マレンゴの執政親衛隊――神話の打破――



(以下の文章はNapoleon SeriesのDiscussion Forumに投稿されていたDave Hollinsの"THE CONSULAR GUARD AT MARENGO: Exploding a Myth"を翻訳したものである。勝手翻訳なのでこのページは隠しページ扱いとしている)


 他のフランス軍が混乱状態で退却している時に執政親衛隊歩兵が恰も花崗岩の塊のように方陣を組み、半時間に渡って継続した襲撃に対して抵抗したという話は、ドニ=オーギュスト=マリー・ラファが1845年に描いた絵によって不朽の名声を与えられたこともあって、この時期において最も有名なものとなっている。しかしながら、夥しい数の書物で繰り返されているこの話は、いかにして神話が200年も生き残ってきたかを学ぶに相応しい対象物でもある。多くの神話と同様、この物語の主要な部分にはいくつかの真実が含まれているが、それは潤色されているうえに鍵となる事件に至っては異なる人々に割り当てられてすらいるのだ。

・起源

 まず、この物語の起源を確定しなければならない。フランス側の主な資料を集めた"la campagne de l'armee de reserve en 1800"の著者De Cugnacによると、親衛隊歩兵の報告は存在しないという。Elting大佐が"Swords Around a Throne"の685ページにある脚注3で記したところによると、この物語は1803年版のフランス軍公式報告に起源があるという。この報告については様々な修正論が提示されたものの、親衛隊の挿話は変わらずに残った。そして、その根拠となるのはたった2つの典拠しかない。

 6月15日の(予備軍)公報は「親衛隊の擲弾兵は恰も花崗岩の要塞のように広大な平原の中央に位置した。何者もその堅陣を破ることはできなかった。敵の騎兵、歩兵、砲兵すべてがこの部隊に襲い掛かっていったが、無駄に終わった。それは一握りの勇敢な兵たちが何をなしうるかを体現したものだった」と主張した。この曖昧な報告に含まれている唯一の詳細な事実は、おそらく1万人のオーストリア騎兵がマレンゴ東方の開けた場所に進出してフランス全軍を危険に晒した午後3時頃にこの挿話が起きたという点しかない。ランヌとヴィクトールが持ちこたえていた時間が過ぎ、続いて約2時間に渡って生じた戦闘の小康状態が起きる間のこのタイミングで、どのような報告にも触れられていない何かが起きた。この厄介な時間の隙間を埋めるため、公式報告の作者は(親衛隊による)半時間の抵抗という物語をでっち上げた。タイミングを調べるのは困難であり、理想としては直接当事者以外の目撃者の証言で裏付けるのが望ましい。幸いなことにジェノヴァの近くで捕虜になったスールトがアレッサンドリアに抑留されており、彼の少数の取り巻きがそこから望遠鏡で戦況を見ていた。目の前に時計を置いていたスールトはカステル=チェリオロ南方での最後の銃火は午後4時頃に見られたと記している(回想録第3巻)。この証言は、フォンタノーネ川の背後で待機中だったオーストリア軍第23歩兵連隊の大尉ホーヒェネグ伯によって裏付けられている (Kriegsarchiv Nachlasse BuC/647) 。

 「花崗岩の塊」は(フランス軍参謀長)ベルティエが6月14日午後9時に記した最初の報告には触れられておらず、公報に初めて登場する。にも関わらず、この言い回しは親衛隊擲弾騎兵の兵プティの報告と結びついている。彼は親衛隊が分団を組んでいた(つまり半散開縦隊)と述べている。そして親衛隊は彼の前方100歩の距離で敵と接触し、「砲兵も騎兵もなく、たった500人で」前進して敵の砲兵の攻撃を受けた。3回に渡って騎兵に突撃されたうえで歩兵の一斉射撃を受け、最終的に彼らは中空の方陣を組んで後退した。ボナパルトが予備部隊を率いたぶどう園の間にある隘路の左側に生えている大きな木々の間で騎兵部隊が配置に就いた時、プティ自身は(昔ながらのイタリア風にぶどうがぶら下がっている様子を彼ははっきりと描写している)騎兵横隊の左側に位置しており、右側については木々しか見ることができなかった。

 しかし、プティは戦闘についての報告を始めるところで、その報告が一部は彼の見たものであり、一部は彼が後に聞いたことを記したものであると認めている。親衛隊歩兵が接敵するため前進したことについては論争はない。モンニエがカステル=チェリオロへ向かっている間、ボナパルトは中央のヴィクトールとランヌの支援に動いている。第72半旅団の1個大隊が先頭に立ち、その後に縦隊を組んだ親衛隊歩兵、さらにその後に親衛隊騎兵が続いた。親衛隊歩兵はその後、マレンゴ東方にあるぶどう園の線に退却してくるフランス兵に銃弾を配布するため南方へ散開した。第72半旅団がこの線の右翼に就いた時、ボナパルトはシェーレンベルクの歩兵縦隊がカステル=チェリオロから南方へ前進するのに気づいた。オーストリア軍はぶどう園の中にある戦線の隙間へ向かってくるように思われた。もし彼らが突破に成功すれば、ボナパルトの軍は包囲されかねない。親衛隊歩兵は即座に再集結し、カステル=チェリオロとの中間地点まで北上した。彼らが行軍している時、ロプコヴィッツ第10竜騎兵連隊が中途半端な突撃を仕掛けてきた。親衛隊は縦隊を維持し、散兵と大砲を配置してその射撃でオーストリアの攻撃を止めた。ミュラがシャンポーの竜騎兵残存部隊とともに到着し、敵を北方へ追い払った。第72半旅団の北方600メートルの場所で孤立し、モンニエがカステル=チェリオロから撤退したことを知らないまま、親衛隊は左を向いてシェーレンベルクの縦隊に対抗すべく横隊を組んだ。オーストリア軍第51歩兵連隊の2個大隊は彼らと接触すべく配置につき、その背後から第28歩兵連隊の1個大隊が支援した。

 従ってプティの証言には多くの問題がある。親衛隊は800人と大砲4門で構成されており、ミュラによる騎兵の支援を受けていた。彼らとシェーレンベルク縦隊との衝突は、プティのいた場所の右側少なくとも600メートル離れたところで起きていた。第10竜騎兵連隊が前進してきた時、親衛隊は味方騎兵の支援があるうえにおそらく他のオーストリア騎兵を見なかったため、方陣を組まなかった。プティは2つの詳細な出来事について記している。一人の親衛兵がBussy Jaeger zu Pferd(騎乗猟兵)の兵たちに裸にされたということと、擲弾兵ブラバンが一人で大砲を操作していたことだ。さらに彼の報告の最後でプティは、他の物語に加えて捕虜がアレッサンドリアまで行進させられたと聞いたことに触れている。しかし、プティはその報告の主要な部分で「その少し前に帽子を購入しようとしていた」親衛隊歩兵を戦闘終了時に見たと主張している。言い訳じみた脚注によると、Bussyの騎兵部隊が午後の戦闘の間に親衛隊の負傷者から熊皮帽を集め、それを剣に刺してくるくる回しフランス軍を挑発したという。この話はフォドラスが戦闘直後に記した幾つかの公式プロパガンダに起源がある。そのプロパガンダは1800年9月の"British Military Library Vol.2"で英語に翻訳されており(ノスワージーの"Battle Tactics of Napoleon & his Enemies"第1章による)、フランス語と英語の双方で1801年に登場したプティの報告に先立つものである。この点についての他に問題となるのは、戦闘が終了した時に親衛隊歩兵はその騎兵の北方2キロメートル近くも離れていた場所にいた点にある! 即ち、プティは彼の言う親衛隊を見ておらず、その報告を様々な物語と公の印刷物との組み合わせによって飾り上げたのである。

 もう一人の自称目撃者の存在が、こうした主張がいかに詳しい調査なしに受け容れられたかを証明している。後に親衛隊の一員となったコワニェは、彼が第96半旅団に所属していたときにこの事件を目撃したとその回想録で主張している。コワニェがこうした件について自ら経験していたのか他の兵士の回想録を使用したのかについての疑問はあるものの、第96半旅団にいた兵はおそらくぶどう園の真ん中で降り注ぐオーストリア軍の弾丸の下にいた筈だ。親衛隊が弾薬を配布したという話はこの資料から出ているのだが、最終的には親衛隊は北方1キロメートルの場所におり、背の高い麦のせいでほとんど見えなかった。1883年に発行された点から見て、コワニェの報告はティエールの"Histoire du Consulat et de l’Empire"(1845年発行)を写したものである。実際、双方とも第10軽竜騎兵を追い払ったのが親衛隊騎兵だと間違って主張している。

 参加者の報告に反論するだけでは十分ではない。プティが見たのは何か? 親衛隊騎兵が前進し、オーストリア軍側から吹き付けてくる砲煙の中で配置に就いた際に、親衛隊歩兵が弾薬配布のために動いたこともあって彼はその姿を見失った。今や正面には第72半旅団の大隊がおり、ランヌの兵たちの退却を支援していた。ランヌはその右翼にゴッテスハイムの前衛部隊の攻撃を受けたため側面守備に第28半旅団を使った。この部隊は弾薬が残り少なく、砲兵もなかったため方陣を組んだ。朝の時点では約1000人の兵力を持っていたこの部隊は、戦闘中に約600人の損害を蒙りながらもどうにか安全なぶどう園まで後退した。第10竜騎兵の大隊による最後の攻撃とともにプティが見たのはこれだった。

・より広い視野で見る

 次に、他の資料を調査しなければならない。いくつかのフランス側資料は異なる物語を示している。退却を掩護していた騎兵部隊を指揮するケレルマンは、1828年に出したパンフレット"Refutation sur le Duc de Rovigo"の中で「執政親衛隊が自らを犠牲にし、奔流を止めようと無駄な足掻きをしている」のを見たと言っている。親衛隊の損害は、その正確な数についてはいくつかの見解があるものの、恐ろしい戦闘が行われたことを示している。フォドラスは僅かな損害と主張しており、ミュラは121人が死傷したと認めている。Ingenieur Geographiqueのブロッシエールはその報告(De Cugnacの本に掲載されている)で「少なくとも258人」と述べており、プティの260人とローリストン(ボナパルトの副官)の示した3分の1という数字とおよそ一致している。この数字はしばしばプティが戦闘開始時点として示した500人という数字の説明に使われている。この数字と生存者を足せばおよそ800人になるという訳だ。しかし、ほぼ同じ規模で大砲を4門持っていたオーストリア軍の第51歩兵連隊(親衛隊と同様に戦いの後半になって戦闘を行った)は、同じ射撃戦に参加しながら終日合計で89人の損害と21人の捕虜しか出さなかった。

 プティの証言と異なり、オーストリア騎兵による親衛隊への攻撃はたった2回しか行われなかった――第10竜騎兵とフリモントの前衛騎兵(Bussy Jaeger zu Pferdの2個大隊とカイザー第1竜騎兵連隊の第3、第4大隊)による奇襲だけだ。オーストリア側の主要な目撃者であるヨーゼフ・シュトゥッテルハイム少尉(アウステルリッツと1809年戦役の報告を記したカールの兄弟)はオットの参謀であり、シェーレンベルク縦隊がランヌの部隊へ行進した際にそれに加わっていた。1811年に記され、1823年に僅かに改訂された目撃報告の中で、彼は第51歩兵連隊が横隊を形成した親衛隊に対して射撃・前進攻撃を仕掛け、15分間の射撃戦が続いた様子を描写している。オーストリア軍が親衛隊に対する銃剣突撃をしようとした時に南方からフリモントが騎兵4個大隊を率いて現れ、迂回して親衛隊歩兵の左後方を衝いた。横隊のまま奇襲を受けた親衛隊の大半は降伏し、僅かなグループだけが東方に逃れた。シュトゥッテルハイムは以下のような指摘をしている。「著者はこうした事実を全て自身で目撃している。この指摘に対して何らかの反論を提示できるかどうか、マレンゴで執政親衛隊に所属していた者全てに要求したい」。この問いかけに答える者は現れなかった。

 上の指摘とは独立したものとして、カイザー第1竜騎兵連隊の誰かが残した手記(連隊史にも採録されている)が攻撃の様子を描写している。フリモントは彼の4個大隊(第1竜騎兵連隊の2個大隊とBussyの2個大隊)を集め、隘路の背後に何があるかを確認するため縦隊で前進するよう命じた。経験豊かな騎兵指揮官であるフリモントは北方にいる親衛隊の配置を見て彼らの側面を攻撃した。フランス側の報告はBussyの存在を裏付けており、彼らは親衛隊の大砲を奪ったと見られる。メラスの戦闘後の報告ではたった2人の士官の名が上げられている。フリモントとBussy大隊の指揮官であるデーゲンフェルトで、後者はこの功績でマリア・テレジア騎士十字勲章を下賜された。第1竜騎兵連隊で勇敢な行動により賞された10人のうち7人はフリモントと一緒に行動した第3、第4大隊の者だった。

 ボナパルト自身の前進命令にもかかわらず、第72半旅団の大隊は親衛隊の敗北によって生じた戦線の穴を埋めるためぶどう園から出ることを拒んだ。参謀長デュポンの副官だったレオポールから話を聞いたミュラがやって来て「将軍、今は退却すべき時です」と言った。気落ちしたボナパルトは「私もそう思う。分かった、退却しよう」と答えた。これは、部下の兵が敵の前進を止めたばかりの指揮官が取るべき行動ではない。親衛隊の崩壊後、勝利を確信したオーストリア軍の指揮官メラス将軍はアレッサンドリアへと戻った。それから二時間とたたないうちに、同じ現象が立場を変えて繰り返された。横隊を組み、ほぼ同規模の第9軽半旅団と近距離で射撃戦を行っていたオーストリアの擲弾兵部隊は、まったく予想しなかった方向から現れたフランス軍騎兵部隊に左側面を完璧に奇襲された。短時間の戦闘でオーストリア歩兵の大半は降伏し、右翼の大隊(パール)は殆ど戦うことなく軍旗を持って逃げ出した。

 夕方の戦いで、このおよそ400―500人の部隊(残っていた中では最も大きな部隊の一つ)がフランス軍の最右翼に動いた。その地区でオットの部隊との間で行われた戦闘については記録がない。15日早朝に捕虜が交換された時も、熊皮帽がなかったため親衛隊と他の歩兵との区別はつかなかったし、20日になるまでその兵力は戻らなかった。

・嘘と真実

 最後にこの物語が後にどう展開したかを調べよう。シュトゥッテルハイムによると部隊に戻って兵力回復に使われた捕虜はおよそ400人いたという。彼は「戦闘の少し後…親衛隊の士官の何人かは僅か100人だけが逃げ出すのに成功したと告白した」のを聞いた。従って捕虜交換後の兵力は500人だったことになる。

 ボナパルトはこの事実を隠すため、マレンゴ農場にいた第43半旅団の残存部隊(都合よく約400人いた)がオーストリア騎兵の捕虜になったことを指摘した。味方から見捨てられた結果だったにもかかわらず、この部隊の名前が知られていない指揮官は持ち場を放棄したとの理由で軍法会議にかけられた(De Cugnac, I p.493) 。オーストリア軍の報告が一致して全部で3000人の捕虜を得たと主張しているのにもかかわらずナポレオンはこれを無視しているが、他の目撃者もいる。第23歩兵連隊の士官であるヴェンツェル・ラウヒは、彼が配置されていたフォンタノーネ川を渡る小さな橋の近くで少なくとも1000人の捕虜が通り過ぎるのを見たと述べている。おそらくこの数字は大げさすぎるだろうが、負傷者は車両で運ばれるか戦場に置き去りにされたのであることを考えるのなら、この数字は追加的な捕虜の存在によってのみ説明できる――他に大量の捕虜を出したのは親衛隊しかなく、そのうち400人は負傷していなかった。第1竜騎兵連隊の2個大隊はいずれの戦闘行動にも含まれていたが、農場への攻撃はメラスとラデツキーが率いたものであり、しかもその時にはBussyははるか北方でポインター・ルナールとその大砲へ向かっていた。

 ナポレオンが「人間はこんな安ぴか物のために行動する」と話した賞賛品がもう一つの話を伝えている。ヴィクトールが提供した最初の賞賛品リストによると、親衛隊歩兵は6つの「名誉の武器」と2つの「名誉のドラムスティック」を受け取っていた。より優れた部隊は10―15個を受け取っており、4月の段階から徴集兵のみで構成されているとナポレオンに指摘されていた第30半旅団のような部隊でも5個は受け取っていた。しかしその1ヵ月後、パリの凱旋行進の直前になって親衛隊歩兵が受け取る数は突然倍増した。1907年にはLes Trophees de la Franceのヴリヨンが擲弾兵ドゥルセットが敵の軍旗を奪ったと主張しているが、ドゥルセットの名は賞賛された兵のリストには入っていない。

 第一執政ナポレオン・ボナパルトはマレンゴの戦場に全てを賭けており、彼と最も深い関係にあった部隊の運命は彼の名声に大きな影響を与えた。第28半旅団の行動が親衛隊に移植され、その間に主力部隊は敗走する群集になっていたかのように描かれた。繰り返すが、方陣を組んだ親衛隊の物語はナポレオンの巧妙な「ごまかし」の産物でしかない――それは歴史ではなく、他のフランス兵を過小評価するものである。



 この文章はおよそ1年前に書かれたものであり、それ以降になってさらに調査が必要であることが明らかになった2つの事例について付け加える必要があるだろう。

 1)プティの脚注に加えられたBussyが熊皮帽をくるくる回したという話は、実はフォドラスがプティを英語に翻訳する際に挿入したものだった――我々の多くがこの潤色された話に親しんでいるが、この話を加えたのはプティでなくフォドラスだったのだ。"British Military Library"にある論文はフォドラスの名前で書かれているが、おそらくそれは翻訳だろう――私はそのフランス語の原文を見ていないが、間違いなくフォドラスはその双方に関与している。

 2)コワニェが親衛隊騎兵に関する主張をどこから持ってきたのかはさらに調べられる必要がある――我々が既に論じてきた通りだ。おそらくこの話はティエールから引用されたものではないだろう。この物語が真実でないことは、フランスとオーストリアの他のあらゆる報告にないことからも間違いない。



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