では、モリノ=デラ=ヴォルタと同様、左岸が見下ろされていた。左岸にあるサリオンゾとヴァレッジョは、対岸を大いに見下ろしていた。ベレガルデ将軍はヴァレッジョの高地を強力に占拠していた。彼は古い城跡を修復し要塞として使えるよう改装していた。それは両岸の全体を見下ろしていた。ボルゲットーも要塞化され、ヴァレッジョに保護された橋頭堡になっていた。小さなゴイトの町の城壁も修復され、その防御は水路によって強化された。ベレガルデはさらにサリオンゾ高地に4つの柵で囲まれた堡塁を築いた。それらはできるだけヴァレッジョ近くに配置された。左岸の主な防御体制を取り計らったところで、彼はそれを右岸に拡大した。周囲全体を見下ろしているラ=ヴォルタ高地を強力な構築物と伴に占拠した。しかしこれはミンチオから1リーグ近く、ゴイトとヴァレッジョからは1リーグ半も離れていた。かくしてオーストリアの将軍は15マイルの範囲内に強力な防御構築物を5ヶ所持つことになった。即ちペシェーラ、サリオンゾ、ヴァレッジョ、ヴォルタ、そしてゴイトである。

 12月18日、フランス軍はキエザ川を渡った。司令部はカスタニェドーロに置かれた。19日と21日、全軍は4つの縦隊でミンチオへ行軍した。デュポン麾下の右翼はマントヴァ湖の先端に向けて進んだ。スーシェ麾下の中央はラ=ヴォルタへ行軍。ペシェーラに対処するのが目的の前衛部隊はポンティに前進した。予備と左翼はモツェンバーノへ進軍した。右翼のデュポンは右側の師団でマントヴァ守備隊を湖の向こう側へ撃退した。(ヴァトランの)第2師団は敵をゴイトへ追い払った。中央のスーシェは注意深くヴォルタへ行軍した。彼はオーストリア軍がその戦線の先頭を支援する動きをすると予期していた。しかし敵はどこにも姿を現さなかった。彼らはおそらくミンチオから遮断されるのを恐れ、その陣地を捨てた。ミンチオを見下ろすモツェンバーノの素晴らしい隆起での抵抗はなかった。フランス軍はゴイトとボルゲットーの橋頭堡を除いて右岸の全ての陣地を奪取した。フランス軍全ての相手をしなければならないことに気づいた時、敵は全面的な交戦を恐れ、右翼のゴイトとボルゲットーのみを保持してミンチオの左岸へ後退した。全戦線に渡るオーストリア軍の損害は、捕虜が500人から600人捕まった。フランス軍司令部はモツェンバーノに置かれた。

 同日のうちにミンチオに橋を架け、川を渡り、敵を追撃することが必要だった。このような対岸を見下ろせる陣地を確保した者にとって、その地からの砲兵隊の散弾が対岸のはるか彼方まで一掃できるため、川は狭すぎて僅かな障害にしかならなかった。モツェンバーノとラ=ヴォルタの風車からであれば砲兵は対岸の多大な距離まで届かせられる一方、敵は砲兵陣を敷くのに有利な場所を見つけられなかった。従って渡河には何の苦労もなかったであろう。ミンチオは要塞の堀のように砲兵陣をあらゆる攻撃から守ってくれ、敵はその川を見ることすら叶わなかっただろう。

 野戦と同様、攻城戦でも大砲が主要な役割を果たし、全面的な変革をもたらした。石の城壁は、大量の土に守られた接地射撃のため、放棄することが必要になった。宿営地を設置して毎日塹壕を掘り、一列に並んだ僅かで貧相な柵の背後に安全を求めることも、諦める必要があった。

 対岸を見下ろしている場所を確保した時、もしそこがかなりの数の砲門を配置することを許すのに十分なだけ広ければ、川を渡るのに大いなる便宜を得たことになる。にもかかわらず、もし川幅が200から500トワーズあれば、その優位はそれほどではない。なぜなら散弾は対岸まで届かないし、その距離を利して敵はたやすくその兵を一列に並べ、渡河に対抗しようとする兵は自ら塹壕に入り対岸からの砲撃から身を守ることができる。もし擲弾兵が橋の建設を守るために渡河を命じられ、障害を乗り越えるのに成功したとしても、彼らは敵の散弾で粉砕されるだろう。敵は橋の出口から200トワーズの場所に置かれたところから最も破壊的な砲撃を続けることができ、一方で渡河を試みる軍の砲兵隊からは400から500トワーズ離れた場所にいるからだ。かくして大砲に関するあらゆる優位は完全に彼の側にある。そしてこの場合、敵を完全に奇襲することができ、渡河を試みる軍が中州を利用することができるか、あるいは川が深い凹角部を構成しており彼らの砲撃をその狭い部分に交叉するように砲兵陣を構築することができることがなければ、渡河を達成することは不可能である。この中州あるいは屈曲部は自然の橋頭堡を形成しており、攻撃軍に砲兵のあらゆる優位性をもたらす。

 川幅が60トワーズ以下の時、優勢で、そして彼らが確保しようとしている土地に対して大いに見下ろすことができる岸に布陣している砲兵に守られて対岸に派遣された兵たちは、それだけの強みを持っているため、川が屈曲部を形成していなくてもその架橋を妨げることは不可能だ。この場合、最も有能な将軍たちは自らの立場を受け入れ、彼らが敵の計画を予想できた時にはその軍とともに渡河点に到着し、真の隘路である橋を渡るのに対抗するべく、彼らの軍をその周囲に半円状に並べ、対岸の高地の砲撃から300から400トワーズ離れたところに配置する。これはオイゲンがカッサノの橋を利用するのを妨げるためにヴァンドームが実行した機動である。

 フランスの将軍は12月24日にミンチオを渡ることを決断し、渡河を実行するうえで相互に2リーグ離れたモツェンバーノとモリノ=デラ=ヴォルタの地点を選んだ。この2ヶ所においてミンチオは何の障害にもならなかったが、戦闘の全般的計画について熟考しなければならないところがあった。モツェンバーノとモリノの間で戦力を分けたのは賢明だっただろうか? 敵はヴァレッジョの隆起部とボルゲットーの橋頭堡を占拠している。従って、2ヶ所で渡河した後の兵の合流にはいくらかの困難と不確実さが伴っていた筈だ。敵はボルゲットーから出撃してこれらの攻撃の一方を妨げたに違いない。従って絶えず兵たちを確実にまとめておくため1ヶ所で渡河する方が戦争の法則から見ても安心できるものだった。この場合、2つの渡河点のうちどちらがより望ましかっただろうか?

 モツェンバーノはヴェローナに近い利点があった。こちらの地点の方がより良かった。従って軍が相互に200から300トワーズ離れた3つの橋を越えてモツェンバーノを渡っていたならば、その右翼と左翼は絶えずミンチオに拠っており、右岸に配置できた砲兵隊に側面を守られていたため退却に関する不安を抱く余地はなかっただろう。しかしこうした状況を完全に把握していたベレガルデは、ヴァレッジョとサリオンツォの2ヶ所を強力な堡塁と伴に占拠していた。ミンチオの湾曲部に位置していたこの2地点は、渡河点と合わせて両辺3000トワーズの二等辺三角形を形成していた。オーストリア軍はヴァレッジョに左翼、サリオンツォに右翼を拠り、かくしてその弦を占拠し右翼と左翼は完全に支えられていた。その側面を迂回することができなかったが、その戦線は3000トワーズに渡って延びていた。かくしてブリュヌが望むことができるのはその中央を貫くことだけで、そうした作戦はしばしば困難かつ多大な気力と多くの兵の集中を必要とした。

 モリノ=デラ=ヴォルタの渡河点はより不利だった。敗北した場合、退却はより困難になっただろう。というのもポッツォロが右岸を見下ろしていたからだ。しかしこの地点では敵は両翼を要塞化された構築物によって支えられているという利点は得ていなかった。

 モツェンバーノで渡河を実施した場合、フランス軍の将軍は強力な塹壕を掘られたヴァレッジョの高地を右手に、そして左手には同様に強力な構築物で占められたサリオンツォを見ることになる。フランス軍が出てきた時、彼らは凹角部にあって敵砲兵の集中的な砲撃に晒されており、そして正面のオーストリア軍は既に述べた強力な2地点によってその右翼と左翼を支えられていた。同時に、ラ=ヴォルタで渡河した軍団はその右手1リーグ半離れた場所に右岸の要塞化地点であるゴイトがあり、その左手1リーグの距離にはボルゲットーとヴァレッジョがあった。

 にもかかわらず右翼はラ=ヴォルタで渡ることが、そして残りの軍はモツェンバーノで渡河することが決められた。

 夜明けにモリノ=デラ=ヴォルタに到着したデュポン将軍は橋を架け、彼の師団を渡した。彼はポッツォロ村を確保してそこに右翼を築き、ミンチオに拠った左翼はモリノの対岸に置いて平野全体を見下ろしていた右岸の高地にある砲兵の砲撃によって守られていた。左翼の陣地は堤防によってさらに強化された。渡河時点での敵の数は多くなかった。10時頃、デュポン将軍はモツェンバーノ前で実施を企図していたブリュヌ将軍による渡河が翌日に延期されたことを知った。デュポン将軍はすぐ彼の兵の大半を右岸に再渡河させ、砲兵に守られた橋頭堡を築くため僅かな歩兵大隊のみを左岸に残すべきだった。またその地点は敵が橋に接近できないような場所にするべきだった。この作戦は陽動によるあらゆる利点をもたらし、敵の注意を分散させたであろう。夜明けにはヴァレッジョからサリオンツォの戦線は敵の全軍がそこで合流する前に強行突破されたに違いない。しかしデュポン将軍は左岸の陣にとどまった。ヴァレッジョとサリオンツォの要塞化した宿営地の利点を活用したベレガルデは、予備と伴に[フランス軍]右翼に向かって行軍した。この地点で激しい戦闘が行われた。スーシェ将軍とダヴー将軍はデュポン将軍の救援に急いだ。そして兵たちが偉大な勇気を示した最も血腥い争いがこの地点で行われ、フランス軍8万人がオーストリア軍6万人と対峙していた30平方リーグの中心部にあった戦場には2万から2万5000人のフランス軍と4万から4万5000人のオーストリア軍が参加した。最も激しい戦闘はポッツォロの村で行われた。右岸の砲兵からの砲撃と堤防で守られた左翼は、より攻撃するのが困難だった。オーストリア軍とフランス軍が交互に奪取と再奪取を繰り返したポッツォロは、最終的に後者の手にとどまった。しかしそのコストは高価だった。彼らは3個師団の精華を失い、少なくとも敵と同じくらい酷い損害を蒙った。フランス兵の勇気は誤って使われた。そしてこの勇敢な兵たちの血は司令官の失敗と、その部下将軍たちの軽率な野心が引き起こしたミスを修正することにのみ寄与した。戦場から2リーグ離れた場所に司令部を置いていた司令官は、その右翼が交戦のため左岸に渡ったことを知っていたが、彼らを支援するための配置を行わないまま彼の全右翼が損害を蒙るままにさせた。このような行動に対してコメントすることはない。

 右翼が渡河して敵と戦っているのを知っていたブリュヌが、どうしてその支援に急ごうとせずもう一つの橋を架けるために架橋隊を送るのを怠ったのかを説明するのは不可能だ。彼は2ヶ所で渡河する計画を選んでいたのだから、なぜ少なくともモツェンバーノを選び、オーストリア軍が行った移動を利してサリオンツォとヴァレッジョを奪取し、敵の背後に襲い掛からなかったのか? スーシェとダヴーは事態の必要性のみに鑑みて完全に自発的にデュポンの支援にやって来た。

 25日、マルモン将軍は架橋を守るためモツェンバーノ高地に彼の予備砲兵を配置した。これは完全に無駄だった。高地に見下ろされ、その対岸にどれほど多くの砲兵を配置してもその砲兵陣を15分以上維持できない、たった20トワーズの幅しかない川の渡河に抵抗する目的のため、3000トワーズの長さがある凹角部に自らを配置するほど敵は馬鹿ではなかった。渡河が実施され、前衛部隊のデルマはヴァレッジョへ行軍した。モンスイがブーデ師団と伴に、そしてミショーは予備と伴に彼を支援した。スーシェはボルゲットー前面に予備としてとどまった。そしてデュポンは右翼とともにポッツォロに残った。兵たちはヴァレッジョとサリオンツォからの挟撃を持ちこたえなければならなかったが、オーストリア軍の将軍は渡られた川[ミンチオ]について考慮し、前日受けた攻撃の後で、膨大な数の優位にもかかわらず、アディジェの戦線を確保するよう試みるのが最善だと考えて既に退却の準備をしていた。彼は退却を安全に行うためにサリオンツォとヴァレッジョの陣地に単に守備隊だけを置いておき、負傷者を運び出した。ブリュヌは彼がそれを行うだけの余裕を与えた。25日の間に彼はサリオンツォとヴァレッジョより遠方へは進まなかった。即ち、彼は3000トワーズだけ行軍した。翌日、サリオンツォの堡塁は降伏した。兵1200人といくつかの大砲がそこで捕まった。これらの守備隊がペシェーラへ退却する命令を受け取らなかったのは、オーストリア軍参謀の失敗によるものだと推測すべきである。ともあれ、この将軍の行動を正当化するのは難しい。

 フランス軍はボルゲットー奪取を試みて無駄な攻撃を行った。それを負かされた勇敢な第72半旅団はその最良の兵たちを失った。活発な砲撃といくつかの曲射砲を投じるだけで十分だっただろう。最初にヴァレッジョを確保しなければボルゲットーに入ることはできないし、一度ヴァレッジョを得られれば、ボルゲットーの中にあるものは全て手に入る。実際、第72半旅団による攻撃の少し後でボルゲットーの守備隊は降伏して捕虜になったのだが、その時にはこの勇敢な半旅団の400から500人の兵たちの命は気まぐれに費やされていた。

XII.―アディジェ渡河

 数日の間に軍は前進した。左翼はカステルヌオヴォに、右翼はレニャーゴとヴェローナの間に進んだ。マントヴァを封鎖するため分遣隊が送り出された。そしてドンブロフスキ師団が包囲しているペシェーラとマントヴァ間のミンチオを通じた連絡を遮断するため、2個連隊がガルダ湖畔に配置された。

 フランス軍は1月1日、つまりミンチオ渡河の6日後にアディジェを渡った。有能な将軍なら翌日には渡っていただろう。この作戦は何の障害もなくブッソリンゴで実施された。この季節、アディジェ下流はほとんど通行不能だった。翌日、敵は城に守備隊を残してヴェローナから撤収した。ロシャンボー師団はアディジェ沿いのロドロンからリヴァ、トルゴリ、そしてモリを経由して行軍した。この移動によりオーストリア軍はラ=コロナ撤収を余儀なくされた。1月6日、彼らはカルディエロ高地から追い払われた。フランス軍はヴィチェンツァに入城し、モンスイの軍団はロヴェレドにあった。11日にフランス軍はフォンタニーナ前面でブレンタ川を渡った。この移動の間に南部監視軍がイタリアに入り、13日にミラノに到着した。別の方面ではマクドナルドがグリゾン方面軍と伴に1月7日にトレントに入り、オーストリア軍をブレンタ渓谷へと追撃した。そして9日、ロヴェレドでイタリア方面軍との連絡を確立した。それに対しオーストリア軍は日々弱体化していた。戦役開始時に彼らの兵力はフランス軍より3分の1下回っていた。加えて彼らはその時以来、多大な損害を蒙っていた。ポッツォロの戦闘で彼らは多くの死傷者を出し、5000から6000人を捕虜として失った。オーストリア軍がマントヴァ、ペシェーラ、ヴェローナ、フェラーラ、そしてポルト=レニャーゴに守備隊を残したことも、彼らの戦力を大いに減らした。これらのあらゆる損失により彼らはフランス軍に対してどのような戦線も維持することができなくなった。一度アディジェを渡られるとオーストリア軍はティロルからの出口を守るためその戦力の一部を派出することを強いられ、これらの兵は戦線に到着しつつあったグリゾン方面軍によって戦闘を続けさせられた。バラギュエイ=ディリエール将軍はボッツェンにいた。ライン方面軍がウィーンの間近に到着したという情報が、今やオーストリア軍を落胆させる他のあらゆる根拠に付け加えられた。要するにこの軍はとても弱くとても失望していたに違いないためカルディエロ高地を維持することができなかったが、抵抗すべきあらゆる地点を奪取する苦労をフランス軍に味わわせた。フランス軍がブレンタ川を渡るや否やベレガルデ将軍は改めて休戦を求めた。

 マルモン将軍とセバスティアニ大佐は司令官から休戦の交渉をするよう命じられた。第一執政の命令は、住民がオーストリア軍のことをよく思っていないヴェネツィアからオーストリア軍を切り離し、彼らがその市に強力な守備隊を残すことを余儀なくされるようにフランス軍がイゾンツォ川に到達するまであらゆるそうした協定の締結を最も積極的に禁じていた。この[オーストリア軍の守備隊がヴェネツィアに残されているという]環境はフランス軍に新たな優位をもたらしたに違いない。しかし何より、第一執政はマントヴァ要塞を奪うまで何も締結してはならないと主張していた。フランス軍の将軍はこの交渉で何の才能も示さなかった。彼は1月16日にトレヴィゾで休戦協定に署名した。

 ブリュヌは自発的にマントヴァ要塞の明け渡し要求を取り下げたが、それは唯一の政治的問題だった。彼はペシェーラ、ポルト=レニャーゴ、フェラーラなどの獲得で満足した。これらの地域の守備隊は戦争捕虜とはならず、彼らは自分たちの砲兵と要塞にある蓄えの半分を持ち出した。フランス軍が権利を持っているペシェーラの船団ですら、彼らは放棄しなかった。

 トレヴィゾの協定はそれを締結した交渉担当者の弱さを疑いなく示している。あらゆる条件はオーストリア側に有利であったことは明らかだ。フランス軍が得た優位の結果、そしてその兵力と気力で勝っていることが理由で、ペシェーラ、フェラーラなどの場所は取得できた。従ってこれらは敗北した敵に全体で5000から6000人の守備隊と砲兵、物資、及び船団を戻したことになる。新たな戦役を支援する際にオーストリア軍を支えられるだけ十分に長く持ちこたえられる唯一の場所はマントヴァだった。そしてこの要塞は敵の手の内に残ったばかりでなく、その周辺800トワーズについてはその守備隊と住人に必要な分以上の食料を自由に受け取ることが許された。

 第一執政はこの戦役で犯した数多くの失敗だけでなく、彼の命令が破られるのを見て、交渉の成功が危険に晒され、イタリアにおける状況が不安定になったことが理由で不満を抱いた。彼はすぐトレヴィゾ協定の批准を拒否することをブリュヌに知らせ、マントヴァを明け渡さない限り戦闘行為を再開すると宣言するよう彼に命じた。第一執政はリュネヴィルのコベンツル伯にも同じ宣言をした。ついに誠実な対応の必要性を納得させられ、彼の主君を脅かす破滅的状況下でその自尊心を挫かれたこの公使は、1月26日にマントヴァをフランス軍に引き渡す命令に署名した。それに応じ2月17日には明け渡しが行われ、そしてこの条件で休戦は継続した。このイタリア戦役はブリュヌの才能の限界を示し、第一執政はこれ以上彼に重要な指揮権を決して与えなかった。この将軍は最も輝かしい勇気と、旅団の先頭における偉大な決断力を示したものの、軍の指揮を執るようには作られていないように見えた。

 にもかかわらずフランス軍はこの戦役で絶えず勝利し、イタリアの全ての要塞は彼らの手に落ちた。彼らはティロルと、ヴェネツィアの本土領の4分の3を占拠した。フランス軍の休戦ラインはサリーから海までリヴェンツァ川の左岸に沿って延び、そこからピアーヴェとツェリーネ間の山岳部の稜線を経てドラーヴェ川に沿ってリンツまで達し、そこでドイツの休戦ラインと合流していた。

Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol. II p67-87


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